橘玲「(日本人)」(4)

 
 橘氏のこの本をあちこちつまみ食いして論じているが、今回は(1)で論じた「グローバル」前半に続いて、第2部「グローバル」の真ん中にある「「正義」をめぐる哲学」と「アメリカニズムとは何か?」の2章をみていく。
 
 まず、おそらく藤井直敬氏の「つながる脳」を論拠に、チンパンジーにも「所有権」の概念があり、「公平」の概念があり、「上下関係」の概念があることがいわれる。ということは、これらは進化論的な根拠をもつ生得的なものであるということである。
 フランス革命でいわれた「自由・平等・友愛」のうちの友愛とは共同体のことを指す。
 われわれは正義の感覚をもっている。しかし伝統的な正義の感覚は近代的な正義の感覚とは異なるもので、いわば勧善懲悪的なものである。“俺たち”は善で、“奴ら”は悪。正義とは“俺たち”が“奴ら”を倒すこと。これは上記のように進化論的な裏付けをもち強固である。
 この正義感は普遍的なものではなく状況依存的であるので、戦国時代では下克上は悪とはされなかった。今でもハリウッド映画には、世は悪によって支配されているとか、自分たちはその悪を倒す使命を帯びているといったストーリーが当たり前に展開されている。
 こういう正義はローカルなものである。なぜならばグローバルな世界で、誰もが伝統的な正義を主張するならば、殺し合いになってしまうからである。
 それを避けるため、近代的な正義は「原理主義」的なものとなる。正義はいついかなるときにもどこででも成立する普遍的なものとならざるをえない。多種多様な人々が共存して生きるためにはそれが必須となるのである。
 近代的な正義は“俺たち”の正義ではなく“私”の正義となる。社会は“俺たち”と“奴ら”からなるのではなく、“私”の集合体となっているからである。これはいうまでもなくフィクションである。しかしこういう作り話なしには近代社会の秩序は保てないのである。
 
 サンデルは「正義」には4つの異なる立場があるという。1)リベラリズム 2)リバタリアニズム、3)コニュニタリアニズム 4)功利主義 である。
 1)と2)は自由を原理とする点では同じ基盤にたち、自由な個人による市民社会を前提としているが、平等をどう見るかでは対立する。2)は競争の結果の不平等を否定しない「小さな政府」の立場であるが、1)は富者と貧者の極端な格差は正当化できないとして、社会保障を正義と考える。3)はひとは共同体のなかでしか生きられないとし、正義の源泉は共同体の歴史と伝統のなかにしかないとする保守主義の立場である。
 以上の1)〜3)の立場はチンパンジーにもある感情を基礎にする進化論的な根拠をもつものであり、近代の啓蒙思想もこれらの感情を理論としたものなのである。
 しかし4)の功利主義は「最大多数の最大幸福」という理性的な判断によって社会全体の効用を最大化していこうという思想であり、そもそも貨幣経済のないところでは成立しないきわめて新しい思想である。それは進化論的な基盤を持たないから、われわれは功利主義を頭では理解できてもそこから正義感を感じとることができない。それが功利主義がさまざまな陣営から嫌われる原因となっている。功利主義はリバタニアニズムと一番相性がよく、最近では新自由主義ネオリベ)と呼ばれる潮流と通じている。
 1)から4)を同時にみたす解は存在しない。したがって、政治哲学はどれをえらびどれを捨てるかをめぐっての争いとなる。
 ポスト冷戦の状況では、1)リベラリズムのなかの「リベラル左派」は日本でいえば共産党社民党である。3)コミュニタリアン右派は石原慎太郎路線であるが、左右の極端派は市場原理主義の否定という点では立場を同じくする。
 現在の政治の主流は2)のリバタリアン右派(コミュニタリアン左派?)とリバタリアン左派(リベラル右派?)という「中道」派である。中道右派アメリカなら共和党中道左派民主党である(もちろんこのように単純化はできないが)。
 それに対して、日本ではいまだに「正義」は状況依存的で、政治家の立場も時と場合によって変わるのは当然とされている。だから「正義」をめぐる議論が生じる余地がない。「ムラ社会」型の意思決定がおこなわれているところでは合意が大事であって、理屈は二の次になるのである。
 グローバル空間には絶対のルールがある。人種差別的発言は許されないということである。私的空間、身内同士であれば、これは構わない。白人が内輪で人種差別的ジョークをいうことには何の問題もない。しかしグローバル空間では、それは絶対に許されない。
 グローバル空間ではローカルルールはグローバルスタンダードに対抗できない。多民族が共存するような場では、それに適した新たなルールに従うしかない。これは正しいかどうかの問題ではなく、そうするしかないことでなのである。
 アメリカの能力主義は「能力以外で労働者を差別してはならない」というグローバル空間でのルールのことである。人種や宗教、性別や年齢で差別することはアメリカでは許されない。だからアメリカでは定年がなく、履歴書には生年月日を書く欄も、人種が一目瞭然となる写真を貼る欄もない(しかしイスラム系の名前は明かに差別されているが・・)。
 では何によって雇用しているひとを評価するのか? 能力しかない。
 日本の年功序列・終身雇用の制度は年齢と性別で社員を選別する仕組みである。もしも企業がグローバル化したら、これを維持できないのは自明である。もともと多民族国家であるアメリカは(理念的には)すべての制度がグローバルスタンダードでつくられている。
 フランス革命で「友愛」とされた言葉は、もともとは中世のイングランドで流行した民間の宗教団体のことで、キリスト教信者の間に自然発生的に生まれた互助会のことである。それが次第に宗教性を失い、同じ目的を持つ者同士の「連帯」を意味するようになった。フリーメイソンもその一つである。これは血縁や地縁によるムラ社会的な共同体ではない、自立した個人の集合なのである。
 それならばコミュニタリアンの奉じる共同体とは何なのか?
 個々の伝統には等価の価値があるという文化多元主義の立場もあるが、これは9・11の後では力を失った。サンデルは文化相対主義を否定する。サンデルの奉じる伝統とは「アメリカ建国の理念」のことなのである。つまり、リベラルデモクラシーに基礎をおく近代的共同体のことなのである。近代の思想である。ただ、個人よりも共同体に重きをおくという立場の近代思想なのである。
 アメリカ人の特徴は「傲慢」である。彼らは自分たちのスタンダード(アメリカ建国の理念、すなわちリベラルデモクラシー)に宗教的な確信を抱いている。それは、1)イギリスからの独立、2)第二次世界大戦での勝利、3)冷戦のの終結、という3つの成功体験によっている。
 ネオコンといわれる新保守主義の人たちは、共産主義との戦いの勝利がアメリカの道徳的な正しさを証明したと考えた。だからそれを世界中に広めようとした。それは選民思想にまで近づく。ベトナム戦争イラク戦争などアメリカの正義の暴走は多々あるが、上記の3つは近現代史のエポックであることは間違いない。そこからアメリカの“善意と傲慢”が生まれる。
 アメリカ人は、リベラルデモクラシーと自由経済が人々を幸せにすると本気で信じている。だからアフガンやイラクへの介入で、タリバンフセインからひとびとを解放すれば、すぐにでも自由で民主的な政府がうまれ、市場経済でひとびとが豊かになると本気で考えていた。「アラブの春」をみればアメリカの信念が完全に誤っているとはいえないのだが・・。
 アメリカは第二次世界大戦で“正義の救世主”となった以上、人種差別を続けることはできなくなった。60年代には男女平等も無視できなくなった。アメリカは植民地の民族自決も支持せざるとえなくなった。植民地政策に終止符が打たれたことは現代史での非常に大きなエポックである。だからイスラエルを支持するアメリカは苦しい。道徳的にはアラブ側が正義でなのである。
 ソ連が崩壊した今、唯一の16世紀型の帝国が中国である。ムスリムの宗教共同体も大きな力をもってきている。しかし「中華」思想も、原理主義イスラムもグローバルなスタンダードとはなりえない。われわれはリベラルデモクラシーに変わる普遍的な価値観を持っていない。
 グローバル化とは、人々の欲望と正義感によって、グローバル資本主義とリベラルデモクラシーが世界を覆っていく永久運動のことである。グローバルな空間においてはローカルな正義を主張しても勝ち目はないのである。
 
 橘氏の主張の一番の根っこにあるものは、世界は必然的にグローバル化していくのであり、われわれはそのルールでいくしかないということであるように思える。そしてやはりグローバルといわれるものは西欧スタンダードであるように思える(アメリカ・スタンダードであるか西欧スタンダードであるから擱いておくとしても)。橘氏がいうように、中華思想イスラム原理主義もグローバルスタンダードたりえない。偉大なるロシアというのも同じであろう。しかし、現状、世界は、イスラム圏・中華圏・ロシア圏などが力を持ってきており、グローバルスタンダードの方へ収斂しつつあるようにはとても見えない。
 本書を読んでなんとなく思い出すのがF・フクヤマ の「歴史の終わり」で、これは冷戦の終焉の時点で世界は西側の価値観に収斂していくということを主張していた。もっともこの本は確か原題が「歴史の終わりと最後の人間」だったはずで、「最後の人間」というのはニーチェの「ツァラツストラ」の「末人」であり、西欧は確かに勝利したかもしれないが、そこで生きる人々は「末人」の群れになってしまうかもしれないぞという警告を書いた本でもあった。何しろこの本はヘーゲルというかコジェーブのヘーゲル解釈に依拠した本なのである。冷戦終了後の欧米をイスラム圏からみれば、そこが末人の群れにみえたことは当然で、9・11バベルの塔の崩壊になぞらえられたのではないだろうか?
 フクヤマのこの本はさまざまな方面から批判されバカにもされもしたようであるが、とにかく世界のその後がフクヤマの予言通りにならなかったことは確かで、世界の方向はどちらかといえば、ハンチントンの「文明の衝突」の方向に動いたのかもしれない。もっともハンチントンの論はトッドの「帝国以後」などでこけにされているようである。
 「歴史の終わり」も「文明の衝突」もどちらも最初は「フォーリン・アフェアズ」に発表された論文であったようで、アメリカの外交の方向を考えるという関心は共通していたのだろうと思う。それに対してトッドはアメリカ文明を下にみる文明国フランスの人であるから、アメリカは張子の虎なんだぞといって嬉しそうである。
 わたくしから見ると、一番つまらなく見えるのはハンチントンで単細胞の愛国者というように思えてしまう。それに較べるとフクヤマは一所懸命に“お勉強”をしている人という感じでちょっと健気な感じに思えてしまう。ハンチントンの方は物理的な暴力の単純な信奉者と思えるのに対して、フクヤマは“気概”なんていうので、文学青年崩れのわたくしとしては自分の側の人に見えるのかもしれない。フクヤマアメリカでは少数派なのではないだろうか?
 トッドはそれぞれの地域の相続制度といったことを重視する立場であるから、フクヤマに較べれば“物理派”なのかもしれないが、文化を重視する点においてハンチントンとは対立するのであろう。最近の本は読んでいないが、トッドは反=グローバリズムの立場であるようである。もしもグローバル化がそのままアメリカ化であるとしたら、誇り高きフランス人としてはとても受け入れ難いということかもしれない。
 わたくしは吉田健一に洗脳された人間なので、視野からほとんどアメリカが消えている。健一さんは、「何かアメリカという国もどこかにあるようだね。そういえば前にニューヨークにいったとき、入ったバーがなかなかよかったから、まんざら捨てたものでもないかもしれないね」という“アメリカ黙認派”なので(一言でいえば、「アメリカ=野蛮国」論で、アメリカは歴史がない国で、歴史がないところでは文明も生まれないという説)、アメリカがまともな考察の対象となることがない。
 その受け売りをしているわたくしには、ハンチントンというひとが単純で野蛮なひとに見えてしまう。フクヤマは文明化しようと日々努力している健気なひとという感じであろうか? トッドさんがアメリカをバカにしているやりかたは小気味よく嬉しい。
 ロシアではソ連崩壊後、急速にロシア正教復権してきているらしい。ソ連時代には建前上は「宗教はアヘン」とされていたため地下に潜っていたものが、公然と表にでてきているようである。世界全体が世俗化していくであろうという大きなスパンでの予想は間違っていたのかもしれない。世界が非宗教化し、科学化していくだろうという見通しは間違っていたのかのかもしれない。それとも、トッドがいうように、イスラムなどがいま沸騰しているように見えるのは国が若いからで、いずれは老成していくのだろうか? そのなかで永遠に若い国であるアメリカが奇妙な国として残っていくのであろうか?
 この「(日本人)」の基本テーマは日本が世界に冠たる世俗化した国であるということである。しかし最近の嫌韓・嫌中などの動きをみていると、それが宗教の代替物になっているようにも見える。少なくともそれはローカルな価値である。グローバリズムなど薬にもしたくないという感じである。
 しかし、それにもかかわらず、経済の活動は国境を越え、お金という無色透明なモノが自由に動きまわっている。だが、国民国家という枠組みは少なくとも近未来においては強化される方向はあっても、弱まることはないように見える。世界に冠たるロシア、常にアジアにおいて盟主であった中国、西欧文明という堕落と闘うイスラム・・・。そして現在の文明は徹底的に石油・石炭・天然ガスに依存していて、その分布は偏っている。最近ではレア・メタルである。個々の国々よりもヨーロッパという価値を重んじようとしたEUの行方も混沌としている。
 橘氏によれば、世界が豊かになろうとすれば、分業化すなわちグローバル化するしかない。それに対抗して、(物質的に)豊かになどならなくてもいい、心さえ豊かでありさえすればというような方向が本当にありうるのだろうか? わたくしがわからないのがホメイニ師以後のイランは極端に宗教化しているように見えるが、それは戦時中の日本が外から見れば極端に神がかった神政国家のように見えたであろうように、外からはそうみえるとしても、実際には必ずしもそうではないということなのであろうか、ということである。ホメイニ師以前のイランは世俗化・西欧化の方向で国は動いていたのではないかと思う。それが国民からは支持されず、より政教一致的な国家へと移行したのだろうか? なにしろわたくしはホメイニ師以前のイランには少しも関心がなく、ホメイニ後も「悪魔の詩」などをめぐる出来事をみて、いやだな、そんなところに生まれなくてよかったと思っているだけで、基本的に関心がないのでまったく知識が乏しいままできている。というか、ある時間にある方向に向かって頭を下げて祈りを捧げるというようなことがまったく理解の外にあって、それが終戦直後に皇居前の広場で集まって皇居に向かって遥拝している人々とか毛沢東手帳を手に手に叫んでいる人たち人たちと同じくただただわからないのであり、なんだか野蛮に思えるのである。
 わたくしにはイスラムの世界は男尊女卑の世界のように思える。それでも長い目でみれば女性の識字率の向上によって子供を産むことが女性のコントロールの下にはいり、それによって次第に出生率が低下し、イスラムの熱狂も沈静化していくのだろうか? われわれは外からしか見ていない。中にいればまた別の世界があることは間違いない。アラビアンナイトの世界は高度の文明世界である。イスラム教以前のアラビアには何の歴史もないのではないだろうか? それがその宗教を得てからは世界に参加していくことになる。イスラム教がそこに住む人々にとって今までにないまったく別の世界を提示する豊かな教義を持つものであったことは間違いない。そこにはきわめて豊饒なものがあるに違いないのだが、今そこに住む人々の感情というのがわれわれには見えない。そこにはお金という無色透明なものばかりでなく、ネット情報という01情報のかたまりも飛来しているはずである。わたくしには女性が化粧する心理というのはついにわからないままであろうと思うが、西側の女性から見てイスラム圏に暮す女性はどのように見えるのだろうか? フェミニストたちはイスラム圏の女性をどのように見ているのであろうか? イスラム圏に生きる女性はどうなのだろうか?
 わたくしは、自分をリベラリズムリバタリアニズムのあいだをいったりきたりしている人間のように感じている。個人(私人)としてはリバタリアニズム、職業人(公人)としてはリベラリズムなのかもしれない。医者をしていると、頭では今の医療制度や福祉制度は持たないということは理解できても、はやり金で命が買えるようなことにはならないでほしいと思う。
 20歳ごろに福田恒存にいかれたことから思想に接することをはじめた人間なので、今から思うと最初はコミュニタリアニズムからスタートしたのだと思う。人間は自分を超える何かと一体化したときにはじめて自足できる存在なのであり、個々の人間として一人ぼっちでいるのであれば不全感と孤独感にさいなまれるしかないのだといった方向の論であったように思う。
 その当時の理解によれば、進歩的文化人というのは個性とか個人とかを信じている能天気な可哀想な人間なのだった。後に反=カトリックの闘士(とわたくしが思う)吉田健一にいかれるようになると、福田氏の方向はカトリックの方向なのだと思うようになった。そしてそのようにみれば氏が批判した進歩的文化人というのがプロテスタントなのであった。
 そして最近の朝日新聞騒動は、朝日新聞プロテスタントとして活動してきたことが壁につきあたったということなのだろうと思う。プロテスタントというのは「抗議する人」ということばかりでなく、何が正しいのか知っているひとということでもある。カトリックにおいては神と人間のあいだが遠く、神が何を考えているのかは人の理解を超える。しかしプロテスタントでは人間と神の位置が近く、人間は神が何を正しいとしているかを知りうるのである。つまり朝日新聞は何が正しいかを知っているのであり、朝日新聞の「傲慢」はそこから生じる。過去の誤りを認めたがらないのも当然で、神は間違ってはいけないのである。だから事実認識についての誤りを渋々とは認めても、ことの本質についての理解は決して誤ってはいないということにしなければならない。カトリックでは神ならぬ人は誤りをおかしても当然で、むしろ「過つは人の常。許すは神の技」なのである。現在の問題は朝日新聞を批判するひとたちもまたプロテスタントで、自分が正しいことは夢にも疑っておらずいたって傲慢である点である。
 カトリックの世界では、人間には知りえないとしてもどこかに神の定めた正しい世界があることになる。自然科学の世界ではこれは正しいと思うのだが(そうではなく、これも西欧文明圏のなかでのみ通じるローカルなものに過ぎないという主張も根強くあり、ポスト・モダンの世界では主流であろう。クーンの「科学革命の構造」などもその路線として理解されたのだと思う。ポパーが例外的に科学の世界のひとに支持されるのは科学の世界にいる人のもつ「世界には自然法則があるという」という信念に整合性を持つからであろう)、人間の生きる生命の世界ではそれは存在しないとわたくしは思うようになったため、プロテスタントの否定だけでなく、カトリック的なものも否定するようになってしまい、コミュニタリアニズムからは離れるようになった。
 そういう立場の人間から見ると、少なくとも日本では、時代が極端なコミュニタリアニズムの方に揺り戻しがきているようで、いやな感じである。そのうち「非国民」などという言葉も復活するのではないだろうか?
 本書の著者の橘氏は明確にリバタリアニズムの人である。その伝道の書として本書を書いたのであろうが、時代は氏への逆風の時代になってきているように思う。
 
 「グローバル」の残りの「原発事故と皇太子狙撃事件」と「フクシマの空虚な中心」は別に論じる。
 

(日本人)

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つながる脳 (新潮文庫)

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