今日入手した本

 

「肌色」の憂鬱 - 近代日本の人種体験 (中公叢書)

「肌色」の憂鬱 - 近代日本の人種体験 (中公叢書)

 最近いろいろなところで取りあげられているようなので、読んでみようかと思って。
 この本は著者にとっての最初の単著であるらしい。まだ最初の内村鑑三のところを読んだだけであるが、いろいろとわたくしの知らなかったことが紹介されている。おもしろそうである。
 ただ著者の肩に力が入りすぎているのか、少々文章が硬く、微妙に日本語としてどうかなと思うところもある。たとえば「まえがき」の「身体は目に見える自己である。・・そのため、自他ともに圧倒的な影響力を持ち続けてきた。」 「自他ともに」は「認める」とワンセットで成句として用いるのが普通なのではないだろうか? ここは「自分にとっても他人にとっても、圧倒的な影響力を持つものであり続けてきた」とでもするほうがすわりがいいのではないかと思う。そのようなところが散見する。
 それから「あとがき」の末尾、「最後に両親に感謝を述べたい。・・このような最愛の両親とめぐりあえた最大の幸福に感謝し、筆を擱きたい。」 どうもこういうのが苦手である。正直にいうと蕁麻疹がでそうな感じになる。いろいろな本のあとがきによくある「最後に、この本の執筆中、黙々と私を支えてくれた妻の○○子に大きな感謝の意を表して筆を擱きたい」というようなのもみんな駄目で、本を書くというのは公的なことだから、資料を提供してくれた人や編集者に謝意を表するのは少しも問題はないが、家庭内という私的なことを、本という公的な場に持ち込むのはいかがなものかという気がどうしてもしてしまう。孫の写真を誰彼となく見せたがる人に感じる違和感に近い何かだろうか? それに「最愛の両親とめぐりあえた最大の幸福」というのも日本語としてどこかおかしい気がする。
 膨大な引用文献から見ても、非常に多くの資料を渉猟した力作であることは間違いなく、最近の日本の一部のひとが中国の人や韓国の人にしめす感情の背後にあるものを考えてみる上でも貴重な視点を提供するものであるのだろうと思う。
 読み通すつもりであるが、もう少し刈り込んでコンパクトにできたのではないかという気もする。400頁弱と叢書としては相当に大部の本である。
  唐木順三の本はこれまでちゃんと読んだことがない。「型の喪失」というような言葉を知っていただけである。それでその「型の喪失」の部分だけ、とりあえず読んでみたら、鷗外論から始まっていたのでびっくりした。てっきり「型から入る」といった、意よりも型というようなことが論じられてものなのだろうと想像していた。文章が平明で読みやすいのにも驚いた。一昔前の保守のひとの論を少し読んでみようかと思う。どうも最近の保守のひとは薄っぺらな人が多いように思うので。
  最近の脳科学からみればフロイトなどインチキとしか思えないし、ユングなど完全なオカルトである。にもかかわらず、そういって切り捨ててしまえない何かがありそうな感じがあるのも事実である。本書はフロイトユングをその時代の西欧の知識人たちとの関係のなかでみていくというものらしい。実は、末尾の鷲田清一氏の「解説」を立ち読みして買う気になった。
 
新東京風景論 箱化する都市、衰退する街 (NHKブックス)

新東京風景論 箱化する都市、衰退する街 (NHKブックス)

 まだここに収められた写真をパラパラと見ただけで、本文はほとんど読んでいない。昭和34年の六本木交差点などという写真がある。わたくしが中学に入ったころというのはまだこんなだったのかなあと思う。
 子供のころは家の前の道路は砂利道で、それがいつのまにか舗装され、石炭で走っていた?ドアがなくチェーンだけのバス(それにはバスガールというのがのっていて切符を売っていた)にも、いつかドアがつき、ガソリンで走るようになった。ワンマンバスというのをはじめて見たのは高校時代で、奈良に旅行にいったときであったが、どうやって乗るのかわからなかった。などと懐古懐旧をするようになったら人間もうそろそろ終わりなのかもしれないが、著者もちょっと読んだところではかなり懐古的である。わたくしより10歳は若いひとなのだけれど、そういう時代になってきたのだろうか?