井上章一「日本に古代はあったのか」

  角川選書 2008年7月
  
 なんとも奇妙な本である。はじめ冗談だと思って、面白がって読んでいたら、どうも本気らしいということがわかって、少し引いてしまった。
 井上氏がこの本でいわんとすることは、京都は東京より優れている、狭義には京大は東大よりすぐれている、あるいは公家は文明で、武士は野蛮、要するに、西がすぐれていて東はだめ、それなのに明治以降、東京が首都になったということだけのために、東が根拠もなく大きな顔をしている、けしからんという話なのである。
 もっといえば、京都の文明は中華文明と連動した世界史の中に位置づけられる立派なものだが、関東のそれはローカルな辺境のできごとにすぎない、ということでもある。
 本書を読んでわたくしがまぎれもない「関東史観」の持ち主であることがわかったが、それはわたくしが東京生まれの東京育ちであるからなのであろうか(江戸っ子ではないけれでも)。ちなみに井上氏は、京都生まれの京大卒。
 わたくしが何で「関東史観」の持ち主となったかを考えると、それはもっぱら山本七平氏の感化によるものだと思う。山本氏の「日本人とは何か。」は伊達千広の「大勢三転考」に依拠したものであるが、陸奥宗光の父である伊達千広は、徳川にいたるまでの日本の歴史を「骨(かばね)の代」「職(つかさ)の代」「名の代」の三分したのだそうである。「骨の代」とは「制なき時代」すなわち人為的な制度がまだない時代であり、「職の代」とは大陸の影響による律令の時代であり、上からの改革の時代、「名の代」とは下からの勢力が次第に強大になる時代であり、1185年の頼朝が六十余州総追捕使になったときからを指す。
 井上氏が反発するのは、この平安と鎌倉の間で大きな時代の変化があったとする見方なのである。この見方は平安までの貴族の時代が停滞の時代、鎌倉以降の武士の時代を躍進の時代とする。それが許せないのである。武士などという暴力団の親玉のような粗暴な教養のない連中が権力を握ったのがなぜ画期になるのだという。
 わたくしが山本氏から植えつけられたのは、武士とは武装農民であり、地場の人、土地に根づいた人、一所懸命の人であるということなのだが、それを井上氏は否定する。武士もまた農民を支配する野蛮な権力者にすぎないとする。
 わたくしは京都の公家は荘園というのはただ税を上納してくる場所という認識だけで、現場には一切関心をもっていなかったのに対して、武士は自分の土地にだけ関心をもつ現場の人であったという認識をもっているのだが、これもまた山本氏に植えつけられた偏見なのだろうか?
 山本氏が徹底して重視するのが貞永式目(関東御成敗式目)である。原典にあたらずに書くのは無責任であるが、山本氏によれば、それは脱中国の日本の固有法であって、徹底して土地争いをどうあつかっていくかだけを記したものである。そして鎌倉幕府というのは土地争い(本領安堵)の調停機関(それもある程度の公平を期待できる)としてのみ機能していたのであって、それ以外の「政治」などは京都にまかせていたのではないだろうか? 
 この鎌倉以来の現場の感覚をわれわれも受けついでいて、会社が株主のものだといわれても一向にピンとこず、会社は社員のものだろうとするのはそのためであると思う。そしてもちろん平安時代律令制の感覚もまた、現在まで官僚制というかたちで脈々と受けつがれていることは、橋本治氏が縷々説くところである。
 本書では山本七平氏の名前は一切出てこないが、ほぼ山本氏と同じ方向の主張をしているものとして攻撃されているのが司馬遼太郎氏である。司馬氏は西の出身でありながらそういう主張をするとは裏切り者である、といった言われようである(そういうことが必ずしも冗談ではなく言われているように読めるのが本書の異様なところである)。
 司馬氏は「関東で勃興してくる土地リアリズム」ということを言っている。山本氏も司馬氏も軍隊経験をして、軍隊のリアリズムのなさに辟易したことが、その後の思考を決定したひとだと思う。軍隊は官僚制そのものであった(実際よりも形式、員数あわせの世界)。最近、養老孟司氏がさかんに言っている「モノから起こす」というのも、司馬氏のいうリアリズムに通じるものだと思う。
 日本軍がなぜ石油問題を無視したのか? それは高級な軍人が何よりも重視したのが爵位であり勲章であったからである。位階である。公家の最大の武器は位階の贈与であった。現代の日本でもまだ「平安」と「鎌倉」の争いは続いている。そして、司馬氏も山本氏も日本が生き延びる道は「鎌倉」であるとしたわけである。
 時代区分というのは、あくまで現在から見てなされるものだと思う。西洋史の時代区分の古代・中世・近代というのも、キリスト教以前・キリスト教時代・キリスト教以後なのだと思う。それは西欧においてキリスト教が徹底的に大きな影響をもったからこそ意味をもつ区分である。そう考えれば、伊達千広による日本史の時代区分は、現代から見ても有効である。だからこそ山本氏もそれをもとに日本史を考察することができた。
 京都が偉いかどうかというような話が時代区分の根拠になるはずはないと思う。井上氏によれば、京都の文明がつねに日本を牽引してきたということなのかもしれない。しかし、京都が日本の歴史においてあたえてきた悪い影響というのもあるので、それは武士の質実剛健に対する公家の軟弱というようなことはなく、モノではなくカタチという発想だったのではないだろうか? いわば、京都は文科系で東京は理科系なのである。
 などというのはとんでもなく単純化したものいいであることはよくわかっているつもりであるが、それでも、哲学に「京都学派」がでたのは、まったく理由のないことではないかもしれない。
 

日本に古代はあったのか (角川選書)

日本に古代はあったのか (角川選書)