橋本治さん追悼

 橋本治さんが先月29日に亡くなったらしい。新聞をとっていないので今日まで知らなかった。ネットでも、記事の片隅にでもでていたのだろうか? 
 近年、血管の炎症性疾患に罹病していたときいているので、それによるものなのだろうか?
 氏は1948年3月生まれであるから、わたくしのほぼ1歳下なので、70歳で亡くなったわけである。
 わたくしも橋本氏の名前を知ったのは1968年の例の東大駒場祭のポスター「とめてくれるなおっかさん 背中の銀杏が泣いている 男東大どこへ行く」によってであった。今から思えばその頃がおそらく最盛期であった学生運動に対する卓抜な批評であると思ったが、才人というのがいるのだなというような感想を持つにとどまった。
 10年後の1977年に「桃尻娘」でデビューしたときは、そのタイトルをみていかにも受けをねらったあざとさのようなものを感じ「とめてくれるなおっかさん」で一発あてた才人が、また何かやっているな程度の感想で、読んでみようとは思わなかった。
 1987年に「桃尻語訳 枕草子」がでたときは、二番煎じ、三番煎じと思って情けないことをしているなと思った。
 氏の本をはじめて読んだのは1995年の「宗教なんかこわくない」で、これは前年の地下鉄サリン事件をふくむオウム真理教の問題を中心に論じたもので、一読、完全に打ちのめされた。以後、氏の書くものを読んでいくきっかけとなった。わたくしが常々不思議に思っていた多くの知識人が抱く宗教への奇妙な劣等感を一切持たない明晰な論で感嘆した。「宗教とは、この現代に生き残っている過去である」とか、「宗教とは、近代合理主義が登場する以前のイデオロギーである。だから、近代合理主義が登場した段階で、宗教の生命は終わるのだ」とか強い断言が並んでいて驚いた。
 近代合理主義は利害損得については明確な回答を出せる。しかし、それを超えた魂といった領域、生とか死とかについてかかわる領域は、近代合理主義の出番はなく、そこからは宗教を代表とする何らか超越的なもの、理屈を超えるものに委ねるほかはないというような考え、平たくいえば、世界を物質と魂にわけ、物質は近代合理主義の担当であるが、魂については合理主義の出番はないというような見方がごく普通にあるところに、「近代合理主義が登場した段階で、宗教の生命は終わるのだ」といいきる論に圧倒された。「キリスト教も仏教になる」とか、「ゴーダマ・ブッダの得た悟りとは、近代合理主義の開祖であるフランスのデカルトの「我思う、ゆえに我あり」に近いのである」と驚くようなことがいろいろと書いてあった。大乗仏教について「人間というのはどうしてそんなに物事を複雑にしてしまうのか」と言い切っているのにも驚嘆した。わたくしが唯識であるとか阿頼耶識であるとかという言葉を知ったのは三島由紀夫の「豊穣の海」によってであるが、三島が懸命に説明しているのを読んでも何が何やら少しもわからなかった。
 とにかく「宗教なんかこわくない」を読んで、ここに一人の自分の頭で考えているひとがいるということを感じ、以後、氏の書くものに目を通していくことになった。
 次に読んだのが、「貧乏は正しい!」シリーズではなかったかと思う。これは1993年からの刊行なので、遡って読んだのだと思うが、この「17歳のための超絶社会主義読本 貧乏は正しい!」を「ヤングサンデー」というようなマンガ雑誌に黙々と書き継いでいた橋本氏に頭が下がる。当初、一回原稿用紙6枚、見開き2ページだったものが途中から3ページになったと書いてある。
 この連載は91年6月からということで、その8月にソ連で保守派によるクーデター事件があって、それが同時並行でかかれている。「まだ戦車が通用する世界」と「もう戦車が通用しない世界」があるのだが、そのクーデター前後の日本のジャーナリズムの反応は、今はまだまだ戦車が通用する世界と思っているとしか思えない反応であった、と。さらに左翼思想の欠点が‟自分のため”を考えなくなったことであるという指摘もしている。今でも覚えているのが「井戸の掘り方を知っているかい?」という章である。もしもガスや水道がとまったら井戸を掘れ!という発想。
 そこから先、何をどのように読んでいったかは、もう覚えていないので、以下、順不同で記す。
 ちくま文庫化されてから読んだ『青空人生相談所』も面白かった。これは多分に質問も自分で創作している嫌疑がありそうな本なのだがそれでも。たとえば「老人ホームに行ったおじいちゃんのことでの相談」。いささかふざけたところでは「ブス嫌いの教師候補氏からのご相談」。その回答の頭。「ブスが何故ブスかというと、バカだからです。バカじゃなかったら、ああいうのが平気で生きていける筈はありません。」 あるいは真面目なところでは「妊娠初期に風疹にかかってしまった二十四歳女性からのご相談」あるいは「子供のことを可愛いがることができない、生活に絶望的な主婦からのご相談」。
 あと、「デビッド100コラム」と「ロバート本」という、そのころ流行っていた「0011ナポレオン・ソロ」というテレビの番組の主演俳優名にひっかけただけのコラム集。橋本氏の歌舞伎好きから生まれたのであろう「完本 チャンバラ時代劇講座」。「貞女への道」という反時代的な本。
 「ぼくたちの近代史」は大学紛争(闘争)というものをこれ以上うまく述べた本はないと思う。
 「江戸にフランス革命を!」は近代のひとではなく近世のひとである橋本治氏の面目が躍如となっている本であると同時に最近の江戸ブームの方向にも敢然と水を指している本。
 「'89」は昭和の終わりを実に興味深く論じた本。氏が元気であれば平成の終わりについてもユニークな本を書いてくれたのだろうか?
 「ひらがな日本美術史」 わたくしは美術の方面にはほとんど関心がないが、そのわたくしにも実に面白く読めたユニークな本。
 「ハシモト式古典入門」 こういうタイトルの本であるが、大部分の国文学者を蒼白にさせるであろう恐ろしいことがいろいろと書いてある本。
 「ああでもなくこうでもなく」のシリーズ。「広告批評」をこれを読むために買っていたひとも多いのではないか?
 「二十世紀」 20世紀の終わりにかかれた卓抜な通史。
 「「三島由紀夫」とはなにものだったのか」 近代の日本の知識人(あるいは世界の知識人)の生き方への根源的な批判。「塔のなかの王子様」というのは三島のことを差すだけでなく、ほとんどすべての日本の知識人を差す言葉なのであろう。
 「権力の日本人」などの「双調平家物語ノート」 双調平家とか窯変源氏とかはわたくしはまったくだめだったが、そこから生まれた「権力の日本人」「院政の日本人」などは、今でも日本を根っこのところで支配しているものを剔抉した労作であると思う。
 「失われた近代を求めて」 日本の私小説への根源的な批判。
 後、「月食」という戯曲も面白かった。
 ただ一つだめだったのは氏の書く小説で、「ふしぎとぼくらはなにをしたらよいかの殺人事件」だけは何とか読めたが、「巡礼」「橋」「リア家の人々」すべてだめだった。登場人物をあやつっている橋本氏の手が見える感じで、登場人物が作者の意図をはなれて動き出すところが小説の醍醐味であると思っているわたくしには楽しめなかった。
 若いときに膨大な借金を背負って、たくさん書かざるをえないということもあったのであろうが、近代よりも近世に親近を感じる独自の感受性が氏の存在をユニークなものとしていたのだろうと思う。「上司は思いつきで物を言う」での埴輪製造会社のエピソードなど、日本の会社社会の前近代性を実に見事に剔抉していた。
 手許には氏の本が数十冊あると思う。少しまた読み返してみようかと思う。

宗教なんかこわくない! (ちくま文庫)

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青空人生相談所 (ちくま文庫)

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デビッド100(ヒャッ)コラム (河出文庫)

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ロバート本 (河出文庫)

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完本チャンバラ時代劇講座

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貞女への道 (河出文庫)

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ぼくたちの近代史 (河出文庫)

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江戸にフランス革命を!

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ひらがな日本美術史 1

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ハシモト式古典入門―これで古典がよくわかる (ゴマブックス)

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ああでもなくこうでもなく

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二十世紀(上) (ちくま文庫)

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「三島由紀夫」とはなにものだったのか (新潮文庫)

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権力の日本人 双調平家物語 I (双調平家物語ノート (1))

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失われた近代を求めてI 言文一致体の誕生 (失われた近代を求めて 1)

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月食―RAHU

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上司は思いつきでものを言う (集英社新書)

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