富田武「歴史としての東大闘争 - ぼくたちが闘ったわけ」

 東大医学部の同窓会である鉄門倶楽部の同窓会誌「鉄門だより」では、最近の何号か「東大紛争」についての特集というか、それについてのさまざまなひとの寄稿がのせられている。このことについて論じるときにまず直面する厄介な問題があつかう対象を東大闘争と表記するか東大紛争と表記するかということで、そこからすでにそのことに対する論者の姿勢が問われることになる。
 「鉄門だより」がそれを東大紛争と表記しているのも考えさせるものがあるが、そのような特集を組んだのは、「東大紛争」から50年という時間がたったということによるらしい。本書もまた大学闘争から50年ということがあって書かれたものということのようである。
 著者は東大闘争と表記する時点で当然ある立場をとっているわけであるが、正直、本書を読んでなにを主張しようとしてこれを書いたのかが少しも理解できなかった。ということで以下に書くことは悪口ばかりになると思う。悪口を書くなどというのは非生産的な行為で、それくらいなら書かないほうがいいわけであるが、以下に書くことは著者への批判というより著者もふくむ全共闘運動にかかわった人々の一部にみられるある傾向が本書にきわめて顕著に表れているように思えるので、それについて考えてみたいということである。その「ある傾向」というのは、著しい自己への批評の欠如(全共闘世代の用語でいえば自己批判の欠如)であって、本書を通じて著者がいっていることは、今まで自分がしてきたことは、どの時点においても間違っていなかったということだけのように思える。そのようなことのためだけに一冊の本を書くというのは、書物の公共性に反すると思う。自分はこう考えるが読者はどう思うだろうか?、と問うのが著書を表すことの意味であって、自分は常に正しかったという趣旨の本に対して読者がそんなことはないぞという批評を返したところで、著者はそれはあなたの読み方が悪いと返してくるだけである。一言でいえば、本書は開かれていない。自閉している。
 本書は「はじめに」「1.東大闘争の経過と思想的意味」「2.反戦運動と生き方の模索―闘争前の東大キャンパス」「3.ノンセクト・ラディカリズム論-共感と批判を込めて」「4.その後の運動とソ連崩壊―「新しい社会運動」か」「5.大学闘争はいかに研究されたか」「おわりに」の7つの部分からなる。
 1.は10年前に書いた論文で、「我ながらよくできている」のだそうであるが、それが客観的叙述に徹しているので、そこに同時期の著者の日記の一部と著者の母の短歌、著者の「卒業試験受験拒否宣言」などを付加して、リアリティを増そうとしたのだという。2.は東大闘争がヴェトナム反戦運動などとも連携したものであったことを示すためのもので、ここでも著者の日記なども援用される。3.はアカデミーに「転進」した1971年の「再びアカデミズムの門に立ちて―私にとって東大闘争とは何であったか」をもとにしたものだそうである。4.は1970~90年代に著者がかかわった社会運動を紹介しながら、新左翼運動や共産党の動向を分析したもの、ということである。5.は東大闘争がどのように論じられてきたか、であるが、後半は自説の展開である。「おわりに」に本書の副題である「ぼくたちが闘ったわけ」が著者のふた回り下の奥さんの提案であることが書かれていて、その奥さんと二人で安田講堂の前で撮った写真までが収められている。
 ひとことでいえば「甘ったれるな!」という感じである。70歳を過ぎたおじさんが、例え奥さんの提言であるとしても「ぼくたち」などと書いて平気である神経がそもそも理解の外である。母親の短歌とか著者の奥さんの写真とか、奥さんがアルフィーのファンであるとか、著者が卒業試験を受けるのを拒否したとか、それでも結局研究室に戻ったとかいうことは、読者にとってはすべてどうでもいい話であって、今から50年前に東大闘争(紛争)がおきたことについて何かを考えていくということとはなんのかかわりもない。
 それでもこういう本が書かれたわけである。そして読者の印象としては、本書は徹底して著者の自己弁明のための書、著者はどの時点においても間違ってはいなかったということを主張したいだけのものと、どうしても思えてしまう。政治の運動というのは実効性がすべてであって、良き意図のもとに悪しき結果がもたらされたというようなことは少しも弁明にはならない。
 第4章では、1970年代は中国がヴェトナムに侵攻するなど「社会主義」にあるまじき時代だったが、1980年代はポーランドの「連帯」が社会主義改革に希望を抱かせた時代で、ゴルバチョフペレストロイカなどがでてきた。しかし、90年代のソ連の崩壊で不安の時代になったという一筆書きの展望が示されるが、そういう歴史の中でマルクス主義共産主義社会主義をどう考えたのか、今ではどう考えているのかということについては一切の言及がないままに、著者がいろいろな社会運動にどうかかわったかが論じられる。保安処分とか優生保護法とかにかかわったことが簡単に述べられた後、今度は新左翼運動の内部の離合集散が詳細に述べられる。
 書名にもかかわらず、「東大闘争」について書かれているのは、第一章のみで、第2章はその前史、第3章は東大闘争が当時のアカデミズムを批判した運動であったにもかかわらず、その後、著者がアカデミーの世界に戻ったことの弁明、第4章がアカデミー復帰前後に著者がかかわった社会運動の紹介、第5章が東大闘争がどのように論じられてきたか、なのである。
 世の中のすべてのことがそうなのかも知れないが、東大闘争(東大紛争)もまた偶然に大きく左右されたはずで、私見によれば、68年6月の全共闘派による安田講堂封鎖に対する大学当局による機動隊導入がなければ、その後の展開は大きく違っていたのではないかと思う。つまり大学というのは国家権力から独立した牧歌的なところであるというような思い込みが当時の学生たちには広範にあって、それで大学構内に機動隊員の姿を多数見る事態になって、邪悪なる国家権力(その象徴としての機動隊員)がきわめて具体的なかたちであらわれることになり、それによって、それに対峙する学生たちも、自動的に聖なるものに昇華し、国家権力の手先である機動隊対無垢なる学生たちという構図が出来上がってしまって、闘争(紛争)が長期化することになったのではないかと思う。もちろん、それ以前に誤認処分を撤回してしまうという行き方があったはずであるが、これをすると、学生側からは誤認処分をした責任者の処分要求が出てくるのは必至であると思われ、踏み切れなかったのであろう。大学を構成するものは自分たち教職者であって、一過性にそこを通りすぎていくだけの学生では断じてないという意識が学生は切り捨ててでも身内をかばうという行動をとらせたのであろう。
 本書にもあるように、東大闘争の発端が、医学部の卒後研修のありかたをめぐる対立にあったことは事実であるが、68年の数年前から毎年3学期になると医学部ではとストライキと称するものが行われていて、68年もまたそれが行われていた。例年は新しい年度になると解除されていたのだが、68年には誤認処分ということがあって、学生側もストライキ解除をできずにいた。しかし内部にいた人間の感じとしては、多くの学生たちにはいつまでも授業がはじまらないことに嫌気がさしてきていて、もうそろそろストライキは解除でいいのでは、という気分が強くなってきていたように思う。しかしストライキを主導する一部のひとたちは、このストライキが単なる医局制度の問題についてのものではなく、米帝国主義のアジア侵略に反対する運動の一部としておこなわれている(米帝国主義のアジア侵略を確実なものにするためには無給医局員制度の存続が必須であるといったような、風がふけば桶屋がもうかる式の難解な論がいろいろと展開されていた)ということを主張していたのだが、多くの学生たちに厭戦気分が蔓延するようになって孤立しはじめていて、何ら展望があったわけではないが、一か八かで安田講堂占拠という行動にでたところ、教授会側が即、機動隊導入ということに踏み切ってくれたことによって、それで問題が医局制度の問題から、大学の自治、あるいは権力対反権力といったはるかに抽象的な問題に拡大していって、収拾への展望が見えなくなっていったということなのではないかと感じる。
 そして、著者のいうように(p60)一時的にせよ、多くの大学で運動が燃え盛っていった根っこには当時進行していたベトナム戦争の問題が深くかかわっていたことは間違いないと思う。著者は本書では淡々とヴェトナム戦争の経過を略述するだけであるが、少なくとも日本においては当時これは善と悪との闘い、善であるベトコン(南ベトナム民族解放戦線)と悪であるアメリカ軍との闘いといった図式で捉えられていて、ほとんどまともな兵器をもたないゲリラ兵(ホーチミン・サンダルを履いた!)が強大な装備を持つアメリカ正規軍と互角の戦いをし、ついには義のないアメリカは義のあるベトコンとの闘いに敗れていくというような大きな見取り図のもとに見られていたのではないかと思う。
 つまり当時はまだ明白に東西の冷戦というものがあり、ベトナムでの戦争は東西の対立の象徴であり、ベトナムの民族戦線が正義の側であると見られていたということがあり、つまり、東西の冷戦においても義は東側にあり、西側はその義の前に劣勢にたたされており、いずれ世界は東側に呑み込まれていくというような見方がかなり多くのひとから真面目に受け取られていたということがある。(ドミノ理論というのも当時あった。)
 1968年の時点で、1991年というわずか二十数年後にソ連という国が地上から消滅するであろうなどということをいうひとが当時いても誰もまともにとりあげなかったであろうと思う。
 そして大学闘争というのも、運動を指導している人たちにとっては疑似的あるいは模擬的にミニ・ヴェトナム戦争とでもいうべきものを日本において作り出そうという試みという側面が大きかったのではないかと思う。そうであれば、単なる無給医局員の待遇といった次元から大きく飛躍した視点を持ち込む必要があるわけで、現在の日本において大学で学問をする意味あるいは研究をする意義といった抽象論がすぐに要請されてくる。しかしそのような議論を多くの学生・研究者に切実なものと思わせるのはどう考えても無理であって、それで行き詰っていたところに、機動隊が導入されるという天祐がおき、いきなり機動隊という疑似アメリカ軍が眼前に出現することになって、あっけなく疑似ヴェトナム戦争状態が現前されることになったということなのではないかと思う。それによって、一時的にであれ運動が一気に盛り上がった。
 しかし、ヴェトナム戦争の頃が東側の攻勢の頂点で、ヴェトナム統一後の大量の難民(ボート・ピープル)の出現・・なぜ圧制から解放された人々が命からがら身一つで逃げ出さなければならなかったのか?、カンボジアポルポト政権の蛮行・・インテリが社会主義というものを生真面目にうけとることによって生じる悲劇であり、その最大のものは文化大革命であったのであろうが、当時はまだ文化大革命の実態はほとんど外部には明らかになっていなかった・・、中国のヴェトナムへの侵攻といった(著者のいう「社会主義」にあるべからざる)事態が次々におきて東側の威光が急速に陰っていった。それと並行して学生たちの運動も急速に弱まっていったということなのではないだろうか?
 そうであるならば、本書において著者が書かなければならない第一のことは、社会主義マルクス主義)についてあるいはソ連の崩壊についての著者の見解であるはずなのであるがそれは語られない(著者は142ページあたりの論でそれをしているつもりなのかもしれないが、まったく的をはずしている。また第5章での議論の一部でもそれを果たしているつもりかもしれないが、そこにあるのは何をいいたいのか、少しも理解できない論である。そして、その第5章の末尾は「ソ連崩壊後四半世紀余りの今日なお散見されるマスクス主義の観念的・教条的固守はやめてもらいたい」というものである。多くの読者は本書を読んで、この言葉をそっくりそのまま著者に投げ返すのではないだろうか? 著者は自分の書いていることを、多くのひとは世界の動向から遊離した浮世離れした観念論であるとみるのではないかという懸念を少しでも抱くことはないのだろうか?
 おそらく著者は社会主義学・共産主義学内部の煩瑣な神学論争、(かつての講座派と労農派の論争のような)狭い学者仲間のあいだでの議論に明け暮れて日々を送っているうちに現在の世界が何もみえなくなってきているのではないだろうか? 著者はスターリン時代のソ連の研究者なのだそうである。何を目的にその研究というのをしているのだろう? それは語られず、その代わりに著者が語るのが、氏がその後、どのように社会運動にかかわっていったかということなのでる。
 著者は大学での闘争がその後のさまざまな社会運動の源流となったといいたいようなのだが、わたくしから見るとそれはまったく転倒した議論で、その後のさまざまな社会運動というのは、西側の国々をまるごと全体として社会主義化していこうという大きな物語の見通しがまったくたてられなくなったことを反映したもので、それでもなんとかそれぞれの場で生き延びて、そこにわずかでも灯かりを残していくための塹壕戦なのである。社会のなかでの様々な「反=」「アンチ=」を探し出して、そこにかすかにでも火種を残していこうという行動、パルチザンとしての遊撃戦である。わたくしから見ると現在の日本共産党がしているのも同じことで、自党が中心となった政権を樹立し、日本を共産主義国家とするなどという構想はとっくに放棄されているが、少なくとも美濃部都政のあたりまでは微かに描けていた未来への展望がまったく見えなくなった今でも、これまで自党を支えてくれてきた党員を何とか食べさせていき、支持者を何とかつなぎとめていくために、とにかく泳ぎ続けなければならない、そうでなければ沈んでいくだけである、ただそのことのために何かをしつづけている、そういうことなのだろうと思う。
 本書に類似したものとして、大分以前に小坂修平氏の「思想としての全共闘世代」を取り上げたことがある。本書の著者の菊池氏はこの小坂氏の本を当時の気分や雰囲気をよく伝えるものであることは認めているが、総括として物足りないとしている。この小坂氏の本は「いまでも夢を見ているような気がする」というのが書き出しで、「あの時代を通過したことが、その以降の生にとってどういう意味をもっていたかという角度からしか語ることができない」 「ぼくにとってあの時代を通過したということは、何かに「つかまれてしまう」という経験だった」と書いている本であるから、まさに「気分」を伝えようとしたものなのであるが、この本を読んで解るのは小坂氏にとっての全共闘運動の体験は一種の神秘体験、見神体験であったということであって、神秘体験はそれを経験していない人にわかってもらうことは絶対にできないものなのである。小坂氏にとって全共闘運動を離れた後の生というのは何かリエリティを書く偽物めいたものとしか感じられなかったようで、「本気になれない」ままでその後の生を過ごすことになったのではないかと思われる。わたくしはそれを知る世代ではないが、戦後、特攻隊崩れというのがあったそうで、この「思想としての全共闘世代」につけられた氏の写真などいかにも斜に構えたというか「何事にも本気になれない」雰囲気を漂わせている。それに比べると本書に付された菊池氏の写真は普通の社会人のもので、まだまだやる気十分という感じである。しかしわたくしから見ると、菊池氏はまだ夢からさめずにいるのである。
 そして菊池と小坂氏、どちらの本にも共通するのが自分への徹底的なこだわりである。菊池氏は自分のことを文学が不得手といっているが、氏が研究すべきなのは、スターリンではなく、日本の私小説なのではないかと思う。
 本書を読んであらためて感じるのは、全共闘運動を経験したことによって、その後、現実との接触を失い、酔生夢死のような人生をおくっていくことになるひとがいるのだなあということである。そのような人が生きていける数少ない場所の一つが大学の研究室なのだから、「自分が東大に「還ってきた」のはスターリン体制研究のため、だたこの一点である」などと力みかえらないでも、本能が自分の生きていける場所を指し示したのではないかと思う。
 ひょっとすると橋本治氏の最後の本になるかもしれない最近刊行された「思いつきで世界は進む」に「批評のポジション」という文があって、そこに「社会党が力をなくしてしまったのは、「批判ばっかりでなんでも反対の社会党」と揶揄され、「現実的になって政権与党を目指そう」などと無駄なことを考えた結果で、「現実は現実、批評は批評」で、批評が「現実」なんかになる必要はないんだ。現実はいつでもいい加減で、だからこそ「非現実的な発言」である批評が意味を持つ。「批評は現実と関わらなきゃいけないんじゃないか?」と思った瞬間、批評は力を失うし、失った。批評は批評で、現実とは別次元にあることによって現実と絡み合う。非力だからこそ力を持つというのが批評の力でしょう。」とあった。まさか菊池氏がそのような高級な方面のことを考えて行動しているとはとても思えないのだが。

 

歴史としての東大闘争  (ちくま新書)

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思想としての全共闘世代 (ちくま新書)

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思いつきで世界は進む (ちくま新書)

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