片山杜秀「音楽放浪記 世界之巻」と三浦雅士氏によるその解説

 以前アルテスパブリッシングというところから「音盤考現学」と「音盤博物誌」という題で刊行された本を再編集して「音楽放浪記 日本之巻」「音楽放浪記 世界之巻」の二冊にして文庫化されたものの一冊である。政治思想史を専門とする片山氏にとって音楽関係の本を世に問うたのはこの「音盤考現学」と「音盤博物誌」がはじめてであったらしい。この2008年刊行の「音盤考現学」と「音盤博物誌」の二冊はもっていて(というかこの二冊をふくむ片山杜秀の本のシリーズはすべて持っているし、片山氏の書く音楽関係の本は気がつけばすべて読むようにしているし、専門の政治思想の方面のものも一般向けのものは手にするようにしているから、片山氏の書くもののかなりは目を通していることになると思う。「音盤考現学」については2008年に感想を書いていた。
 誰がいっていたのかは忘れたが、片山氏はそれほど面白くないことでも、とんでもなく興味深々なことであるように語るひとといっていたが、あることを語ってそのことについて読者にもっといろいろともっと読んでみよう調べてみようと思わせることができれば著者がその本を書いたことの意義の大半は達成されたことになるのではないかと思う。
 さて、この文庫版には三浦雅士氏が「もうひとつの片山杜秀論」という解説を書いている。これがべら棒に面白いのでまずそこから。
 冒頭の部分。「あまり大きな声では言えないが、ほんとうは、いわゆるクラシック音楽なるものはあと何年もつか、というのが、希代の天才軽業師・片山杜秀潜在的な主題である。」
 第二センテンス冒頭。「周知のように、と、つい言ってしまうのだが、1960年代一世を風靡したモダン・ジャズがいまや常磐津・清元と同じ境遇に入った」
 これはこう続く。「のと同じように、19世紀からあ20世紀にかけて世界を制覇したドイツ観念論(カント・ヘーゲルからマルクス観念論! まで)ならぬドイツ・クラシック音楽(主流がロマン派だから紛らわしいのだが)もまた、常磐津・清元と同じ境遇に入ってしまったのである。」
 三浦氏によれば、「ドイツ音楽の栄光は未来永劫続くと全身で思っている」のは音楽学校の演奏家志願者と教師だけなのだそうである。
 モダン・ジャズが常磐津・清元と同じ境遇に入ったのだとすれば、同じころにもともと一世を風靡もしなかったいわゆる前衛音楽などは、常磐津や清元とも違って古典芸能あつかいさえされることなく、もはや誰もそれを顧みなくなっているのではないかと思う。若いころ何かの間違いで確か20世紀音楽研究所だかが主催したブーレーズの「主のない槌」の演奏会?を聴きにいったことがある。何か宗教の儀式のめいた感じであった。ある作曲家がいっていたが、ブーレーズの音楽は楽譜を見るととても美しいのだそうである。耳できいてもよくわからないが、目でみると面白い音楽というのも不思議なものである。
 そして三浦氏の論のおそろしいところは、モダンジャズと一緒にドイツ観念論もまた常磐津・清元と同じ境遇にはいった、と書くところである。しかもドイツ観念論のなかにマルクスまでもがしっかりと入っている。
 わたくしの前半生ではまだマルクス主義はいきていた。モダンジャズがまだそこそこに生きていたように。しかしいまではほとんどのひとがマルクス主義について、ああそういえば昔そんなものもありましたね!、というような態度である。
 マルクス主義に一生を捧げたひとも沢山いたはずである。日本共産党という政党を支持するひとは今どういう思いでいるのだろうか? 昔はそれなりの業績をほこっていたが今や時代にとりのこされてしまって衰微してしまったかつての名門企業、というような感じなのだろうか? 昔からいる従業員たちを何とか食わしていかなければならないので、潰すわけにもいかず細々と営業を続けているというような感じなのだろうか? クラシック音楽ファンに負けず劣らず、街頭で活動している日本共産党の方々も高齢化が進行しているようである。
 問題はドイツ古典派音楽とそれの鬼子?たるロマン派音楽である。
 それで本書は、バッハ、モーツアルト、ベートーベンのそれぞれを論じる文からはじまる。
 まずバッハ。その受難曲において神や神の子の内面まで描いてみせるというのは絶対者としての神への冒涜ではないか? しかしバッハの音楽は近代ブルジョア精神の発露である人間は何から何まで理解できるとする見方がヨーロッパにおいて勃興してきていたことの反映なのである。
 次にモーツアルトモーツアルトはかつてはその音楽はその天才とそのきまぐれに帰せられて、ベートーベンなどの音楽より下におかれていた。逆にその非論理性が、頭でっかちな理屈(たとえばシェーンベルク)の音楽より、上であるとされるようになってきている。
 そしてベートーベン。ベートーベンは過渡期の音楽家である。封建領主からブルジョアへと、束縛から解放へと、あるいは秩序から自由へと、の。要するに古典派からロマン派への。身体から精神への。踊りと歌から人間の内面と精神への。
 精神性への傾倒の極致がかつてのフルトヴェングラーの演奏である。それへの反動の一つの現れがノリントンの演奏。
 ドイツロマン派というのは、物質的?先進国のフランスやイギリスへの後進国ドイツのルサンチマンが生んだとする説がある。明らかに太平洋戦争は物質的先進国英米への物質的後進国日本の精神力を恃む乾坤一擲の勝負という側面がある。近代日本の右翼思想の研究が専門である片山氏がまた西洋クラシック音楽に関心をよせる背景もまたその辺りにあるのであろう。
 戦前日本の神憑りにこりた多くの知識人は物質という精神の反対にあるもので世界を説明できているように見えるマルクス主義に傾いた。しかし現実にソ連が崩壊してみると、それもまた所詮は頭で考えた理屈であるということになった。そして後に残ったのが”事実”である。実際のところ世界はどうなっているのか? それは人間の欲望によって駆動されていて、それをつかさどっているのが貨幣であるということになった。
 それならわたくしをふくむもはや化石となりつつある西洋クラシック音楽愛好家というのは”クラシック”音楽に何をもとめているのであろうか?
 もちろん、それは多種多様であろうが、情動の消費という側面はあるような気がする。現実の場に余計な感情を持ち込まないように、そこで感情を消費してしまうこと。しかし、それよりも何よりも、わたくしの世代が西欧近代の子であって、そこから到底まだ逃れられていないこと、西洋近代というものをもっともよく表しているのが西洋クラシック音楽と、同じくこれもまた西洋近代の産物である小説であることによるのではないかと思う。
 西洋近代の命脈はそろそろつきかけていて、それにかわって帝政ロシアとか皇帝たちの中国がとってかわるのかもしれないが、それでもまだ西欧近代もしばらくは生き残っていくのではないか? それが片山氏の議論から三浦氏が引き出す「いわゆるクラシック音楽なるものはあと何年もつか」ということの問いの意味するところであり、片山氏の著書が答えようとしていることなのではないかと思う。