ごまかさないクラシック音楽 (6) 第4章 クラシック音楽の終焉(1)

岡田 本書の目的は従来型の音楽史とは異なる文脈を提示すること。最近のウクライナ情勢は、ソナタ形式の再現部のよう。提示部:二つの世界大戦、展開部がベルリンの壁崩壊以後、そして2022年以降が再現部? ユーラシア大陸の中心から非西欧の狼煙が上がった。「西洋音楽」は西欧自由主義啓蒙主義の文化的象徴だったのだが・・。 
片山 東方正教会の復活? ユーラシアはヨーロッパでもアジアでもない?
岡田 ウクライナホロヴィッツリヒテルオイストラフバーンスタインなどを生んだ。パリのオペラ座の天井の絵もシャガール
片山 ロシアのユーラシア主義とは,正教を基礎にする正しい世界が東方に維持されていて、堕落した西欧世界から正統を守るノという考え方。プロコフィエフウクライナの出身。
岡田 クラシック音楽は「西欧の音楽」。つまり旧西ローマ帝国の音楽。市民社会啓蒙主義の音楽。個人至上主義の音楽。これがショスタコーヴィチ絶対音楽志向に繋がる?
 芸術は大衆に簡単にわかるものであってはならない?という捻じれた選良意識。1913年の「春の祭典」の初演。「月に憑かれたピエロ」はその前年。
 二十世紀になって(全体主義国歌では)交響曲が量産される。
 さてp271からショスタコーヴィチの話になる。
 これは別に論じたい気がするので、とりあえずここまで。
 
 第二次世界大戦前夜の日本は(今から思うと)西欧への被害者意識で凝り固まっていたように思う。何だか今のロシアに似ているようにも思える。「近代の超克」? もちろんこれは西洋近代の超克である。小説などで、日本はあるいは西欧に肩を並べるものを生んだかも知れない。しかし音楽の分野では? そもそも近代文学も音楽も19世紀が頂点であって20世紀には衰退に向かっていたのではないだろうか?
 バッハ・モツアルト、ベートーベンに比肩する作曲家は20世紀以降には出ていないように思う。個人というものがもう20世紀には十分には信じることが出来なくなってきたことの反映であろう。「春の祭典」も「詩編交響曲」も・・。前にいた作曲家を継承しその先をいくのではなく、それとは何か違う道を探し出すという道。これは随分と辛い作業だろうと思う。シェーンベルクは十二音音楽を発明?したときにこれでドイツ音楽の優位を百年確保できたというようなことをいっていたように思う。
 トリスタン和音以前には、主和音・属和音・下属和音(ドミソ・ソシレ(ファ)・ドファラ)があって、主和音・属和音あるいは主和音・下属和音だけでも音楽を作ることが出来た。和声学があり、管弦楽法があり作曲技法があった。しかし12音技法では和声学が存在しえない。12の音が皆平等だから。そしてポピュラーミュージックでは相変わらず、Ⅽ・F・Ⅽ/G・G7・Ⅽのカデンツの世界である。
 われわれが普段耳にする音楽はロマン派までの音楽語彙でつくられていて、ドビュッシー以降の音楽は(岡田氏や片山氏のような)一部好事家の世界には存在するが、多くのクラシック愛好家の関心の外なのである。
とすると「ごまかさないクラシック音楽」というのは、クラシック音楽を聴く人は現代に作られる音楽には関心はないという事実を直視しようということにもなる。
 すでにして歌舞伎は現在に作られる作は演じられない。音楽ではこの50年に作られたものも少しは演奏されるが、バッハ・ハイドン・モツアルト・ベートーベン・ロマン派・印象派までがほとんどである。
例外的にショスタコーヴィチは今でも演奏されるが、それは彼の音楽が現代が抱える問題にどこかで関わるように感じられるからであろう。それに対してプロコフィエフはもはや過去の人?
 今後バッハ・モツアルト・ベートーベンに匹敵する作曲家が出現することがあるだろうか?