岡田暁生 片山杜秀「ごまかさないクラシック音楽」その9(完) 前衛の斜陽など

 片山:冷戦当時西側は東側の先をいっていると演出したがった。前衛音楽はそれゆえ西側で生きられた。
 岡田:芸術家にとっては夢のような時代だった。企業が金を出してくれた。でも今の企業は芸術ではなく環境保護に金を出す。
 ベルリンの壁崩壊が音楽に与えた影響は大きい。だがその後は何も生まれていない?
 片山:進歩の夢が終わったから。それで、前衛も反動もなくなった。ベートーベン以来の理念が無効になってしまった。
 岡田:クラシック権威主義は大正教養主義の末裔だった。
 ストラビンスキーが1971年、ピカソが1973年に死んでいる。
 1989年にカラヤンホロヴィッツが死に、1990年にバーンスタインが死んだ。
 西側の英雄が消え、クラシックのパトロンはオルガルヒになった。
 21世紀にでた音楽における唯一の存在がクルレンツィス。
 片山:クラシック音楽は個人の内面と結びついていた。つまり文明開化。ではあっても、今後も、世界を知る、歴史を知る、人間を知るツールでもあり続けてほしい。
 岡田:自分が音楽と考えて来たものは、やはり18世紀以降の啓蒙思想のツールとしての音楽だった。自由・平等・友愛・・。
 片山:西側リベラルのシンボルは「第九」。しかしそれは「英米本位の平和主義」である。
 岡田:それへのアンチがショスタコの「第五」?
 
 「クラシックを聴く」とは「近代世界の欺瞞と矛盾を理解する」ことに他ならないかもしれない、という岡田氏の言葉でこの対談は終わるのだが、そのあとに付されている片山氏の「おわりに」で、氏はこんなことを言っている。
 「クラシック音楽が聴かれてなおそれなりに機能していると思っていることが、もうとっくの昔に虚偽になっていたのではないか」
 しかし虚偽であろうと何だろうと、岡田氏も片山氏もクラシックを聴き続ける。西欧近代を理解するため? それとも、近代の虚偽を暴くため?
 「くおんのおんなが われらをみちびく」(「ファウスト」の末尾 池内紀訳)の「くおんのおんな」に相当するものが氏たちには西欧クラシック音楽であったのだろうか?
 まず西欧クラシック音楽に打たれた、それがすべての出発点である。なぜ打たれたのかの理屈は後からついてくる。「美しきもの見た人は」であって、まず美しきものを見なくてはならない。
 大岡信氏は、その著「岡倉天心」(朝日選書274 1985)で天心の書いたオペラ台本「白狐」からいくつかの章句を引いている。

 わがひとよ、私にはあなたを捉える術がない
 あなたを縛る術がない、言葉によっても韻によっても。
 わがひとよ、あなたを捉える術がない
 私には術がない。こんなにもあなたを私の歌に編んで、私のものと呼びたいのに。

 岡田氏も片山氏もある時、西欧クラシック音楽に捉えられた。まず捉えられた。それが大事なので、なぜ捉えられたのかの理屈は後からくる。そして理屈は「真実」の周辺をぐるぐるまわるが、決して「真実」には到達することはない。
 「わたしにはあなたを捉える術がない」
 できることは、ただどうしてこうなったのかの問いを続けることだけである。
 「ふしぎがここに なされ くおんのおんなが われらをみちびく」 ゲーテファウスト」末尾(池内紀訳)
 西欧クラシック音楽という「おんな」が導くのである。どうも音楽にこういう理屈で接するのは男ばかりという気がする。女性は理屈でなくもっと素直に音楽を楽しんでいるのではないか? だから男はショパンが苦手?
 さて本書を読んでいて不思議に感じたのは、ソナタ形式とか、男性的な第一主題・女性的な第二主題、あるいは提示部・展開部・再現部、といったことがほとんど論じられていないことである。この理屈っぽさこそが西欧クラシック音楽の核という気もするのだが・・。
 わたくしも一応男であるので理屈が大好きで、4小節くらいのテーマがあれば一曲書けてしまうという西欧音楽の構造が面白く、何曲かの作曲?を試みたことがある。
 それで、私見ではこの岡田氏や片山氏の議論を追うより一曲作ってみるほうが西洋音楽について何事かを感得できるように思うのだが・・。
 そういいながらも、この「ごまかさないクラシック音楽」を読んで屁理屈を書き連ねるのだから男というのは本当に困ったものだと思う。
 もちろん、岡田氏も片山氏も男。

  葛の葉
 わたしの生まれた日を
 世の常の時で測ったりなさいますな。
 わたしが生まれたのは、このおどおどした魂が
 あなたの愛に呼び覚まされた日からですもの。
 あなたが露だとおっしゃるなら
 わたくしはその露を吸って命を養い
 心ゆくまで歌いくらすコオロギです。
 わたくしが太陽なら
 あなたは大空。
 わたくしはひたすらあなたの御胸のうちに
 昇り、また、沈むだけ。
  保名
 御身のうちにこそ私は生きる。
  葛の葉
 わたくしの中にわたくしはいない。
  葛の葉と保名
 甘き神秘よ、
 聖なる歓喜よ。
 ・・・
 もろもろの情熱は
 久遠のひとつの情熱のうちに溶けこみ、
 もろもろの想念は
 絶対無上の想念のうちに消えてゆく。
 甘き神秘よ、
 聖なる歓喜よ、
 恋の涅槃(ニルヴァナ)。

 この葛の葉が西洋クラシック音楽で、保名が岡田&片山氏?
 とにかく岡田&片山氏もそれを恋する。多分「恋する」ことに理屈はない。しかし岡田&片山氏もなぜ自分が恋をしたかを知りたがるのである。男というのは本当に困ったものだと思う。
 そしてわたくしもまた岡田氏と片山氏の論につきあって延々とこんな駄文を書き連ねることになる。
 岡田&片山氏が共通して抱く危機感は西欧クラシック音楽というのはもはや滅びようとしているのではないかというものであろう。もっと言えば「ヨーロッパ啓蒙」というものの命脈が尽きようとしているのではないかという危機感であろう。
「啓蒙」は終わった・・あとに残るのは「個」ではなく「全体」だけなのではないかという恐怖。そんなことに個人が抵抗できるはずもない・・。それで自室にこもってCDを聴くことになる?
 「片山杜秀の本」という現在まで7冊でているシリーズがあって、その3の表紙に片山氏が床にまで積み上げられた書籍とCDの山に立ち尽くしている写真がある。これは2010年に出ている本だから現在ではもう本当に立錐の余地もなくなっているのではないだろうか?
 片山氏には較べるべくもないが、わたくしも小さな文庫本用書棚の一個がCDで埋まっている。YouTubeの時代が到来することが分かっていれば、こんなに集めることもなかったのだが・・。
 ロシアのウクライナ侵攻は「啓蒙」への挑戦であり、「個人」への挑戦である。それに対し、岡田氏や片山氏がこのような本を書いても、多勢に無勢。大海に注ぐ美酒一滴、衆寡敵せずである。
 
 人間を作り、
 鳥と獣と花を生じて
 凡てをやがては挫く暗闇が
 最後の光が差したことを沈黙のうちに告げて、
 砕ける波に仕立てられた海から
 あの静かな時が近づき、

 私がもう一度、水滴の円い丘と
 麥の穂の会堂に
 入らなければならなくなるまでは、
 私は音の影さへも抑へて、
 喪服の小さな切れ端にも
 塩辛い種を蒔かうとは思はない。
・・・(ディラン・トマス「ロンドンで一人の子供が火災で死んだのを悼むことに対する拒絶」 吉田健一訳)

 西洋音楽という「一人の子供」も、ウクライナの戦争という火災で焼け死にしそうになっている?
 しかし、

 After the first death,
 There is no other

である。

 本書は 喪服の小さな切れ端に蒔かれた塩辛い種なのだろうか?