岡田暁生 片山杜秀 「ごまかさないクラシック音楽」(2)

 序章 バッハ以前の一千年はどこに行ったのか

 こういうタイトルであるが、相当部分が「クラシック音楽」とは何なのかについての議論となっている。
 西洋音楽は9世紀にグレゴリア聖歌が整えられた辺りから始まる。それなのになぜクラシック音楽はバッハ以後のものばかりなのか?
 古楽・クラッシック・現代音楽という分類がよくされるが、古楽・現代音楽が時代区分であるのに対し、クラシックは価値のカテゴリーである。時間を超えた普遍不滅の何かを含意しているし、多くのひとがクラシック音楽とはバッハに始まりシェーンベルクの手前くらいまでの音楽を指すと思っている。
 つまり18世紀まではクラシックの助走期、20世紀はクラシックの黄昏(没落)と多くのひとが思っているが、この区分はかなりアクチュアリティを失ってきつつある。
 クラシック音楽啓蒙主義の夢を色濃く残している。しかし21世紀になって、例えばウクライナ戦争などで、それは破綻しかかっている。
 過去には、非文明人の音楽は五音音階で、西欧七音音階こそが文明人の音楽という見方さえあった。だが、バッハ以前の千年というのは、世界はオスマン帝国やモンゴルが牛耳っていたのであり、ヨーロッパはオスマン帝国やモンゴルからは相手にもされず、あまり価値がない地域として見捨てられていたのである。それでヨーロッパ大陸の西の端で小さくなって存在していた。
 バロック音楽はそのヨーロッパがようやく世界進出を始めた時期と重なっている。その西欧の武器となったのがキリスト教の普遍化能力と科学技術であった。それによって、西欧クラシック音楽も勝ち組となったのである。
 近代になって「個人の自由」が「神様の支配」にとって代わることになった。バッハはその象徴である。しかし西欧でクラシック音楽を支えてきた世界市民概念や「個人の可能性は無限だ」といった見方は、例えばウクライナ戦争などでかなり怪しくなってきている。
 21世紀になって「人間」は自信を喪失してきている。そうであればベートーベン的な音楽も「虚偽」に聞こえてくる。とすると、そういう時代になって、ひとびとは古楽に安らぎを覚えるようにもなっているのではないだろうか?
 その例として、1990年代にはグレゴリア聖歌のCDがベストセラーになったことがあった。同時に「アダージョカラヤン」もベストセラーになったし、ペルトも発見された。
 それは大勢の集団を熱狂させる音楽から個人に供される音楽への転換でもあった。「世界市民ユートピア」から「メディテーション」へという動きである。
 ベートーベンは世の悪意に打ち勝つが、シューベルトは諦める、そしてマーラーは嘆く・・。では「バッハ以前の一千年の音楽」とは「まだ悪意を知らなかった時代の音楽」だったのかもしれない」そういう岡田氏の言葉で、「序章 バッハ以前の一千年はどこに行ったのか」は終わっている。

 以上のわたくしの要約が間違っていなければ、この序章は本書の全体の見通しと問題意識を語ったもので、「バッハ以前の一千年はどこに行ったのか」のかを論じたものではないように思う。あるいは、現在の音楽は、バッハ以前に回帰してきているのではないかといった問題意識の提示であるのかもしれない。
 しかし、現在のクラシック音楽の演奏会で取り上げられているのは、バッハもときに取り上げられるにしても、ほとんどがハイドン以後、多くはモツアルトから後期ロマン派までの曲なのではないかと思う。瞑想系クラシックを求めているのはまだほんの一部の好事家、あるいはハイブロウな「すべての本を読んでしまった」少数の人たちに限られるのではないかと思う。そして岡田氏も片山氏も「すべての本を読んでしまった」尖がった最先端の少数派の人なのである。
 サントリー・ホールとか東京文化会館といった大きな箱は大オーケストラが演奏する一種の祝祭の場であって、「メディテーション」がそこで行われるのは難しいのではないだろうか? もはや大きな箱での演奏自体が時代遅れになっているのかもしれないが・・。
 それともサントリー・ホールなどに集う人もそのことは十分に承知していて、それでも現在ある様々な厭なことを一時的に忘れるために、まだ個人というものを信じることのできた古き良き時代に作られた作品を聴こうとするのだろうか?
 多分、大部分の人はそんな問題意識を持っていないだろうと思う。ただただモツアルトの音楽が、あるいはマーラーの音楽が心地よいと思うから、それを皆と分かち合いたいと思うから、コンサートホールに出向く。
佐村河内氏(新垣氏?)の《交響曲》が(一時)あれだけ受けたというのは、コンサートホールに通う人の多くが聴きたいと思っているのが、あのような後期ロマン派?風の音楽だということを示していると思う。そして作曲科を卒業したような人にとってはそのような曲は作ろうとすれば容易に作れてしまうらしい。
 しかし「すべての書は読まれてしまった」のであり、現代の作曲家はもはや後期ロマン派の二番煎じを作ることに甘んじることなどできるはずもない。
 そしていうまでもなく岡田氏も片山氏も「すべての曲を聴いてしまった」超すれからしであるのだから「世界市民ユートピアに陶酔しようみたいな安手の桃源郷志向」(片山氏)は持てるわけはない。それで岡田氏はペロタンという12~13世紀の作曲家を持ち出してくる。あるクラシックファンはその音楽を聴いて「悪意がない音楽」と評したのだそうである。それでこの序章は、バッハ以前の一千年の音楽」は「まだ悪意を知らなかった音楽の時代」だったのかもしれないということで閉じられる。
 悪意というのは個人が抱くもので、個人というのは啓蒙時代が生み出したものだから、啓蒙時代以前の人であるバッハの音楽の音楽には当然悪意はないことになる。
 L・バーンスタイン「音楽のよろこび」という本がある。(1966年 音楽の友社 吉田秀和訳) テレビ用台本も7つ収められていて、その一つが「ヨハン・セバスチャン・バッハの音楽」。
そこに「バッハ! なんという堂々たる名前! それは作曲家たちを震えあがらせ、演奏家たちをひざまずかせ、バッハ愛好家を恍惚たらしめ-それ以外のあらゆる人人に眠気をもよおさせる。」とある。そしてソナタ形式のようなドラマのある音楽に抵抗した最後の作曲家だったとも書かれている。
 しかし本章はバッハ以前の一千年を論じたものなので、バッハについては次章で。