岡田暁生 片山杜秀 「ごまかさないクラシック音楽」(3)

第1章  バッハは「音楽の父」か

 岡田 まず「神に奉納される音楽」の話から
 片山 クラシック音楽は「神なき人間」が倫理的に目覚め、素晴らしい世界に到達するという啓蒙主義的なヴィジョンを表象するツール。しかし近代以前の人間はひたすら神にすがる。古楽はだから「奉納的」なもの。「個人」のない世界。しかし現代になって近代の人間が高みにのぼるというヴィジョンがリアリティを失うと、中世の音楽が我々に近しく感じられるようになる。例えばライヒなど。
 岡田 クラシックの歴史は音楽の世俗化の歴史、「異界」の音楽から「きれい」な音楽へ。美しいからドラマへ。オペラが誕生する。また捧げる対象が神様から王様へ。
 片山 二十世紀でもソ連スターリン時代のジダーノフ批判がある。
バッハは、当時はちょっと田舎の音楽家だった。
 岡田 本来バッハはホールで聴くものではない。現代は反ロマン派の時代だから、その錦の御旗がバッハになった。
 バッハはドイツ・ロマン派の発見物である。
 バッハの音楽はカトリックとは異なる強烈なプロテスタン倫理がある。モツアルトの音楽がきらびやかな宮廷の奢侈と結びついているのと対照的。
 「マタイ受難曲」的なものはワーグナー的なものにつながる。
 片山 マタイ受難曲が日本ではホールでしばしば演奏されるのが異常である。バッハは疑似宗教?
 岡田&片山 和声的音楽対対位法という問題がある。フーガ対オルガン・コラール。 
 岡田 つまりバッハ対ショパン

 本章は、「バッハは「音楽の父」か」というタイトルだが、むしろ西洋史の中でのバッハの位置づけが論じられている印象である。バッハという作曲家の作曲家としての能力という方向からの議論はほとんどない。わたくしはバッハはメロディを作る能力にも卓越したものを持っていたと思っているのだが、そういう方向からの議論はほとんどない。当時無数に存在していたであろう作曲家のなかでほとんどバッハ以外の名前が残っていないのはなぜかという方向からの議論もなく、バッハ以前・バッハ・ウィーン古典派・ロマン派・いわゆる現代音楽・二次大戦後の音楽という音楽史の検討が主目的になっている。
 その歴史意識からすると、モツアルトからマーラーまでの音楽が主なレパートリーになっている(例外がバッハ?)日本の(世界の?)クラシック音楽鑑賞は、現代世界の危機を知らない能天気な(あるいは知っているのだが、あえてそれをみないようにしている逃避的な)聴衆からなりたっている現状へのいらだちが本書の根底にあることは明白で、つまり「ごまかさないクラッシック音楽」というタイトルは「西洋史の観点から見る音楽」「西洋史から逃げない音楽」という意識を包含している。
 わたくしなどは、現代の作曲家が、バッハが用いた技法を用いて曲を作ったとして、それがわれわれを打つのだろうか?ということを考える。以前どこかでいわゆる「和声課題」の解として現代の作曲家が作った範例をきいたことがあるが、実に美しいものだった。しかし作ったひとは数学の問題を解くような感覚だと思うので自分の音楽とは決して思わないのだろうと思う。
 マラルメの「海の微風」の冒頭の
「肉体は悲しんでいる。私はすべての本を読んでしまった」というのは現代の作曲家のほとんどすべてが抱いている感慨ではないだろうか? まだ書くべき音楽は残っているのか?、と。
 多分、シェーンベルクの12音技法などもそういう意識から生まれたのだと思う。
 シェーンベルクに「作曲の基礎技法」(音楽の友社 1971)という本があるが、これは「作曲にも音楽にも、特別な才能を持たぬ普通の学生のため」に書かれたもので、バッハ・ハイドン・モツアルト・ベートーベン・ブラームスシューマンシューベルトショパンワーグナー・グリーク・マーラーなどからの豊富な譜例が示されている。
 同じシェーンベルクに「和声法」という本もある(音楽の友社 1968)。これまた西洋の伝統的クラシック音楽からの引用に満ちている。
 そうであっても、シェーンベルクは最早その路線で曲を書くことは出来なかったわけであるが、12音路線にいく前の最後の一暴れが「グレの歌」だったのかもしれない。
 しかしその後の12音音楽はひたすら響きがあるだけでメロディはなく(聴くひとが聴けばある?)、聴き続けるのは苦痛である。少なくともこれは市民のための音楽ではなく、一部先鋭的音楽家や聴衆のための音楽であって、現代の演奏会のレパートリーとなることは今後もないと思う。
 佐室小路氏の作った?「交響曲」が起こした騒ぎがそれをよく表していると思う。