E・ボウエン「パリの家」

    集英社 1967年
 
 ここでのメモによれば、本書を入手したのは一年ほど前であるが、読みはじめて最初に子供がでてきたので、すぐに投げだしてしまった。子供がでてくる小説が苦手である。例外は「蠅の王」だけだろうか? キングのような小説であれば、童話みたいなところもあるからいいのだけれど。
 今度、同じボウエンの「日ざかり」を読み、とても面白かったので、あらためて読み返してみた。とても濃密な小説である。まだ一回読んだだけなので、細かい気持ちのやりとりの部分など充分には理解できていないところがあるだろうと思う。こういう小説を読むと想起するのが、フォースターが「ハワーズ・エンド」で言っている有名な「この話では、非常に貧乏な人たちには用がない。そういう人たちについて考えてみようとしたところで無駄であって、それは統計学者か、それは詩人の領分である。この話は紳士と淑女、あるいは紳士や淑女であるふりをすることを強いられている人たちのことに限られている」という一節である。つまり小説というのは上流階級あるいはその周辺にいるひとたちを描くものなのではないかということである。そういう人たちは歴史と時間という重みを背負って土地の上に生きている。本書のタイトルは「パリの家」であるが、あるいは「ハワーズ・エンド邸」であり、「ブライズヘッド屋敷」である。これは日本の家制度あるいは家名といったものとは異なり、実際に存在する土地であり家屋敷である。日本には金持ちはいても、上流階級は存在しないのであろう。あるいは官僚貴族はいても、土地貴族がいない。
 本書は分類すれば恋愛小説それも三角関係をえがいたものということになるのであろうが、その恋愛というのがほとんど喧嘩みたいである。甘美なものなどまったくない。そこに出て来るのが自立した個人であるといえば確かにそうであり、だからこそ恋愛が喧嘩のようにもなるのであろうが、同時に土地と歴史に縛られてもいるので、それが恋愛にもたちはだかる。「ブライズヘッドふたたび」の最後で結局、主人公たちの結婚が成就しなかったように、本書でも主人公たちの恋愛は悲劇に終る。
 こういう小説を読むと、なんと「1Q84」といった小説と異なっているのだろうということを感じる。ボーエンの小説にくらべると村上氏の長編小説の主人公たちはほとんど記号である。もちろん村上氏はボウエンのような小説を書こうとしているわけではなく、神話のような「物語」を書こうとしているわけだから、それはそれでいいわけである。しかし村上氏も短篇では、記号ではない人物を描く。なにしろ、日本で小説を書いているのは村上春樹ただ一人(@荒川洋治)なのかもしれないのだから。
 しかし長篇小説ではそうはならない。日本にはイギリス風の長篇小説に登場できるような厚みのある人物を不自然でなく描くことがほとんど不可能なのかもしれない。「1Q84」でいえば、そこの登場人物は親から棄てられたようなひとたちばかりであり、ほとんど孤児である。イギリスでは歴史が人を不幸にし、日本では歴史の不在がわれわれを不幸にする。そうであれば、その小説の形態が異なってくるのは当然のことなのだろう。ボウエンを読むと、われわれが幸福になることなどありえないのであり、ただそれぞれの不幸にどのように耐えていくかが、みなに科せられたことなのだといっているようである。そうだとすれば、「1Q84」book3の結末のハッピィ・エンド?などほとんど児戯に類する。われわれは大人になれないのかもしれない。村上氏が世界中で読まれているのも、世界のどこでもひとが子供であることを強いられる時代に生きているからなのなのかもしれない。
 本書のような小説を読むと感じるのは、われわれはなんと薄っぺらな時代に生きているのだろうということである。歴史もなく伝統もなく受け継ぐものもなく生きている。ボーエンは厚みがあることの悲劇をえがく。それは悲劇かもしれないが重厚である。われわれは悲劇をおこすことさえできない厚みのない時代に生きている。「いかなる災害が起ったにせよわわれれは生きなければならない」のではあるけれども。
 昭和42年刊の集英社の「20世紀の文学 世界文学全集 15」で読んだ。古書店で入手可能なのではないかと思う。マードックの「鐘」が併収されている。
 

ハワーズ・エンド

ハワーズ・エンド