村上春樹 「東京奇譚集」

  [新潮社 2005年9月18日初版]


 村上春樹の最新短編集。奇譚集であり、偶然の暗合とか、虫の知らせとかいった超自然的なことをあつかっている。純文学ではできすぎの偶然で話をすすめるのを大衆小説的ときらう傾向がある。柴田翔が「されどわれらが日々」で芥川賞をとったとき、わたくしの当時の高校の国語教師が、「この人、時代小説書きのアルバイトをしてますねえ」とかいっていた。「されど・・・」では蔵書印を押された古本が物語りをつくる大事な役割を果たすのだが、こういうのは大衆時代小説でひろった簪とかが物語り進行の核になるのと同じなのだそうである。だから村上氏はここで、そういううるさい純文学的な制約を離れて短編を書こうとしたのであろう。
 ここに収載されている5編の短編の登場人物はみな孤独である。そしてその主人公たちにたとえ束の間であっても、この孤独から脱して他人との結びつく機会をあたえるのが様々な奇妙な偶然なのである。
 つまり、旧来の純文学であれば主人公たちの孤独を描いて終りである(「日々移動する腎臓のかたちをした石」で作中、小説家である主人公が書こうとしている「日々移動する腎臓のかたちをした石」という小説は、そういう意味で旧来の純文学短編である。それが最後の3行で崩れるのが、この小説の仕掛けになっている)。しかし、そういうものを書くことに村上氏は興味をもたない。そこから脱出する(あるいは少なくとも脱出しようとする)話を書こうとする。しかし偶然で簡単にひとが和解したり救われたりするのでは大衆小説である。だからこの短編でも主人公たちは別に救われはしない。ただ現状からとにかく一歩を踏み出そうとする。そのきっかけを提供するのが偶然の暗合である。そこからもう一歩すすめば、現状から踏み出そうと思っている人間に偶然の暗合がおきるのだということにもなりかねない。つまり、読者に今を当たり前と思わないようにさせること、読者の現在を異化させることが、小説に機能であると村上氏は思うようになってきているのかもしれない。
 氏の初期の小説群が「逃げること」をたテーマにしていたのに対して、いつかからか「戻ってくること」がテーマとなってきている。「戻って」くることがテーマとなるためには、「離れている」ことが前提となる。しかし、「戻って」融和する話が書かれるわけではない、そこにあるのは「逃げていること」「離れている」ことを自明としてはいけない、そこに安住してはいけないということだけである。初期には「逃げて」いてもいいのだといっていた。村上氏が小説を書き出したころにはまだ「ドロップ」することは自明ではなかったから、氏は「ドロップ」して何か悪い!という小説を書いた。しかし、今では「ドロップ」はなんら特殊なことではなくなってきている。「ドロップ」自体を書くことに積極的な意味がなくなってきている。
 村上氏の小説が力をもっているのは、主人公の孤独がトニオ・クレーゲルのように本人の資質や性格からきているのではなく、常に時代の関数としてあるからなのであろう。「風の歌を聴け」を書いたころには、それが時代の気分を表していた。現在、「風の歌を聴け」が書かれても、もうそれは時代遅れなのである。しかし「離れて」いるのは事実であるが、「戻ろう」とするのは意思であるかもしれない。
 だからここで生じる問題は、小説は時代を描くだけでなく、時代に対して何らかの主張をし、それを変えていくことができるのかということに帰着するように思われる。村上龍にしても村上春樹にしても、ただ小説を書くのではあきたらなくなり、読者を変えるような作をかきたいという願望が兆してきているように思われる。三島由紀夫も同じ思いを抱いたのであろう。小説を単なる娯楽を提供するものとは思えなくなってきているのである。ここに収められた短編は小説としてとてもよく出来ているのであるけれども、何か意味がありげでもある。ただ読んで面白かったで済んではいけませんよ、と言いたげなところがある。それが最近の両村上氏の書く小説のはらむ問題なのであろう。
 とにかく両村上氏は小説家としての技量が抜群であるから、読者にとっては楽しめる小説を提供してくれる。しかし「ああ、面白かった!」では許してもらえないのである。「これを読んであなたの感じたことを書きなさい」という試験問題が目に見えないかたちではあるが付帯している。
 小説というのはそんなに大したものなのだろうか? ただ楽しかったではいけないものなのだろうか? 日本においてはある時期、小説が人生の指南書であった。それが尾を引いているので、どこかで大説にもならざるをえないのであろうか?
 

(2006年4月4日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)

東京奇譚集

東京奇譚集