井上章一「京都ぎらい」 加藤典洋「村上春樹は、むずかしい」

 

京都ぎらい (朝日新書)

京都ぎらい (朝日新書)

 井上章一氏の本は、以前「日本に古代はあったのか」という本について悪口を書いたことがある。何だかこれが京都は東京より上、京大は東大より上、ということをいっているように読めたからである。もちろん、京都が東京より上でも、京大が東大より上でも少しも構わないわけだけれども、日本の中心は京都であって、関東は辺境、九州や東北はさらに辺境、北海道? え、それも日本の内ですかというような論は、笑い話としては面白いとしても、真面目な顔でいわれると引いてしまう。長らく文明の中心でいた京都が、薩摩や長州といった夷のもとに下ってしまったという明治以来の怨念がそのような論を呼ぶのかも思う。
 ところが本書は、洛外の人である井上氏が、洛中のひとのもつ中華思想への怨念を述べたもののようなのである。つまり日本という観点からみれば井上氏は京都中華思想の側に立ち、京都という中でだけ見れば洛中人の中華思想に反発するようなのである。
 わたくしは東京生まれの東京育ちであるが、東京での山の手と下町というのとは、それはどうも別種の感情らしい。下町のほうが洛中で山の手は洛外なのかもしれないが、両者は相補的というか、山の手のひとも下町のひとも両者があい補ってはじめて東京という町になると思っているのではないかと思う。
 東大と京大という点でいえば、東大は平凡人の集まりで、京大には変人奇人がはるかに多いような気がする。今西進化論などというのもそれが京大発でなければ、あれほど多くのひとの関心をあつめることはなかったのではないだろうか? それは反=ダーウィンであるのかもしれないが、同時に反=正統ということでもあって、ここの正統のなかには東大という成分も随分とふくまれているように感じる。要するに東大というのは世の中で流行していることばかりを追いかける気骨のない反骨精神に乏しいつまらん奴の集まりで、まああそこは官僚養成所だからね、というような感じだろうか? 本書で述べられている「東山が東に見えないところは京都ではない」というような論は東京という異境に住む人間にはまったく理解できないものだが、京都のひとには身につまされるものなのだろうか?
 「アダルトピアノ」という本も変わった本だったが、井上氏は一風変わった本を書くということを売りにしているのかもしれない。しかし、そういう普通ではないことを売りにするというのは、わたくしから見ると京都的に思えてしまう。
  加藤典洋氏の本は、最近「戦後入門」という本を読んで、これはいかんと思ったので、今後は加藤氏のそっちの方面の本はもう読まないだろうと思う。自分のことを「日本の戦後について物議を醸す評論を書き、左右両翼から十字砲火にあった四面楚歌の評論家」などと書くのはよくない趣味だと思う。そんなのはコップの中の嵐であって、物議を醸したりといったことは全然おきていないはずである。
 一方、加藤氏が文学の方面を論じた本には随分と教えられることも多く、村上春樹についても論もかなり読んできている。最近の村上春樹はどうもアンタッチャブルな存在になってきているようで、それは出版界が極度の不況状態にあり、とにかく時々売れる本がでないと今にも倒産してしまうという状況らしく、村上氏のように本がでればとりあえず確実に売れるという作家がいないことにはたちゆかなからいらしい。だから純文学作家とか評論家とかもともと書いても売れない人たちはベストセラー作家がいるせいで出版社がつぶれないからこそ、自分たちの本も出してもらえると思うので、本音では通俗小説と思っても悪口はいえないという構造ができているらしい。その中で加藤氏は最近の村上春樹の小説は今一つということを言っている少数のひとの一人ということになるらしい。しかし、それ以前に、最近の村上氏の小説が以前ほどは売れないということが、何より村上氏の不調を表しているのだと思う。
 要するに、春樹&龍の両村上が微妙に現在の日本の抱える問題とずれてきてしまっているのだと思う。それにもかかわらず両氏の持つ小説家あるいは物語作家としての圧倒的な才能のゆえに、まだそこそこは売れているということなのではないかと思う。大江健三郎にしても倉橋由美子にしても出発の時点で自らはサルトルカフカからえた何かを表明しようとして書いたのかもしれないが、それが読めるものとなったのは文筆家としての才能のためであったはずである。わたくしには、村上氏の頂点は「神の子どもたちはみな踊る」と「東京奇譚集」あたりにあったのではないかと思われる。