P・ベナー「看護論 新訳版 初心者から達人へ」

  [医学書院 2005年9月15日初版]

 
 ベナー「看護論」の改訳版である。最初の翻訳は1992年にでている。今回改訳版がでたのは、原著の改定版がでたからではない。推定するに最初の翻訳があまりにひどいものであったので抛っておけなくなったのであろう。そういう酷い翻訳であれば絶版にしてしまえばいいようなものであるが、本書は看護の領域においては逸することのできない一冊であるのでそうもできない。一方監訳者の井部俊子氏は確か現在聖路加看護大学長であって日本の看護学界の重鎮の一人である。そんな「過去の汚点」を抛っておくわけにもいかない。ということで今回の改訳がでることになったのであろう。
 最初の翻訳の一部。
 過去数週間、私の心をとらえていた最大の関心事は、新卒者が3ヶ月の期間終了時に、ケアを安全に行えるといえるかどうか、あるいは、看護ケアのすすめ方をほんとうに知っているのか、業務のやりかたをほんとうに知っているのかどうかということでした。私の見たところでは、子供がA点からB点へ移動することが看護にもあるということです。仕事は決められた通りにやらなければいけません。けれども、やっている仕事は看護ではない・・・私はこの点に光を当てたい・・・それもしかり。ここにこのベビーがいます。ここがこのベビーのいる所です。そして6週間のうちには、このベビーがいてほしいと思う所がここです。私は、このベビーが首尾よく業務をやりとげるために、今日なにができるか、こういったことが今おこっていることです。彼らは、仕事を、やらねばならないリストとしてではなく、一つの像として全体を見るということをしはじめています。
 少しでも意味が理解できるだろうか? 出版社は出版に際してこういう部分について何か意見をいわないのだろうか? 誤訳とかいう以前に日本語になっていない。
  新訳版の訳
 この数週間、私の心を占めていた最大の関心事は、3ヶ月の研修期間の終了時に、新卒ナースが安全なケアを提供できるかどうか、あるいは看護ケアのこなし方をわかっただけなのか、それとも所定の業務を身につけただけか、ということでした。私は、患児をAという状態からBという状態にすることこそが、看護なのだと思うのです。それを実現するためには、その過程でいろいろな業務をこなさなければなりませんが、業務をこなすことが看護ではないのです。「・・・そう、ここにこの赤ちゃんがいる。現在この赤ちゃんの状態はこうで、私がこの赤ちゃんに6週間後にいてほしい状態はこれなのだ」。私は新卒ナースがこのひらめきを感じるのを確かめたいのです。この患児が最終的によくなる方向に向かうために、自分は今日いったい何をすればよいのか。こういう考え方が、新卒ナースにようやく起こり始めたとろこです。彼らは、看護の仕事を、やらなければならない業務のリストとしてではなく、1つの全体像として見るようになってきたところです。
 読んでほとんどひっかかるところのない日本語である。ただ鍵括弧のあとに読点がくるのは問題だけれども。ここの部分は、
 「・・・そう、ここにこの赤ちゃんがいる。現在この赤ちゃんの状態はこうで、私がこの赤ちゃんに6週間後にいてほしい状態はこれなのだ。そうだとすれば、この患児が最終的によくなる方向に向かうために、自分は今日いったい何をすればよいのか。」 そういう見方を、新卒ナースにぜひできるようになってほしいと思うし、実際にそれはようやく今起こり始めたとことなのです。
 とでもしたほうが、さらに滑らかになるのかもしれない。
 
 とにかく、これでナースにこの本を薦められるようになった。旧訳ではとても推薦できなかった。日本のナースに今一番必要なのは英語の読解力ではないかと思っている。日本語のまともな看護の本があまりに少ないからである。別に英語圏のナース関連の本がみんな素晴らしいわけではなく大部分はゴミのようなものかも知れないのであるが。
 看護学界を動かしている気分の基底は医者への対抗意識であると思う。医療行為の中には医者がかかわる狭義の医療(medicine)の部分とナースがかかわる看護(care)の部分があり、medicine と care は独立したものであるというのがその根幹である。他のコメディカルスタッフである検査・放射線・薬剤部・リハビリ部門などはすべて医者からの指示により動く。検査技師さんが自分の判断でどういう検査をしたほうがいいか指示をだすとか、放射線科の技師さんがどこの部位のレントゲン検査をするべきかを決めるというようなことはない(実際には検査結果をみて、もっと追加の検査が必要ではないかという意見を具申してくるようなことはいくらでもあるが)。しかし看護部門だけはどのような看護が必要かをナースが決める。このことには何の問題もない。しかし看護部門がしていることは care だけではない、それが問題になる。体位交換や清拭は care である、しかし、それでは検温は?検脈はどうだろうか? 点滴の交換、点滴速度の調整は? モニターの監視は? 患者さんのコールで部屋にいってみたら、「悪いけど窓をしめてくれ」といわれる。これもナースの仕事だろうか?
 間違いなく医療の中には care という部分がある。しかし現実にナースが担っているのは医療の中での“その他もろもろ”であるという現実がある。そうであるならナースの仕事とは何であるのかについてのアイデンティティがきわめて不明確となる。その不安から多くの「看護論」「看護概論」が書かれることになる。「看護」とは何かについての喧々諤々の議論が行われることになる。これは医者が「医学論」とか「医学概論」とかにほとんど関心をしめさないのと対照的である(実は多くのナースも「看護論」と「看護概論」にはほとんど関心がない。関心をもつのは看護教育者と一部の看護に強烈な使命感をもつ熱心なナースである)。
 そしてアイデンティティ不安から、看護の独立ということが(わたくしにいわせれば)過度に強調されることになる。たとえばそこから「看護診断」ということがでてくる。Care が medicine から独立したものであり、medicine が診断から治療へという方向で動いているのであれば、看護においても診断から看護行為へという流れがなければならないということになる。どのような看護行為が必要かということは、医学的な病名とは別の看護のための独自の診断名が必要であるということになる。しかしナイチンゲールからでも百年、看護の世界は看護診断などというものなしで立派に機能してきたのである。もちろん、それは看護の世界が経験の世界として科学以前であったからかもしれない。看護の世界も科学として通用していくためには看護診断が必要なのかもしれない。しかし看護診断という概念が導入されてもう何年もたとうとしているが、ナース部門以外の人間は care が進展したとはあまり感じていないし、そして多くのナースもまた看護診断なんてなんで必要なの、そんなの面倒なだけではない?、と感じているのである。なぜなら、ある患者さんにどういう看護が必要であるのかは、その患者さんを見れば自ずとわかる場合がほとんどだからである。目の前の患者さんに褥創があれば、それを care しなくてはいけない。それに“皮膚統合性の障害”とかいった看護診断名をつけることがなんの役にたつのだろうか。もちろん、今あることに対応するのではなく、care をしないと褥創をおこす可能性が高い患者さんに介入してそれを未然に防ぐことは大事である。しかしまたそのことも患者さんをみれば自ずとわかる場合がほとんどである。
 ベナーの「看護論」はそのような風潮へのアンチテーゼであって、なぜ見ればわかるのかということを追求している。そもそも「看護論」と訳されているけれども、原題はFrom Novice to Expert であって、ナースが経験をつむにしたがって、言葉にはできない何かに導かれて一気に問題を解決できる能力を身につけていくことを示すことによって、昨今の潮流であるマニュアル化された看護に敢然と反旗を翻すことを目指したものとなっている。もちろん、ベナーがこういう本を書いたのは、そういう側面に光を当てることにより、もっとシステマティックに経験を身につけるようにできるするにはどうしたらいいかということを探る点にあったのであろうが。
 本書でも述べられているように、本書はハイデガーの影響を強くうけている。欧米式の合理的で技術的な知識や技能の習得法への反発が前提にある。ベナーは後に「現象学的人間論と看護」という浩瀚な本も書く。そこでは、看護に対する社会的な評価の低さと今後も続くであろう深刻な看護婦不足の原因として、看護をはじめとする〈人を気づかい世話をする実践〉が正当な評価を受けていない、ことをあげている。
 ここでもとりあげられている気づかいという言葉はハイデガーの基本語彙の一つなのだそうで ドイツ度語で Sorge であり、英語ではしばしば care と訳されるのだそうである。なによりも大切にされるのは人と人とのかかわりである。いわば一期一会であり、それは科学の対極にある。ある人にどういう看護が必要であるのかはその人をみなければわからない、というのは看護診断によりある状態の人には普遍妥当する看護があるとする現在の主流の看護観の対極にある。そして一期一会の関係はもちろん、医者と患者の間にもおき、病棟の清掃のおじさんおばさんと患者の間にもおきる。病院で患者さんや家族の秘密を一番よく知っているのは清掃の人であり、何もしらないのが医者であるというのは病院の公然の秘密となっている。
 不思議なのは、日本の看護界においては、ベナーのような明らかに反科学主義的な看護の本を紹介しているひとが、同時に看護診断などの科学主義の方向の看護の推進者でもあるということで、一体自分の看護観というものがあるのだろうかという気がする。明治のころの日本であって、外国の説を輸入紹介してことたれりとしているのであり、アメリカの潮流が変わると自分もまたそれに乗って平然と変わるというようなひとが看護学界の重鎮となっているようである。
 医療は最終的に人と人のかかわりであることから逃れることができない。医療の中で一番患者さんと接する時間が長いのがナースである。そこにある無限のポテンシャルを現在の看護はむざむざ捨てようとしているのではないか、それはなんともったいないことではないかというのがベナーの論の根底にあるものであろう。
 ベナーの論は下手をするとニューサイエンスのほうにいきかねないような危うさをもっているようにも思われる。それはハイデガーの論を無邪気に受け入れているような部分にもっともよく表れている。ハイデガーのもつ毒に対する警戒心があまりに乏しいように思われる。ベナーという人はアメリカの雑駁さや浅薄さが嫌いなのだろうと思う。ヨーロッパの厚みに惹かれるのであろう。わたくしにも間違いなくそういう部分があるからベナーの論には大いに魅力を感じるのであるけれども、ヨーロッパの腐敗腐臭ということもあるわけであるし、これからヨーロッパが復活するとも思えないし、そうそうナイーブにもなれないとも思う。
 それにしても「達人」という訳はなんとかならないだろうか。宮本武蔵ではあるまいし。エキスパートはもう日本語になっているいるから、それでいいのではないだろうか。
 中島敦の「名人」のように、看護とは何をするものか忘れてしまっているが、それでも患者は治ってしまうなどという世界はちょっと危ないと思う。


(2006年4月4日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)

ベナー看護論―初心者から達人へ

ベナー看護論―初心者から達人へ