K・フォレット「大聖堂」

    ソフトバンク文庫 2005年
 
 ケン・フォレットはかなり前に「針の眼」を読んだことがあるだけである。とても面白いスパイ小説だったという記憶があるが、細部についてはほとんど何も覚えていない。「大聖堂」は評判はきいていたが、ヨーロッパ中世の聖堂を建てる話、ときいて敬遠していた。
 最近、村上春樹氏の「1Q84」を読んで、「物語」とか「お話」ということについてときどき考える。その若い頃?(1989年)のインターヴューで、村上氏は「僕は一時期、スティーヴン・キングの作品にいれこんだことがあるんです。・・物語の装置としてのキングの面白さというのはもう少し真剣に考えられてもいいんじゃないかと思う。・・フィリップ・K・ディックがあれほど真剣にとらえられて、キングが軽くみられてほうったらかしにされるというのは、なんとなく不公平なような気がする」といっている(柴田元幸「代表質問」)。キングに比べれば、ディックのものはいかにも意味ありげ思想ありげである。それでもてはやされているところもあるのだろう。「1Q84」もどちらかといえば、「意味ありげ思想ありげ」な物語だと思う。
 それなら全然そうではない、キングに近いような、意味ありげでない、ミステリに近いただただ長い法螺話を読んでみようと思った。何にしようかと思い、たまたま本屋にあったこの本を手にとってみたら養老孟司氏が解説を書いていた。前にその「ミステリー中毒」などを読んで養老さんの勧める本には外れが少ないと思っていたので、読んでみることにした。上中下3巻、文庫本で計1800ページほどというなかなかの長篇である。でも一週間ちょっとで読めてしまった。とてもとてもおもしろい話である。これだけ複雑な話を織り上げる物語作家としてのフォレットの才能はまことに大変なものである。それにくらべれば村上氏はまだまだかもしれない。
 ただ中巻の後半あたりからしばらく、話を急いでいるというか、いろいろな出来事が立て続けておきてきて、少しくたびれた。それと何か起きることが優先されるためか、それに対する主人公たちの反応にいささか一貫性がないように思えるところがあった。要するに、いままでこの人物がしてきたことを考えると、ここではこうするのではないかと思えることをしない、あるいはしないだろうと思うことをする場面が散見するように思えた。しかしこれだけ波瀾万丈の物語をつくっていくためにはしかたがないことなのかもしれず、わたくしのいっていることはないものねだりなのかもしれない。一人の人生のなかで一回おきることがあるかないかというような事件がたてつづけに何回もおきないと、面白い物語はつくれないのであろう。
 12世紀イギリス(1123年から1174年)を舞台にしている。親子二代の石工が大聖堂を建築しようと奮闘する話を縦糸として、ノルマン征服時代という聖権と王権の争いの時代を、多くの登場人物を配して描いている。真の主人公はフィリップという修道院長であるが、その架空の人物のまわりに、ステーヴン王とかヘンリー一世、二世など実在の人物が配される。12世紀のイギリスの歴史は何も知らないにひとしかったが、本書で少しはわかったような気になった。最後にでてくるカンタベリ大司教トマス・ベケットの暗殺は手許の小さな歴史年表にもでていたから有名な事件なのであろう(T・S・エリオットの詩劇「寺院の殺人」でもあつかわれている)。
 ひとが飢えて死ぬことがあり、簡単に暴力で死んだ時代の話である。実際、本書の登場人物たちの多くは暴力によって死ぬ。病気で死ぬものは少ない。それと同時に、この時代が商業経済勃興の時代であり(その象徴としての羊毛)、科学技術も興隆しつつあったという時代背景も巧みに描かれている。
 大聖堂建設であるので基本的に都市の話であるが、それをとりまく森の世界も描かれており、エレンという興味深い「森の女」が登場する。これは中井久夫氏がいう「平野の啓蒙主義的文化と森のロマン主義文化」の対立、ルソーのいう「森に二十歩入れば、権力から自由である」という世界(「治療文化論」)を想起させる。エレンは一種の「魔女」なのである。
 中井氏はゲーテの「ファウスト」を例にとって、「近代のヨーロッパはその誕生の時期にあたって、その試練に対し、未来の予知による知的・全的解決という統合主義による幻想的応答を行って失敗したのであり、これを取り消して現実原則にのっとった勤勉の倫理による応答に変えるためには、知識人自らに代わって無垢なる少女が贖罪の山羊として燃やされねばならなかったのであろう」とし、「ヨーロッパの指導的知識人のなかには今なお「無垢なる少女の神話」ともいうべきものが残っている」といっている。(「西欧精神医学背景史」) この小説の中で、概して、男より女のほうが魅力的であるのも、この「無垢なる少女の神話」という西欧近代の男性をとらえている幻想とどこかでかかわるのかもしれない。
 大江健三郎氏の小説も都会を舞台にしたものより四国の森を舞台にしたもののほうが魅力的である。だから村上春樹氏が東京という都会を舞台にして物語を書くことはずいぶんとつらいものがあるのではないかと思う。そして「1Q84」の根底にもまた「無垢なる少女の神話」があるのではないかと思う。
 「ケン・フォレットを読めば、イギリスが理解でき、歴史が理解でき、人が理解できる」と解説で養老さんはいう。中井氏も「教会は、西欧にきわめて独特なものである。それはそれ自身の法と体制を持つもので、西欧は聖と俗との二重の支配を維持するためにはなはだしい緊張と動揺を代価として払わなければならかった。これは東欧の皇帝教皇主義あるいはイスラム世界の教皇(カリフ)制のあずかりしらぬ緊張であった」という。その一端は、本書を読むことで腑に落ちて理解できる。
 しかし作者は何も東洋の読者に《西欧の聖と俗との二重支配のはなはだしい緊張と動揺》をつたえるために本書を書いたのではないはずである。それでは、これだけ長い物語を著者に書かせようとした一番根源的なものとは何なのだろう? それは最終的な人間への信頼であるような気がする。純文学とそうでないものをわけるものがそこにあるのかもしれない。純文学と称するものを書いているひとたちは一番根っこのところでは人間を信じ切ることができないので、それで息が切れてしまい長い長い法螺話は書けないのかもしれない。
 などというのはいくらでも例外がありうる見方であろうが、ケン・フォレットは、一番基本のところで「勇気」とか「信頼」といった、多くの純文学畑のひとなら顔を赤らめるかもしれない言葉を信じているひとであることだけは、間違いないのではないかと思う。そしてそれがまた読者をしてこの本を読み続けさせる力にもなっているのだろうとも思う。
 

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