養老孟司「遺言。」(1)

  新潮新書 2017年11月
 
 養老さんの本は一時は随分と読んだものだった。今本棚を見てみたら対談本などを除いても40冊以上はありそうである。「バカの壁」以降はあまり読まなくなっていたが、それは「バカの壁」がベストセラーになって、それ以降、氏の著作は、何かについて考えるという姿勢から、日本の現状を批判し日本のあるべき今後の道を読者に示すという方向に、執筆の方向がいささか変わったように感じられるようになったためということがあるのではないかと思う。もちろん、氏の本がいくら売れたところで日本はいささかも変わることはなかったわけで、要するに「バカの壁」がベストセラーになったこと自体が何かの間違いだったというだけのことなのだと思う。氏のような、どう考えてもマイノリティの側に属するとしか思えない人間の言説が日本に体制にいささかでも爪痕を残すなどという本来ありえないことなのである。
 これは村上春樹氏の場合にも感じることで、氏のような本来はマイナーポエットである人の長編がベストセラーになること自体が何かの間違いであるはずなのだが、なぜか長編が売れてしまうと、その読者の期待に応えなければという使命感のようなものが生じてしまうのか、氏の最良の部分が示される短編ではなく、何となく一見意味ありげではあるが、その実、内容は空疎である長編小説を営々と書いている姿はいささか痛々しい感じさえする。「1Q84 book3」以降の氏の長編は、すべてなぜそれが書かれなければいけなかったのかがよくわからない。強いていえば、日本の出版業界の極度の不振のなかで、出れば必ずベストセラーが約束されている村上氏の長編への出版界からの期待に応えるということはあるのかしれないとは思う。「騎士団長殺し」のことはもうほとんどのひとが話題にもしなくなっていると思うが、これの刊行で新潮社は一息ついたのかもしれない。
 そういえば養老さんの「バカの壁」も新潮社だった。これまた新潮社に一息つかせたのかもしれない。「バカの壁」がベストセラーになると、養老さんへの出版各社からの執筆依頼は大変な状況になったらしい。それで、いちいち書いていられるか!、ということで、氏がしゃべって、それを編集者が文にするという「語り下ろし」スタイルが以後ずっと続いてきたらしい(「バカの壁」がそのスタイルで書かれた最初らしく、「バカの壁」が売れた理由として、養老氏の飛躍の多い文学的文体ではなく、編集者の平易な文体であったということは多いにありそうである)。それでこの「遺言」は氏にとって25年ぶりの完全書下ろし作品ということになるらしい。
 一時期の内田樹さんも出版社からの執筆依頼で大変なことになっていたらしい。
 村上氏にしても、養老氏にしても、あるいは内田氏にしても、それに対応できてきたのは若い日の仕込みがあったからなのであろうと思う。村上氏でいえば「風の歌を聴け」から「羊をめぐる冒険」への転換に際しての長編小説作家へとの自己鍛錬、内田氏でいえばレヴィナスへあるいはユダヤ文化への沈潜、養老氏でいえば東大紛争による研究室封鎖によって正統的な学問研究が遂行できなくなり、メタ学問研究という方向への志向を余儀なくされたことなどがあるのだろうと思う。わたくしは医学部初年度の解剖実習で当時助手であった養老氏とどこかで接触があったはずであるが、まったく記憶にない。その当時30代前半であった氏はいたっておとなしい目立たないひとだったのであろう。「ヒトの見方」の出版が1985年であるから48歳くらいである。それまでの10〜15年の蓄積が後年の旺盛な執筆を支えたはずである。「ヒトの見方」には「トガリネズミからみた世界」という正統的な学問研究の内容を学術論文のスタイルではなく、普通の日本語で記述するという過渡的な試みの文も収載されている。
 それで、久しぶりの書下ろしである本書は随分と読みやすくなっている。こういうタイトルであるが、あるテーマについて論じたもので、自分が半生かけて考えて来たことのエッセンスはこういうことなのかなというようなものになっている。日本を変えようとか、日本の学問世界に一石を投じようとか、そういう娑婆っ気のようなものはまったくなくなっているので、その点にタイトルがかかわるのかもしれない。おそらく読者を説得しようという方向も放棄されて、ただ自分はこう考えるということが淡々と書かれている。
 それでテーマというのが、人間と人間以外の動物はどこがどのように違っているのかというものである。これは医学あるいは医療という行為に潜在する根源的で基本的な問題で、結局、養老氏もそこに帰ってきたということなのであろう。
 本人は「はじめに」で、主題は「ヒトとは何か」「生きるとはどういうことか」であると書いている。潜在的には「今の時代は本当は変なのではないか」、なぜなら人間以外の動物のほうが人間よりも幸せそうに見えるから。
 
 1章は「動物は言葉をどう聞くか」
 動物はなぜ話せないか? 養老さんの答え「動物は絶対音感を持っているから」
 解剖学的に聴覚器官をみると、われわれは絶対音感を持っていなければいけないはずである。それぞれの周波数に対して反応する細胞を備えているし、第一次聴覚中枢にも神経細胞は周波数にしたがって並んでいる(ただし振動数の対数で。養老説ではヒトがピアノを作ったのは脳がピアノのようになっているから)。
 われわれは赤ん坊のときには絶対音感を持っているはずである。それを大人になる過程で失う。それを失わせないためには幼児期から楽器の訓練をすることが必要である。
 動物はまず音を高さとして認識する。そうすると違う高さで言われた「タマ!」は違うものと認識されてしまう。そうであれば言葉を話せるようになるはずがない。
 高さが違えば違うものとして認識されるのであるとすると、音高の違いだけで多くの情報を伝達することが可能であるから、あえて人間以外の動物は言葉のようなものを持つ必要がないということになる。
 
 動物は基本的に絶対音感を持つという話はいままできいたことがなかったので、それを知っただけでも本書を買った意味はあったことになる。
 なぜ音楽というものが原則として人間にしか存在しないのかという、わたくしが以前から抱いている疑問に対する一つの回答がここにあることになるのかもしれない。 もしも、違う音高であれば違うものと認識されてしまうのであれば、フーガなどという形式は当然理解不能となるはずである。たとえば平均律第一巻の最初のハ長調のフーガは、ドレミファーソファミラ レソーラソファミという主題が次の小節の後半から、ソラシドーレドシミ ラレーミレドシと五度上で繰り返されるわけであるが、これが違ったものとして聞こえたのではこの音の連なりはまったく理解不能なものとなるはずである。そもそもヒトが旋律というのを認識できるためには高さの相対的な変化を認識できなければならない。
 オクターブは振動数が倍の関係といったように、音程関係は数学的な簡単な整数比で表されるのであるが、それにもかかわらず数学的に割り切れないところが残る(ピタゴラスのコンマ)といったように、音楽というのはきわめて不思議な世界なのだが、プラトンピタゴラス学派と深いつながりがあるといわれるように西欧の観念論と音楽は浅からぬ因縁があるはずで、ここで絶対音などというものを持ち出してくると、議論がぬかるみにはまるのではないかという懸念は残る。
 事実として、言葉をもっている動物は人間だけである。もちろん、それは言葉というものの定義次第ということになるのかもしれないくて、アフリカの草原のシマウマはライオンという言葉を持っていなくても、ライオンを知っているであろう。あるいは少なくとも、自分が警戒しなくてはいけない生きものとそうでない生きものの区別はしているはずである。自分の生き残りのために必要な知識は持っている。要するに、人間以外の動物は現在に生きている。次章の「動物は感覚所与を使って生きている」というのもそのことなのであろう。その時その時に目に見えるもの、耳に聞こえるもの、鼻に匂うものに反応することで生きている。
 「はじめに」に、ある海岸でみた、繋がれていないイヌが海岸で波と戯れて無心に遊んでいる場面を、これが生きているということであり、これが幸せということなのだと思ったということが書かれている。そこから「梁塵秘抄」の「遊びせんとや生まれけん」が引用されてくる。だが、養老氏にいわせれば、スマホのゲームに熱中している若者は少しも生きていないのである。
 それで次の、2章「意味のないもにはどういう意味があるか」
 いきなり「感覚所与」の話。これは、目に光、耳の音といった感覚器に与えられた第一印象のこと、と。
 「動物は感覚所与を使って生きている」、これが本書で提出される最初の結論。あるいは一般的ないい方では仮説。ここから動物は言葉をしゃべらないことを説明できるという。
 シロという猫にこれがお前の名前といって「白」と書いてみせる。しかしシロにとってそこにあるのは黒い字である。猫にとっての感覚所与は黒い字である。しかし人間にとっては何色で書かれていても「白」という字である。動物は感覚所与を優先する。しかし人間は感覚所与をただちに意味に変換してしまう。しかも現代の生活は感覚所与が働かないように努めている。特に都会の生活では。
 つまり都会には自然がない。マンションの平らな床、空調、照明、それは山の中を歩くときと対照的である。つまり都会は意味のあるもの(目的があるもの)で充たされている。その前提は、すべてのものには意味がなければならないという暗黙の了解である。問題は自分には存在意義がわからないものは「意味がない」とされてしまうことである。
 感覚所与には意味がない。ただ世界が変化したことを伝える。意味は感覚所与から脳の中でつくられる。都会では無意味なものは存在を許されないことになる。すべての感覚所与が意味に直結する事態を情報と呼ぶ。
 科学は客観的といわれる。客観とは感覚所与に依存することである。自分の外に、自分の存在とは関係なく、唯一客観的な現実が存在している、と通常は思われている。しかし養老氏はそれを信じないという。理論は頭の中にある。しかし現実も頭の中にある、というのが氏の立場であるという。意識は同一性、感覚所与は異質性(差異)とかかわる。一つだけ例をだせば、移民の問題である。
 科学とは、我々の内部での感覚所与と意識との乖離を調整する行為である。
 
 ここらへんがよくわからない。「理論は頭の中にある。しかし現実も頭の中にある」って観念論なのではないだろうか? 「自分の外に、自分の存在とは関係なく、唯一客観的な現実が存在している」というのも「唯一客観的な」といわなければ、そうであるとわたくしは思っている。もしもこの宇宙に生命が生まれることがなく、あるいは知的生命体が生まれることがなかったとしても、宇宙はその物質自身の法則に則って勝手に膨らんだり縮んだりしていると思っている。宇宙はそれを観察するものを必要とするから人間の出現は必然であるといった「人間原理」だか「宇宙原理」のような考えはキリスト教の毒がまわった考えだとしか思えない。
 養老氏は、現実というのは感覚所与そのものではなく、感覚所与にある解釈を加えてできるものであるというような方向のことをいいたいのだろうか? カントの「物自体」の話もでてくる。だがカントの時代の宇宙観というのはいたって静的なものであったはずである。現在のダイナミックな宇宙論をもしもカントが知ったとしたら、それでも「物自体」というようなことを言っただろうか?
 ユクスキュルの「生物から見た世界」で描かれたダニの世界とヒトの世界は明らかに異なる。生き物に課せられているのはまず「生き残る」というということである。それぞれの生き物にとっての世界は、まずその命題に応えるものとして構成される。しかしヒトは単に「生き延びる」ために必要なもの以上の余剰を抱えるようになった。しかし浜辺で遊ぶイヌもまた、「生き延びる」のに必要なことをしているのではない。ただそのイヌが今日は疲れたから少し遊ぼうとか、ちょっと暇だから遊ぼうなどと考えているのでないことだけは確かである。そのイヌは現在にいる。
 
 3章は「ヒトはなぜイコールを理解したか」
 いきなり結論がでて、「動物の意識にイコールはない。」
 なぜなら、
 2x=6 x=3 でもxと3は違うのでは?
 a=b ? だってaとbは違うでしょ。と動物は思うだろうから。
 猿にとっては朝三暮四と朝四暮三は違うのである。
 だから「人類社会はイコールからはじまる。」
 
 交換という行為はすぐにイコールと重なる。そこからお金がでてくる。動物はイコールが理解できないから、お金が理解できない。だから猫に小判
 人間とチンパンジーを比べると、三歳まではチンパンジーが上である。しかし、その後から逆転する。それを説明するものとして例の「心の理論」が登場する。ヒトは、自分が別のひとの立場だったらということを4歳から5歳で理解できるようになる。それがいきつくところが民主主義。みな同じ人間ではないか!人間は交換可能である。
 そして、それに反発するものから、SMAPの「世界に一つだけの花」がでてくる。
 動物もヒトと同じく意識を持っている。しかしヒトの意識だけが「同じ」という機能を獲得した。
 
 ここまででほぼ全体の1/3。
 この辺りでは、どういうわけかヒュームの「人性論」思い出した。その書き出し。「およそ人間の心に現れる一切の知覚は、帰するところ、二つの別個な種類となる。私はその一つを『印象』と呼び、他を『観念』と呼ぼう。」 ここでヒュームが『印象』といっているものが、養老氏の「感覚所与」であり、『観念』といっているものが、養老氏の「意味」ではないだろうか? 
 「人性論」は〈輪転機から死産〉したという位に読者がいなかったわけで、もともとこういう方面に興味を持つ人間はほとんどいない。というかヒューム自身にしても、思考をしているときには自分の論理を極限まで追うことはしても、日常の生活に戻ったら「観念」ではなく「印象」で生きるわけである。
 「印象」は現在で、「観念」は無時間的である。だからヒト以外の動物は現在にいるが、ヒトは「観念」に煩わされてほとんど現在にいない。ヒトはその「観念」を獲得したことによって己をホモ・サピエンスなどと自称してご満悦であるが、なに動物の持つ「現在」という幸福を失っているではないか、というのが養老氏のとりあえずのいいたいことなのかもしれない。
 しかし養老氏は科学の人でもある。それで4章以下にすすむことになる。
 

遺言。 (新潮新書)

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