岩井克人 「会社はだれのものか」

  [平凡社 2005年6月24日初版]


 以前この人の「会社はこれからどうなるのか」を読んで面白かったのでここでとりあげたことがあるが、最近この「会社はだれのものか」が本屋に並んでいて、書名が似ていたので前の本の再版されたのかと勘違いしていた。本書は原理論である前著を最近のライブドア騒ぎに応用した論文いくつかと座談会を数編収めたかなり安直なつくりの本である。
 前半の論文の部分は前著の復習であり特に新しいことはない。後半の座談会の中の糸井重里との対談部分が面白かったので、そこのみをとりあげてみる。
 
 糸井:岩井さんの以前の「貨幣論」なども読んでいたが、本当にはよくわからなかった。というのは、それを書いている動機が見えなかったから。「会社はこれからどうなるのか」を読んではじめて動機が理解できた。
 岩井:自分は若いときは人間の環境決定論を信じていた。その後遺伝決定論に傾いてきている。しかし、人間は「言葉」と「法律」と「おカネ」を使うという点でサルとは違うと思う。これは遺伝でもないし物理的存在でもない。社会科学があつかうのは、そういう人間がつくりだしたものでありながらそれが人間を人間たらしめているものであると気がついた。
 糸井:同感。それが見えてくると、ほとんどの何かがうそっぱちに見えてくる。
 岩井:人間に文学があるのは「言葉がウソをつけるから」。現実にないものを指し示すことができるから。マルクス主義はこの人間と人間を媒介する何ものかを扱うことができない。一方、近代経済学は《大きいことは語らない》ように自己規制をしている。確かに近代経済学イデオロギー的な傲慢さがないという点では好ましいのだが、形而上学的な驚きがまるでない。
 糸井:岩井さんの書くものは、「正しいことは何かはわからないけれど、少なくとも。それではない!」という指摘が素敵。同時に批判のための批判であることを嫌うのも同感。では自分は「正義を信じているわけでもないのに、なぜ、そんなにアクティヴになるのだろう?」 なぜ、こんなに一生懸命になれるのだろう?
 岩井:「神はいない」と思っているのに、なぜこんなに使命感を感じるのだろう? 神はいなくて、命は有限なのに。
 糸井:他人を疑いながら生きていると、たのしくなくなる。「金がぜんぶだよ」といわないほうが、自分がラクになる。
 岩井:今のアメリカの近代経済学者は、もし人間が合理的な存在であるとしたらという壮大な思考実験をしている。
 糸井:「カラマゾフの兄弟」の大審問官をアメリカはやっている。
 岩井:アメリカの近代経済学者は決してバカではない。
 糸井:「アメリカ人はバカだ」と言う側の背景にあるのは文学信仰だと思う。自分はフランス文学とかを読んでいて、趣味がよくて、あいつらそういうものを読んでいないからバカだと。でもそういう人には怒りを感じる。
 岩井:同感。西洋の強さをもっと知らねば。
 
 糸井氏は学者ではないからこういうことをいってもいいのだけれど、学者である岩井氏がこういうことをいっていいのだろうか。岩井氏のいっていることはメタ学問であって、学問の枠をでてしまっている。岩井氏もいっているように経済学者であれば共有する認識がある(たとえばデフレは無条件に悪いというようなこと・・・日銀前総裁はそういう認識を共有していなかったようであるが)。しかし経済学においてはおカネは測定可能な変数としてあつかわれる。そもそもおカネを実体をもたないものとしてしまえば近代経済学は根底から崩れてしまう。岩井氏のように近代経済学の明晰性にひかれてそこに参加しながら、結局学問の前提を疑うようになってしまうのは、ノーマルサイエンスの規範の外にでてしまうということである。しかしその一方、経済学は人間の本質について何も知らないというような文学の方面からの批判にもまた同意できない。
 われわれは死すべき存在であることを知りながらそれでもなぜ努力をするのかというのは、少なくとも経済学の方面からの答えは期待できない問いである。それが岩井氏をメタ経済学にむかわせるのであるが、しかし一方、文学からの答えを受け入れるにはあまりに近代的な学問の訓練に馴染みすぎている。
 医療の場でいえば、一方で患者の治療をしているひとがいて、もう一方には、そもそも人は生きねばならないのかと問う人がいる。その両者に間に会話は成立しない。医療者はもしも人が生きねばならないとすればどういうことができるかに答えているのであり、医療の研究の中からは《人は生きねばならない》という要請はでてこない。
 それではその答えはどこからくるのか? それはどこからもこない。《「神はいない」と思っているのに、 命は有限であると知っているのに、なぜこんなにも使命感を感じるのだろう?》という問いへの暫定的な答えは、人もまた動物であり、動物はそのように作られているというものであろう。もちろん、人間以外の動物は使命感などは感じない。でもそれは人間が言葉を発明したことにより、動物がもっているある種の力のようなものを使命感という言い方で表現しているだけなのかもしれない。そしてもちろん自分にはそんな使命感など微塵もないという人もいる。
 生き物は環境の中で少しでも生き延びやすいやりかたを試行錯誤して追求していく。それが進化である。他人を疑いながら生きることが《生き延びる》ための有効なやりかたであるのかについてはまだ進化の方面からは結論がでていない。結論をだせるだけの時間を人間はまだ生きていないからである。たぶん、言葉を作ったことは人間が生き延びる上で有効であったのであろう。しかし《言葉の嘘》に由来するさまざまな事象が人間にとって有用であるのかどうかはまだわかっていない。
 会社は誰のものかということを考察する鍵として、「近代社会の大前提は、ヒトとモノを峻別する」ということと「ヒトはモノを所有できるがヒトを所有することはできない、ヒトがヒトを所有するのは奴隷社会である」ということをあげている。ある事態を批判するのにそれは近代社会の大前提に反しているという指摘がどのくらい力をもつであろうか。その方向は違っているよ、という気がする。会社が誰のものかということは、岩井氏がいうような法人をめぐる法理論によって決着がつく問題ではないと思う。岩井氏のいっていることは、「それは理屈というもの」であって、ただの理屈は容易に人を納得させない。
 文学的な経済学批判を嫌いながら、経済学に形而上学がないと不満をいう。要するに、何が正しいかどうかわからないが、文学的な経済学批判も形而上学を欠く近代経済学も嫌いということらしい。しかも批判のための批判はしたくない、と。いっていることはわかるが、では何をすればいいのだろうか?
 糸井氏は、それが成果を産むかどうかはわからないにしても、とにかく何らかの活動をしている。岩井氏もまた本を書いている。それが何かをすることに該当するのだろうか。
 会社経営者があるいはサラリーマンが、《法人とはモノでありながら法律上ヒトとしてあつかわれるきわめて特殊な存在であり、近代社会の鬼子である》などいう観点から会社について考察するということは、金輪際おきないのではないかと思う。養老孟司が数学者にとっては数の世界というのが実体として存在するのだと、信じられない、自分には理解できないという口ぶりでどこかに書いていたが、会社の所属しているひとにとって、会社とは法律書の上にのみ存在する規定ではなく、実体として存在しているものなのである。


(2006年4月16日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植) 

会社はだれのものか

会社はだれのものか