倉橋由美子 「偏愛文学館」

  [講談社 2005年7月7日初版]

 
 もともと出版が企画されていたものなのだろうか? それとも倉橋氏の死に便乗したものなのだろうか?
 文字通り倉橋氏が偏愛する文学作品につき語ったもの。38冊の本が取りあげられているが、そのうち直接、吉田健一と関係ありそうな本が6冊あり(「半七捕物帳」、「聊斎志異」、ともに吉田健一訳のウォーの小説2冊、吉田健一自身の著作が2冊)、ほとんど吉田健一賛歌みたいな本である。
 最後に以下のようなことを書いている。吉田健一が自分の書架には本が五百冊もあれば十分だといったというのをうけて、
 「私の頭の中の偏愛文学館はまことに貧寒としたもので、五百冊もの本を並べることはとても無理です。そうである理由の一つに、その書架の一角を吉田健一の全著作が占めるのは間違いないとして、明治以後の文学にはほかに入れるべきものがあまりにも少ないということがあります。」
 これは直ちに吉田健一の「東西文学論」の以下のような奇怪な文を想起させる。
 「明治以後の文学者達が苦心して築き上げた現代の日本語といふものさへ残つてゐれば、そして外国の文学作品を従来通り読むことが出来れば、その明治から今日に至るまでの文学者達の書いたものが一つ残らず消えてなくなつた所で、誰も別に不自由はしないのではないだらうか。」
 こういう過激なことを書いたので「東西文学論」は連載を中途で打ち切られてしまったという話がある。吉田氏が西洋かぶれの嫌味な文学者と思われていたのもむべなるかなである。
 倉橋氏が選ぶ吉田健一以外の明治以降の日本の文学者は以下の通り。漱石、鴎外、岡本綺堂谷崎潤一郎内田百輭中島敦宮部みゆき杉浦日向子、坪井栄、川端康成太宰治福永武彦三島由紀夫北杜夫澁澤龍彦の15名。岡本綺堂宮部みゆき杉浦日向子、坪井栄の4人を除いたらあまり意外性のない人選であるような気がする。むしろ日本以外の文学者のほうが変わった人選である。ジュリアン・ブラックとかジュリアン・グリーンとかのマイナーな作家、ハイスミスやアーチャーといった娯楽小説畑の作家などがふくまれいるが、古典がほとんどない(マン「魔の山」、オースティン「高慢と偏見」くらいであろうか?)。
 これに較べたら吉田健一の「書架記」のほうがずっとまともな選択である(ただし日本人の著作はゼロであるが)。吉田健一は「書架記」でとりあげた本を全部原文で読んでいるはずであるが(ただし「千夜一夜」はマルドリュス訳とことわっている。さすがの吉田氏もアラビア語は原文で読めなかったのであろう。しかし、これとて日本語で読んだわけではない。あとはすべて英語かフランス語の本である)、倉橋氏はここでとりあげている外国の文学のおそらくかなりの部分を翻訳で読んでいるのではないかと思う。少なくともウォーに関しては吉田健一訳で読んでいなかったら魅力は半減だろうと書いているから、原文ではなく吉田健一訳で読んだことは間違いない。仏文科出身なのでフランス文学も英文学も原文で読んでいるのかもしれないが、「夢の浮橋」の主人公の英文学を専攻している桂子さんがウォーで卒論を書こうとして英語が難しくて断念、オースティンを選ぶというあたりは、案外倉橋氏の語学の実情をあらわしているのかもしれないとも思う。ひょっとして、吉田健一にかぶれてウォーの原文にあたってみたが、歯がたたなかったのではないだろうか。
 わたくしも「黒いいたずら」などはウォーの作品というより吉田健一の作品のような気がするくらいであるので、倉橋氏のいうことはよくわかる。倉橋氏も原著の散文の魅力ではなく、翻訳者の散文の魅力で読んでいるということであるので、吉田健一にならって○○訳××とするのが正しいような気もする。倉橋氏は海外文学も日本人の書いた文学として読んでいるのではないだろうか。
 鴎外は「かのように」である。どうも「かのように」哲学に対する倉橋氏のスタンスが今ひとつはっきりしない。「かのように」哲学を賞賛するわけではなくて、神を信じないのであればそれを公然と口にして神とそれを信じるものを罵倒すべきだという野暮天と、神を信じないのは許せないと思い込む信仰をもつ野暮天の双方が嫌いなだけという気がする。わからないのが、神を信じないけれども、宗教を罵倒すべきだとも思っていない人間をどう見ているかである。これは「かのように」とは全然違う。神を信じているかのような顔などはしない。ただ黙って信じない。
 「かのように」の人は世間に交じわる人なのであるが、黙って信じないひとは世間とは交じわらずにいる人である。あるいは「かのように」の人は上にたつ人であるが、黙って信じない人は、並び立つひとである。倉橋氏は生涯、「賢者の統治」という夢を捨てられなかった人であったように思う。それは氏のアキレス腱であったかもしれない。
 綺堂の「半七捕物帳」。これはおそらく茂、健一の親子対談である「大磯対談」で、健一が「お父さん、どんな本読んでます」ときいたところ、茂が「銭型平次!」と答えたのに、健一が「ぼくは半七のほうがいいな」と応じたのに対応している。この章の巻頭、吉田茂が銭型平次を読んでいると当時の人が嗤ったのをたしなめて、「でも自分としては半七を挙げて欲しかった」などととぼけて書いている。倉橋氏に吉田健一がのり移ったのであろう。倉橋は綺堂の文章を誉めるのだが、本当にそうなのであろうか? 綺堂の文章は英文直訳体のような相当変な文章であると思うのだが。
 「聊斎志異」はここで挙げられているのは岩波文庫の抄訳であるが、吉田健一が柴田天馬訳を絶賛していたことは吉田氏の読者なら誰でも知っているはずである(もう一つは矢田挿雲の「江戸から東京へ」と「太閤記」)。怪奇譚を愛するというのも吉田健一倉橋由美子の共通点の一つかもしれない。
 吉田健一の著作では「怪奇な話」と「金沢」がとりあげられている。そこで吉田健一の文章が弁護されているのであるが、
 「その三百年前にここでポルトガル人の守備隊がオマニ族のアラビア人に包囲されて八か月間、籠城を続け、この二階の部屋から沖を眺めて救援の艦隊の帆が現れるのを今か今かと待っていて、それが到着したのは落城して十日後のことだった。」
 これは吉田健一訳ウォー「黒いいたずら」の一部である。吉田節になれた人なら奇異に思わないかもしれないが、普通ならば、「今か今かと待っていて」ではなくて「今か今かと待っていたが」である。英語でたとえば、He is rich, and he is stingy. といった文章がある。これは「あいつは金持ちのくせにけちだ」である。しかしこれが健一流では「かれは金持ちであり、そしてけちである」となる。英語の表現は順態接続、意味は逆態接続であるのに、それを順態接続として訳してしまう。吉田健一は日本語より英語がうまい人であったので、半分英語頭の人である。その文章は慣れないと読むのが非常につらい。しかし慣れてくると麻薬的に作用してくる。あるいは良い酒のようにいくらでも読めるようになる。よく読むと理解できない文章でもなんとなくわかったような気になってしまう(少なくとも吉田氏はこういうことをいいたいのだろうなと推測できるようになる)。だが、そういう文章をよい文章とは言わないはずである。倉橋氏は酒を呑まない人であったようであるから、吉田氏の文章が酒代わりになったのだろうか。
 吉田健一の文章は当たり前であるけれども、吉田健一にしか書けなかった文章であって、われわれの文章の規範とはならないものである。いいたいことがあってどうしてもあの文章を必要としたのであって、いいたいことがない人が真似をしたら悲惨である。本当は吉田健一はあの文章でもいいたいことを言い尽くせなかったのだと思う。
 「猫が誠実ないとは言へなく、犬が誠実であるといっても限度はありして」というのは福原麟太郎が書いた吉田健一の文章のパロディーであるが(「吉田健一・人と作品」福原麟太郎著作集7 研究社)、こういう文章をわれわれが書いたら添削されるに決まっている。
 ということで、この本は《吉田健一偏愛文学館》といった趣の本なのであるが、それを隠すことなく、臆面もなく正直に書くところは倉橋氏の美点なのであろう。
 

(2006年4月16日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)

偏愛文学館??

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