(10)英語

 英語が旨いとか、旨くなるとかいうことは、一般には、ぺらぺら喋れることを意味しているらしい。そういう英語が旨い人間が外国人、或は極端な場合には、やはり英語が旨い日本人を相手に英語を話しているのを見ると、兎に角、ぺらぺら喋っているということが先に立って、当人は得意満面、人間が人間を話しているのよりも、軽業師が大勢の前で何か芸当をやっているのに似た印象を受ける。立て板に水というのは、こういうことを言うのだろうか。これを擬音で表せば、
「テケテンドンドンテンドンドン、テンツク。ドンチュウ・シンク?」
 これに対して相手の外国人が何か返事をする。或は、それがやはり英語が旨い日本人ならば、
「テンドンテンドンテンドンドン、テケテン、アイ・シンク。」
 そうすると初めの日本人は前にも増して勢づいて、
「テンテンテンテンテンドンドン。テケテケテケテケケテ、」とやり出す。

 「続英語上達法」という文の書き出し。
 吉田健一というひとは小さい時は家では家族の間では英語で会話をしていたとか、大人になっても日本語より英語が上手いとか言われていたひとで、池澤夏樹さんは、吉田健一のある文をひいて、「一見して悪文」「指示代名詞が多すぎる」「論旨が右往左往して筋が読み取りにくい」とか散々悪くいった後、「しかし、試しにこれが英語で書かれたものだったとしてみると、実にわかりやすく読めるのだ」といって、「この人は頭の中にでは英語やフランス語でものを考えていたらしい」といっている。日本語の文を考えるときに英語やフランス語で考えることはいくらなんでもないと思うが、頭の中の論理構造が欧米語的であったことは確かなのであろう。
 倉橋由美子さんも、「慣れない人には吉田健一の文章は読みにくいかもしれません。・・長くイギリスで暮らし、イギリスやヨーロッパのことを知り尽くした上で文章を書いている人ですから、いたるところに文明や時代に対する苦い判断が働いていますし、文章の構造もあちら風です。関係代名詞の出てくる英文の構造をそのまま移したような入り組んだ文が多く、そして論理的です」と書いている。これは悪口ではないわけで、健一贔屓の一人として、「英語やフランス語の作品を翻訳することを通じて、どんな複雑微妙なことでも日本語で言えるところまで行き着いた結果がこの吉田健一の文章です」と絶賛している。
 悪文だったり、読みにくかったりするのが名文だったりするというのは何だか変なのだが、健一さんの書いたのは「以心伝心」とか「言外の含意」といったことを一切計算にいれることのないドライな文章で、この人、徒党を組むとかいったことが一切ない個人として仲間とか党派意識とかがどこにもない文章を書いたという点で、日本語を書く人としては異質なひとであったということなのだろうと思う。わたくしなど丸谷才一さんとか池澤夏樹さんの文章を読むと、どこか「テンドンテンドンテンドンドン」というのが聞こえてくるような気がするというか、「得意満面」というのが何か見えてくるように感じる。丸谷さんや池澤さんは吉田健一よりもずっと日本人なのだと思う。
 健一さんの話す英語はキングズ・イングリッシュだったので、現地の役人などとと話すと「吉田さんが、われわれには何だか解らないほどの速さの英語を使うと、それが先方には十分よく通じて、何でもなめらかに進行する」(福原麟太郎)ということになるらしい。「アクセントを決して間違えず、文法上の誤りを冒さない標準英語」という河上徹太郎氏や池島新平氏の話す「申し分なき英語」などというのとはレベルが違う会話能力であったらしい。もちろん「テケテケテケテケケテ」などとは縁もゆかりもないものだったのだろうが。
 「猫が誠実でないとは言へなく、犬が誠実であるといっても限度はありして」というのは福原麟太郎作の吉田健一文体のパロディーだが、この文章は「猫が誠実でないとは言えないにしても、そうかといって犬が誠実であるというのに限度はあって」というようなものに通常は翻訳されるのかと思う。パロディー文の何が変かというと、この文章が順態接続になっている点で、日本語ならこれは逆態接続になるはずなのである。しかし英語では、「彼は貧しい。そして正直である。」という文章は可能である。だが、日本語なら「彼は貧しいが、正直だ」とならないと変なのである。福原さんのいうように「テニヲハで無限に続く文体であり、ピリオドが十行さきになってもまだ来ないというのは珍しくない」というのはやはり名文とは言えないだろうと思う。
 誰か健一ファンが文章の横綱とはいえないが、張り出し大関くらいにならといっていたが、まあ関脇か小結くらいのほうが似合いではないかとわたくしは思う。

英語と英国と英国人 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

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偏愛文学館 (講談社文庫)

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