C・カレル「すべては1979年から始まった」(2)第2、10、13、18、24章 トウ小平の中国

 
 本書は第2章以降、トウ小平ヨハネ・パウロ二世、サッチャー首相、ホメイニー師の4人の動向とアフガニスタン情勢が交互に描かれていく。世界で同時に進行していく変化を臨場感をもって描くためであろうが、2、10、13、18、24章はトウ小平をあつかっている部分であるので、それをまとめてみていくことにする。
 1976年中国北東部の唐山市で大きな地震があり、政府の発表で24万人、専門家の推定では100万人ともいわれる死者をだした。20世紀で最悪の地震だった。北京でも地震は感じられ、数ヶ月前に政敵に追い出されて追放されたトウ小平もそれを感じた一人だった。76年は辰年で中国では大きな厄災がおきる年と信じられていた。この年の1月には周恩来が逝去している。
 トウ小平は1956年には中国共産党総書紀(ナンバー3)に選ばれているが、1969年文化大革命で失脚、地方のトラクター工場に送られた。長男は紅衛兵に追われて大けがを負っている。1973年に国内追放から復帰し周恩来の路線を歩もうとするが、周恩来を敵とする「4人組」は、周恩来の死を悼む民衆の背後にトウ小平がいるとして、その追放を毛沢東にせまった。当時80歳で筋萎縮性側索硬化症で他のひととの意思疎通が困難となっていた毛沢東はその要求を受け入れた。
 しかし、1976年に毛沢東が死に、毛沢東が後継者に指名した華国鋒は「四人組」を逮捕した。それにより文化大革命は終息し、トウ小平もふたたび復活し、1977年には副総理になった。当時73歳。
 トウ小平は1904年、四川省の地主の子として生まれた。優秀であったので、15歳でフランスへの留学生の一人に選ばれる。しかし、留学の計画が杜撰だったため、ろくに勉学はできず、安価な労働力として使われることとなった。フランスで当時の近代産業の底辺の労働者の生活を知ったことは共産主義への共感へとつながっていった。
 1921年に中国共産党が設立される。その一年後の1922年には、トウ小平中国共産党ヨーロッパ支部に参加している。当時別の留学プログラムでやはりフランスにいた周恩来の影響も大きかった。だが、共産主義運動をしたため官憲に逮捕されそうになり、1926年フランスをでてモスクワにむかい、そこにある孫文を記念する中山大学で学んだ。
 1920年代には、ソ連は中国の共産主義者は国民党と連携するように指導していたが、実際には中国共産党の発展可能性に懐疑的であったので、国民党により肩入れしていた。1926年、トウ小平は中国に戻ると上海で活動するようになる。1925年に孫文が死ぬと、国民党の後継者争いで蒋介石が勝利する。蒋介石は左派を粛清した。ここから国民党と共産党の長期にわかる内戦がはじまる。
 内戦の過程でトウ小平毛沢東を知ることになる。1930年代には共産党内では毛沢東はまだ主流ではなかった。1934年、国民党の圧力によって江西ソヴィエトを抛棄せざるをえなくなった共産党は後に長征と呼ばれることになる大移動を開始する。当初9万弱だった勢力は一年後には1万人まで減っていた。しかしとにかくも生き残った。この長征の過程で毛沢東は政敵の追い落としに成功した。トウ小平毛沢東の下で出世した。
 1937年に日本軍が中国を侵略しはじめると、国民党と共産党はしぶしぶではあっても連携せざるをえなくなった。その間、トウ小平は軍事的に大きな成果をおさめていった。
 1949年、毛沢東軍が北京に進軍して、中華人民共和国が成立し、トウ小平も西南地区を担当した。55年には中央政治局に加わる。
 1956年にモスクワを訪問中、フルシチョフスターリン批判に立ち会うことになる。このスターリン批判は内外の共産党支持者に激しい衝撃をあたえた。多くの共産党支持者にとってスターリンは半ば神のような存在であったのであり、その無謬性がマルクス主義思想の完全性を示すものと考えられていた。トウ小平スターリン批判にも冷静だったが、頑固なスターリン主義者である毛沢東には大きな影響があるだろうことを予想した。
 ソ連の脱スターリン路線はソ連と中国との亀裂を深めていくことになる。長い間党に君臨した指導者の遺産に疑問を投げかけることは党に破壊的な影響を及ぼすことを、この時、トウ小平はしっかりと胸に刻んだはずである。
 フルシチョフスターリン批判をきっかけに、もともと妄想症の気味があった毛沢東は、脱スターリン的な動向が中国に生まれないようにと考え、57年に「反右派闘争」を開始した。この時はトウ小平は忠実に毛沢東に従っている。
 トウ小平劉少奇と手を組んで、中国の安定化をめざすことになる(1961年「黒い猫でも白い猫でも、ネズミをとるのがいい猫」という発言をした)。毛沢東大躍進政策のもたらした惨禍を見たことは、政治の安定維持が経済政策遂行の大前提で、それなしに経済改革もなしえないという信念をさらに強化することになった。(以上、第2章)
 毛沢東が後継に指名した華国鋒は「四人組」を逮捕し「四つの近代化」(科学技術、工業、国防、農業)の推進を宣言した。しかし毛沢東の作っていた管理組織を土台にそれをおこなうとしたので、とんでもない非効率と巨大な財政赤字を生むこととなった。「毛沢東主席の決定したことはすべて支持し、その指示はすべて変えない」という華国鋒の「二つのすべて」の方針のもとでの近代化には無理があった。毛沢東に粛清された人たちの復権を求める声も大きくなってきた。それを背景に、77年、トウ小平はまた復権した。
 1978年に「実践は真理を検証する唯一の基準である」という論文がでた(胡耀邦の指導によるもの)。これは毛沢東の言葉を引用しながら「二つのすべて」を否定していこうとするものだった。「凝り固まった革命的な情熱」ではなく「実際の成果」で検証するという方向である。トウ小平は「事実に基づき真実を求める」という毛沢東の言葉をしばしば使っていた。これら言葉による争いはもちろん権力闘争ではあった。多くの共産党幹部にとって、革命は自分達に権力をもたらしたものだった。ソ連スターリン批判による混乱をみて、毛沢東批判は中国でも同様の混乱を生むであろう、と多くの幹部が考えた。
 1978年11月の「中央工作会議」は、そのような状況のもとでひらかれたものである。10年の間、文化大革命によって中断されていた高等教育はトウ小平の指示で再開された。しかし高等教育を受けたものにも仕事がなかった。若者の間に不満は高まっていた。農村でも毛沢東人民公社を否定し個人経営の農業を求める動きもでていた。この会議で「毛沢東思想を国家統一の象徴として維持し、それによって国内の安定を維持しながら、その安定のうえに近代化を目指す」という方向が確認された。
 トウ小平は「我々は明治の日本やピョートル大帝のロシアの精神で働かなければならない」と述べたことがある。これは他の国から何かを学ぶことなどまったく念頭になかった毛沢東文化大革命の急進派には到底ありえなった大胆さである。また、一部の地域や人間が他よりも早く「裕福になる」ことは悪いことではないとし、「我々は平等主義と対決しなくてはならない。うまくやる人間は、隣人の手本になれるだろう」ともいった。「少数の進んだ人々なら道徳的呼びかけに反応してくれるかもしれないが、それも一時的であるし、多くのひとにとって、経済的手段を用いずにやる気を引き出すことはできない」ともいっている。
 1979年「社会主義的近代化」がはじまることになった。しかし依然として毛沢東は党の神であった。(以上、第10章)
 1970年代の初頭から米中は国交正常化に動いたが、ニクソン大統領の失脚、文化大革命の混乱と毛沢東の死によって、停滞した。米中の国交回復への動きはソ連への牽制の意味があったが、台湾の位置づけがネックとなった。それでも1979年の元日に正式な国交の回復が実現した。
 不思議なことに、古参の共産党員の多くは、中国を近代化できるのは共産党だけだと思っていた。しかし、大躍進で疲弊していた国民はそうではなかった。
 「新中国」は共産党が排除するはずであった貧困を克服できていなかった。トウ小平は国民の生活向上を願ったが、1977年2月のベトナムへの侵入にみられたようにモスクワ寄りになったハノイを懲罰するというような行動も同時にとった。しかし、このベトナム侵攻は完全な失敗に終わった。
 中国のひとびとの中からは「真の民主化」、すなわち「自分が自分自身の運命の主人公」であることを求める動きがでてきた。「共産主義支配体制」自体への挑戦である。この多元主義への希求にトウ小平は断固反対する態度をとった。「北京の春」への動きに「四つの基本原則」で答えた。すべての党員が「社会主義への道」「プロレタリアート独裁」「中国共産党の指導」「マルクス・レーニン主義毛沢東思想」を堅持しなくてはならないというものである。これによる国家の安定があってこそ、必要な経済改革を推進が可能となるのだ、としたのである。ブルジョア民主主義や個人主義的民主主義には断固反対する、と。(以上、第13章)
 トウ小平が成功したのは、何百万人もの中国人の独創性や起業への欲求を解放したためだった。市場経済体制の導入は、個人的なレストランの開業といったサービス業の領域からまずはじまった。毛沢東共産党は農民に依拠していた。しかし大躍進政策はその農民に激烈な厄災をあたえることになった。そこに集団化にかわる生産責任制(世帯生産請負制)を導入することは人民公社を解体していくことになった。
 さらに深センでの経済特別区での実験もはじまった。(以上、第18章)
 1979年からはじまった経済自由化によって、中国の経済や農業はめざましく改善していった。10年ほどのあいだに飢餓が常態でありつねに餓死の可能性と隣り合わせであった人たちが、楽に生活でき、余剰を輸出できる状態へとかわっていった。
 大躍進時代に毛沢東によって設立された人民公社は見る間に消え去ってしまった。トウ小平らが経済特別区を既存の商業地から離れた未開発地域に設置したのは、外国人の流入による思想汚染を防止するためである。しかし、その副作用が汚職だった。そのことは、旧来からの共産主義者にとっては搾取と不平等をもたらすものと映った。そして共産党支配を脅かすものとも映った。
 現在ではトウ小平が中国に法外な力と繁栄をもたらしたことは明かである。しかしまだそれがそれほどはっきりはしなかった1980年代には、秩序の崩壊や社会変動のほうが目立った。中央経済体制が崩れてくるとインフレが進行した。不平等が強まり、腐敗が拡がった。ソ連ペレストロイカへと動いた時代を見て、中国でもなぜそれが出来ないのかと不満を持つものもでてきた。それが天安門の悲劇を生んだ。鎮圧の命令を出したのはトウ小平である。トウ小平は「欧米型のブルジョワ共和国への希求とは、共産党を倒し社会主義体制を倒すことと同義である」として、その運動を弾圧した。
 それならば社会主義の定義とは何なのか? トウ小平にとってはそれは国内を統一できるシステムのことであり、毛沢東的な平等主義や差異の急進的な均一化を意味するのではなかった。
 中国の成功は、世界の「市場革命」の主要な要因となり、経済改革に対する集産的なアプローチを否定するものとなった。同時に民主主義を否定し一党独裁を維持しながら市場経済を取り入れるというやり方は、多くの独裁国家にとっても魅力的なプログラムとなっていった。
 トウ小平共産主義の理想に生涯を捧げたのであるが、共産主義の思想としての終焉にも誰よりも多く寄与することにもなった。(以上、第24章)
 
 現在の中国はかなりの足踏み状態になっているのだとしても、かつての千万人単位の餓死者が出た状態に較べれば格段に豊かになっていることは間違いない。しかし、それがマルクス主義あるいは共産主義の成果であると思うものもまずないのではないかと思う。そして本書によれば、それはトウ小平の改革がもたらした成果なのであり、トウ小平は生涯共産主義者であったと本書の著者はいうのである。
 それならば、そもそも毛沢東共産主義者マルクス主義者)だったのだろうか? 高島俊男氏が「中国の大盗賊・完全版」でいう、毛沢東もまた歴代の中国でしばしば見られる盗賊皇帝(朱元璋、李自成、洪秀全らと同じ)の一人という見解はどのくらい正当性がある見方なのだろう? 歴代の盗賊たちとは違って文雅のひと、詩人としては大したひとではあるというのだが。しかしマルクスの本などはほとんど読んでいなくて、せいぜいパンフレットを読んだくらい、毛沢東の著とされているものは部下の秀才の秘書たちが書いた原稿を毛沢東が読んだということから毛沢東著とされているだけなのだ、と。
 毛沢東マルクス主義は煎じ詰めれば「造反有理」ということだといっているのだそうである。しかしこれは、どの盗賊だっていっていたことではないか? もっとも毛沢東は当然、自分の部下の造反は絶対に認めない人だったが。そして毛沢東は大変な読書家だったそうである。スターリンもまたそうだという。おそらくポルポトもそうだったのであろう。
 では、毛沢東が崇拝していたというスターリン共産主義者マルクス主義者)だったのだろうか? 毛沢東スターリンが思っていた共産主義マルクス主義)というのはどのようなものだったのだろうか? 中国に飢饉などの惨禍をもたらしたのは農業集団化などをふくむ大躍進政策だったとされるが、それはもとをたどればスターリンの集団化政策を範としたらしい。しかしマルクスの著書を読んでも農業集団化などというのはどこにもでてこないはずである。そもそもマルクスは農業にはほとんど関心がなく、その頭にあったのはマルクスの当時のイギリスの都市であったはずである。発展段階説によれば、当時のロシアや中国に社会主義革命などおこるはずはなかった。
 それで思い出すのが、山本七平氏の「ある異常体験者の偏見」の巻末に付されている新井宝雄氏の「森氏の批判に答える」と「決定的な要素は人間である」という二つの文章である。新井氏は毎日新聞編集委員で、氏の書いた「お隣り中国」という本を森康生という方が批判したのに答えたのが「森氏の批判に答える」であり、その返答文を批判した山本氏の論に反論したのが「決定的な要素は人間である」である。それは昭和47年から48年(1972〜73年)に書かれている。
 新井氏はその当時の新聞社にはたくさんいた毛沢東万歳、文化大革命熱烈支持派のひとりで、だから当時の新聞報道を読んでも文化大革命というのが何なのかさっぱり解らなかったのだが、ここでそれをとりあげたのは、新井氏を批判しようというのではない。ただその文章の「強大な武器を持っていた日本がなぜ中国に敗れたのか。それは偶然に負けたのではなく、負けるべくして負けたのである。それは、なかば、植民地化された中国を、独立した近代国家にしたいという中国の民衆のもえたぎるエネルギー、いいかえれば反帝・反封建の道を進んできた中国革命の力量によって負かされたのである」とか、「武器は決定的な要素ではなく、決定的な要素は物ではなくて人間なのである」とかいうあたりにみられる「ひとびとがある崇高な目的のために結集して目を輝かして、そのために生きる」といった方向への無条件の賛美といったものの例として提示したいだけである。その当時、北朝鮮(当時の新聞の表記では朝鮮民主主義人民共和国北朝鮮))での建国記念日などでのマスゲームなどを見ても感涙を流しているひとがたくさんいた。ひとびとがおのれのためにではなくひとびとのために、みんなのために生きている、なんと素晴らしいことか! というわけである。それに引き替え、資本主義の世界では、みながただただおのれの利益のみに生き、他人のために生きることをしない。人々は分断されて個々人にばらばらになり、砂粒のような存在として生きているだけである。おのれの欲望を充足するためにだけ生きるというのでは虚しくないだろうか? 人間はもっと崇高な存在なのではないか? というようなことである。毛沢東語録を手に毛沢東の前に結集した無数の紅衛兵たちは何という理想に燃える素晴らしい人たちなのだろうか!と多くのひとが当時感激していた。
 そういえば社会主義リアリズムという言葉もあった。芸術は人民に奉仕しなければならないというのである。芸術のための芸術というようなことを否定して、社会建設という目的に仕えなければならない、と。ショスタコーヴィッチの作品もプロコフィエフの作品もそれなしにはありえなかった。そしてそれは現代音楽の不毛の中に何輪かの花を咲かせたかもしれない。
 だが、トウ小平のした改革というのは、人は他人のためには働かない、己のためにしか働かないというということを認め、自分の利益という人参をみせることでひとを動かそうというものだった。それは美事に成功した。ということは資本主義から次の発展段階に進むと人間はそれまでとは違った高貴な存在になるという方向の話が否定されたということである。
 しかし、マルクスがいったのは労働者が作り出した価値を資本家が収奪してしまうという話なのだから、労働者が自分の作り出した価値を自分のものにするというはいたってマルクスの方向にかなった話なのかもしれない。むしろそれまでが、労働者のつくりだしたものを国家が奪っていたということで、それに対して労働者がサボタージュしていただけなのかもしれないのである。
 新井氏のようなひとから見れば、共産社会で政治に従事するひとは己をむなしくして他に奉仕する、無私の精神でそのもので人民に奉仕するような人たちばかりなのだから、共産党政権が人民に悪をなすはずはないということになるのだろうと思う。ただ時々、たとえば林彪のように無私に安住できなくなり、権力欲が頭をもたげてしまう残念なひとも出てきてしまうことがあり、それは毛沢東のような正義の人の鉄槌を受ける、ということになる。(この新井氏の文は林彪事件の直後あたりに書かれており、毛沢東の後継者に指名されていた林彪がなぜか逃亡を図って墜死したことについて、しどろもどろの解釈が書かれている。)
 現在から見ると文化大革命は権力闘争であったということになるのだろうが、毛沢東永久革命的な発想を持っていなかったとはいえないだろうと思う。本書ではしばしば毛沢東には誇大妄想癖があったことと書かれているが、著者から見れば、人間がもっと崇高な存在になっていくなどという発想は誇大妄想そのものなのであろう。
 おそらく新井氏のようなひとから見れば、毛沢東は一切の私心をもたない聖人、神のようなひとであったのだろうがら、高島説を知ったら腰を抜かしたであろう。この「中国の大盗賊」は最初1989年に出版されているが、毛沢東大盗賊説は当初の原稿からすると、随分と温和しい婉曲なものとなったらしい。それで当初の高島氏の原稿のまま、あらためて2004年に出版されたのが「完全版」ということである。
 高島説によれば、中国においては「国家」というのは、皇帝とその統治機構を指す語だという(岡田英弘氏もそのようなことを言っていた(「皇帝たちの中国」))。まあ、実際は皇帝の下の高官数人との集団指導であったとしても建前上は国家は皇帝のものである。皇帝が世襲でないという点を除いては共産党中国も昔の王朝国家と変わらない、と。しかも国家が西洋風の国民国家ではなく、昔風の中国の国家であって、すなわち、衆庶の上に国家が乗っている。ちなみにトウ小平も高島氏によれば、皇帝で、初代の遺志にそむいて国家を隆盛に導いたという点で明の永楽帝にあたるのだ、と。しかし毛沢東の最大の願いであった自分がつくった国家の安泰と存続を実現したという点では、忠臣である、と。
 だから毛沢東が、己の権力を保つために非常に多くのひとを粛清したりしたことも、それは私心からのものではなく、真の道を知っている自分が生き残って人々に正しい道を示していくことは正当化されるということになったのだろう。
 本書では集団化の方向はただただ失敗の歴史と書かれているように見えるが、わたくしが小学校から中学校にかけて、ソ連では第○次五カ年計画とか七カ年計画というのが進行していて、大陸間弾道弾とか人工衛星とかを世界最初に成功させたりもしていたので、計画経済というのは非効率であるというようなことはどこでも説かれてはいなかった。小学校の教科書にもソ連コルホーズとかソフォーズ(?)だとかいう集団農業の話もでていて、何か素晴らしい試みであるような書かれ方がされていたように記憶している。毛沢東がそれを見習って集団化を図ったのも当時としては理解されうる試みだったのかもしれない。われわれは人民公社の無残な失敗を知っているし、それを内部から骨抜きにして商品経済、市場経済を中国にもたらしたトウ小平は中国を救ったと思うけれど、粗製乱造ならまだしも、要求される製品の品質が高くなり巧緻な製品が要求されるようになればなるほど計画経済では無理で商品経済の導入が必須となってくるということを受け入れる柔軟性をトウ小平はもっていたことなのだろうと思う。
 本書の別のところで、サッチャー首相が福祉国家から、商品経済、市場経済への転換を試みる伝道師のように描かれているが、その一方では人間の私利私欲の肯定を醜いものとみなす宗教のひとホメイニー師も描かれるし、物質のことしかあつかえず魂の問題には無縁な東欧共産主義体制の批判者としてのヨハネ・パウロ二世も取りあげられている。
 「およそ人間は無節操で利に走りやすい悪人であり、人間の行動には私益追求以外の目的はないと想定しなければならない。いかなる統治システムもこの考えにもとづいてつくられるべきである。この私益を通じて人間を動かし、その貪欲さや野心がどうであれ、結果として公益に寄与するようにさせるべきである」というヒュームの見解が今、世界を席巻しつつあるのかもしれない。と同時に、そんなことではこの世は闇だという抵抗もまたいろいろなところでおきてきているということなのだろうと思う。昔、福田恆存、今、渡辺京二
 

すべては1979年から始まった: 21世紀を方向づけた反逆者たち

すべては1979年から始まった: 21世紀を方向づけた反逆者たち

中国の大盗賊・完全版 (講談社現代新書)

中国の大盗賊・完全版 (講談社現代新書)

ある異常体験者の偏見 (山本七平ライブラリー)

ある異常体験者の偏見 (山本七平ライブラリー)

皇帝たちの中国

皇帝たちの中国

経済思想の巨人たち (新潮文庫)

経済思想の巨人たち (新潮文庫)

市民の国について (下) (岩波文庫)

市民の国について (下) (岩波文庫)

人間・この劇的なるもの (中公文庫)

人間・この劇的なるもの (中公文庫)