小谷野敦「改訂新版 江戸幻想批判 「江戸の性愛」礼賛論を撃つ」

  新曜社 2008年12月
  
 小谷野氏の「江戸幻想批判」は、旧版(新曜社 1999年)も持っている。これをどうして読もうと思ったのかはもう覚えていない。氏の本を最初に読んだのは(多くのひとがそうであるかもしれないが)「もてない男」(ちくま新書 1999年)である。それで関心をもって何冊かを遡及して読んでいったのだと思う。この旧版は五千部以下しかでなかったとあるから、わたくしはその数少ない読者の一人だったことになる。氏はいままで30冊に近い本を出しているとのことだが、本棚をみたら氏の本は20冊くらいあった。結構な数、読んでいる。それは、読んで、このひとは「いいひと」なのだなあと思えるからなのだと思う。無茶なことを書いている、と思うことも多いのだけれども、後味が悪いことはない。「これ以来、私はこの論点に関して一再ならず考えを変えた」というのはK・ポパーの「果てしなき探求−知的自伝」(岩波現代選書 1978年)の一節だが、人間の思考が一貫して進むということはありえないのに、自分の考えが着々と進展してきているというような強弁をするひとは多い。その中で、この点ついて自分はこう考えを変えたと逐一書いている。「いいひと」だと思う。これは、氏が「里見紝伝」(まだぱらぱらと読んだだけ。これからきちっと読むつもり)でいう「馬鹿正直」とも通じるのだと思うけれども、日本の私小説の問題ともかかわるように思われる。さらに羽入辰郎氏が「学問とは何か」(ミネルヴァ書房 2008年6月)で提出している問題ともふかく関わると思える。
 本書でもまた、氏は、売買春否定論者から必要悪論に転向したと書いている。ほとんど180度の転換のように思われるけれども、一貫して敵側には、売買春賛美論者やフリーセックス賛美論者がいるわけである。
 最初のほうで、岸田秀氏の「ものぐさ精神分析」の《人間は本能が壊れているので、人間のオスは本来不能なのであり、文化をつくりあげることによりかろうじて「性」を維持できているのである》という説におおむね賛成である旨がいわれる。小谷野氏と同じく岸田氏の本にはわたくしも大きな影響を受けた(というか、岸田秀伊丹十三コンビの精神分析啓蒙運動に決定的な影響を受けた。「モノンクル」などという雑誌も読んだ)。しかし、今は眉唾だと思うようになっている。ヒトの歴史は100万年だか200万年である。一方、人間の文化はたかだか1万年か2万年である。本能が壊れていたら、ヒトが存続できてきたわけはない。ここにかぎらず、フェミニズムの議論を検討する場合には、進化心理学とか脳科学から見ると論点が整理されてしまう場合が多いと思うのだが、小谷野氏は性同一性障害といった例を、フェミニズムジェンダー論否定のために出したりはするが、進化の観点はそれほどは重視していないようである。
 氏は「江戸幻想」が60年代的な「性の解放=善」という安直な図式に依拠した近代的なものである、という。それで思い出すのが倉橋由美子氏の第一エッセイ集「わたしのなかのかれへ」(講談社 1970年)におさめられた「修身の町」という文である。A新聞社からの性意識についてのアンケートに答えたという話で、「「家庭を破壊しない程度の夫の浮気は黙認する」とか「妻の浮気はだめ」とか「「結婚するまでは、結婚の相手とも性関係を持つべきではない」とか「結婚の第一の目的は、子供をつくり家系を絶やさぬようにすることだ」といった項目に賛成し、「結婚こそ人生に真の幸福をあたえるものだ」とか「赤線(公娼制度)は復活したほうがよい」とか「結婚は男女の自由な結合だ」とか「婚前の性交渉は自由でよい」といった項目には反対である」と書いている。アンケートの結果、倉橋氏のような「家」と現行の結婚制度にこだわり、浮気や婚前交渉の許容度の低い「修身の町」に住むひとはほとんどなく、大部分の著名人はそれとは正反対の「フリーセックスの町」に住んでいたという。なぜなら著名人は「フリーセックスの町」に住むことが看板上必要であったり、特殊な生き方をしているので本当に「フリーセックスの町」しか知らないのだろうという。倉橋氏はそういう著名人を子供みたいと笑う。しかし、倉橋氏もまた、この点については考えを変えたのかもしれない。どういう生き方が大人であるのかについて(おそらく吉田健一氏を通じて)考えを変えて、「修身の町」に住むのは19世紀のブルジョアであり、18世紀の貴族の《結婚しても愛人を持つのだ当然》というのが本当の大人であるという方向にいって、「夢の浮橋」からの一連の桂子さんものを書くようになったのだと思う。後期の倉橋氏は明らかに身分制度の肯定者になっていたように思われ、貴族の道徳と平民の道徳は違うとしていた。貴族の自由恋愛は優雅なものであるが、平民のフリー・セックスはただもう醜いだけなのである。
 本書で主として批判の矢面に立っている佐伯順子氏も(わたくしはその著作を一冊も読んでいないのだが、小谷野氏のしている引用などからみるかぎり)60年代的「フリー・セックスの町」の住人の一人に過ぎないように思われる。それを叩くというのは大人げないことであるように思われないでもない。
 中世以前に、「色好み」という言葉はあったことはみとめながらも、小谷野氏は佐伯氏の「色」という言葉づかいを批判していく。最新の「考える人」(新潮社 2009年冬号)で、丸谷才一氏が「批評について」というインタビュー?に答えて、「要するに、儒教と仏教が到来するまえの日本には色好みという信仰もしくはモラルがあって、その体現者が光源氏だという認識が折口信夫にはあったのだけれど、小林秀雄にはそれが理解できなくて、だからその「本居宣長」もだめ」というような気炎をあげている。そこではおそるべきことが言われていて、本居宣長が死んだとき弟子達が先生の偉大を語っていたら、本居家の女中さんが泣きだしだ。どうしたのだときいたら、先生は毎晩のようにわたしの部屋に来て、一緒に寝ようというのを、わたくしはそんな偉い先生とは知らずに邪険に断っていましたといったという話である。岡野弘彦氏から聞いた話だとか。これを読んで、「小林秀雄の恵み」の《宣長は桜に恋していた》という橋本治説をあらためて考え直してしまった。
 しかし、「色好み」は信仰とかモラルなのだろうか。単なる人間の自然なのではないだろうか。仏教とかキリスト教とかの禁欲的信仰は人間の本能を壊してしまったのかもしれないけれども、ヒトは自然状態においては色好みなのではないだろうか。
 佐伯氏が依拠するのは、「日本=色/ 西洋=愛」という図式らしい。あるいは、「前近代=色/ 近代=愛」。小谷野氏は、「肉体関係をもったあと、女が、わたしのカラダが目当てなんじゃないの」というのは「愛」の世界でのことで、「色」の世界ではないのだという。なぜなら「色」の世界では、カラダを求められることが、自分が求められることと同義だから、と。しかし、それはヒトの自然なのではないだろうか。自分を求めてきたオスを番形成に導くというのがメスの戦略であったはずである(なぜなら子の養育のためにはオスの協力が必要であったから)。妊娠が目的なのであって、妊娠したら困るなどというのはヒトの歴史のほとんどにおいてなかったなずである。ただ妊娠させた相手に責任をとってもならはなければならない。ヒトの赤児はまったく無力であって、母親はその養育に専念せねばないが、そうしていると飢えてしまうからである。オスが何らか責任をとる性行をもったからこそ、ヒトという種は生き延びてこられた。
 橋本治氏が「あなたの苦手な彼女について」(ちくま新書 2008年12月)で、「性交の存在を特別視するか、否か」による線引きということをいっている。それは「遊女」と「娼婦」の境にあるものとされている。橋本氏もいうように、「性交の有無に厳密な目を光らせてしまう」のはピューリタニズムなのであるが、遊女というのは、ひとをもてなすことを職業とする女であり、そのもてなしの中に「性交」も入っているというだけ、と氏はいう。わたくしは、フリーセックス論者も「性交の存在を特別視する」ひと(性交至上論者?)なのではないかと思う。一方、丸谷氏のいいたいことは、そういうのは野暮なことであって、ひととひとのつきあいの中に、男と女のつきあいということもあり、その中には「性交」だってあるさ、ということなのであろう。「愛」がなければ「性交」もないというのは野暮であり、何が何でも性交をというのも野暮ということである。
 倉橋氏に「ヴァージニア」(新潮社 1970年)という名篇がある。氏のアメリカ留学時の体験という形でかかれた中編で、ヴァージニアというアメリカ人にしては珍しく繊細で“real”な女性を描いたものであるが、この女性、何か恩義に感じることがあると、すぐに自分の肉体で返そうとする。性交ということは、まったくどうということとも思われていなくて、それは返礼のための手段にすぎない。そのことは、この小説ではアメリカ(もっと広げて西欧?)の「個」がもつ寂しさあるいは荒廃の例として提示されているように思う。倉橋氏はそこから脱出する方向を生涯追求し続けたひとであるように思うが、それに成功したのかどうかはよくわからない。少なくともこの当時の倉橋氏は、丸谷氏のような論を、進歩的をきどる人間の浅はかな物言いとしていたのだと思う。
 「世界的に、性の意識が変化するのは16世紀から17世紀にかけてであり、それは新世界からもたらされた梅毒の流行による」というのが小谷野氏の説である。ピューリタニズムの厳格な性道徳はそこに由来する、と。これが小谷野氏の創見であるのか、先行するひとがいる説であるのかは不勉強でわからないが、わたくしとしてははじめてきいた。氏によれば、18世紀西洋のロマン主義の成立も、梅毒への身体的不安の点から説明されるのだそうである。「梅毒以前」と「梅毒以後」では性交への見方が変わるのだと。「梅毒以前」には性交あるいは貞操はそれほどの大事ではなかったのだと。身体への不安が「愛」という概念を生んだのだという。これを論じている部分は旧版にはなかったもので(2004年の初出)、わたくしには大変新鮮だった。そうすると抗生物質の出現でまた時代は変わったのだろうか? フリーセックス論は抗生物質が生んだものなのだろうか? それでは、エイズの影響は?
 ところで、小谷野氏は、「折からの大航海時代、西洋人が喜望峰を越えて東洋まで来ることによって、この性病(梅毒)は東アジアまで達した」と書いているのだが、わたくしは、人々の地道で親密な人的接触の「友達の輪」のつながりによってヨーロッパの西端から東洋まであっという間に広がったのだとばかり思い込んでいた。その伝達があまりにも早いので、何とまあ人々は、どこでも、いつでも親密に接触していることよ、と賛嘆していた。これをみれば、カトリックの道徳も仏教の戒律もあったものではないな、と思っていた。
 梅毒を広げたのは、航海なのだろうか? シベリアの奥地などというのはしばらくは処女地であったのだろうか? プロテスタンティズムの倫理を作ったのは梅毒である、というのはどの程度、受容されている説なのだろう? 坪内逍遙や北村透谷が純潔の思想にとびついたのは、遊郭で遊んでいて不安であったからだという。純潔の思想にとびついたからといって、西洋思想にとびついたわけではない、その証拠にキリスト教は日本に広まらなかったではないか、と氏はいう。
 北村透谷をわたくしはまったく読んでいない。知っているのは、谷沢永一氏の「人間通」(新潮選書 1995年)に引用されている「処女の純潔は人界に於ける黄金、瑠璃、真珠なり」とか「恋愛は人世の秘鑰なり、恋愛ありて後人世あり」とかいう言葉だけである。これらの処女崇拝、恋愛至上主義が「近代日本の男女を金縛りにし、悲哀のそこに沈ませた」と谷沢氏はいう。その背景に梅毒があるとは思わなかった。
 「いったん、動物に共通する生殖行為としての性からの逸脱として「性」的行為は捉えられたが、近世以後の身体への不安に伴って、その埋め合わせとして人々は「愛」という理念を用いるようになった」というのが、小谷野氏の論である。
 日本に梅毒が上陸したのはいつのことなのだろう? 小谷野氏の嫌いな Wikipedia によれば、「日本では1512年に記録上に初めて登場している。交通の未発達な時代にもかかわらず、コロンブスによるヨーロッパへの伝播からわずか20年でほぼ地球を一周した事になる」となっている。そうすると北村透谷の時代とはかなりの隔たりがあり、少し時間的な計算が合わないように思う。それにしても「梅毒以前」「梅毒以後」という見方は新鮮である。小谷野氏が学問の人だなと思うのは、こういうザッハリッヒな議論ができるところである。
 「平安期文藝の色好みと徳川期の色道を同一のものと見るのが間違いなのである」と小谷野氏はいう。「六朝時代以来、シナの士太夫は、正妻は良家から迎え、「恋」は外教坊の妓女を相手に楽しんだ。日本ではこの風儀が遅れて輸入されのである」と小谷野氏はいう。
 岡田英弘氏の中国論「妻も敵なり」(クレスト社 1997年 後、「この厄介な国、中国」(ワック社2001年))で、岡田氏は中国には恋愛小説はないといっている。漢文というのは恋愛をあらわすのに適さない言語だというのである。その国の恋愛感情を作るのは文学なのであり、恋愛小説がなければ、その国には恋愛もおきない、と。なにしろ、中国の歴史におてい心中というものが見られないのだそうである。「漢文というのは行政システムの中におけるコミュニケーションの手段として発達したもので、人間の内面や情緒を表現するものではない」と岡田氏はいう。だから当然、ここで小谷野氏のいっている士大夫の「恋」は「色」である。岡田氏によれば「紅楼夢」も恋愛文学ではない。
 本書でいわれる「近松神話」というのは、なぜ近松が神格化されるに至ったかということである。わたくしは近松については何も知らないが、谷沢永一氏の「底本 紙つぶて」(文藝春秋 1978年)で紹介されている森銑三氏の《西鶴が本当に書いたのは「好色一代男」だけ》という説を思い出した。江戸時代に本当にもて囃されていたのは、馬琴の「南総里見八犬伝」であったのに、そのような硬文学ではなく、軟文学が文学の主流というのは、後からの文学史の書き換えである、明治以降の軟派文学の隆盛が遡って江戸期の文学の見方を変えてしまったのだ、と氏はいう。
 これは難しい問題で、西洋史が重視されるのは、われわれが現在西欧文明の決定的な影響をうけていることによる。もしも西欧が世界を制覇したでのなければ、ゲルマン民族の大移動といったことはどうでもいいことであったであろうし、ギリシャやローマの文明も今ほど重視はされていないであろう。われわれが西欧文明に支配されており、その西欧文明では、勧善懲悪で道徳的な硬文学よりも、色恋を描く軟文学が主流とされたために、日本でもその系統がたどられることになったという要因はあると思う。歴史というのは現在の視点からしか構築できない部分がある。新大陸発見以前のアメリカの歴史にわれわれはほとんど興味をもたない。
 
 わたくしが江戸時代に関心をもっているだろうかと考えてみると、圧倒的に明治以降のほうに関心があると思う。わたくしは自分が「文明開化」派の人間だと思っているので、西欧受容以降の時代にしか本当の関心はないと思う。
 自分の江戸時代のイメージを作っているのは、本書でも称揚されている橋本治氏の「江戸にフランス革命を」であり、あとは野口武彦氏の何冊かの本、最近では磯田道史氏の本、そして江戸から明治にかけてについていえば、山田風太郎氏の明治ものの小説である。
 橋本氏の本が魅力的なのも、そこに「フランス革命」という西欧近代の視点がはいっているからである。小谷野氏がいう「江戸幻想」に関心があるかといえば、《「江戸の性愛」礼賛論》が、ピューリタニズムあるいは西欧のブルジョア思想とかかわってくる限りであろうと思う。
 小谷野氏もいっているように、佐伯氏らの「江戸幻想」は「西欧近代批判」という側面(というかそれが本態?)を持っているのであるから、明治の野蛮を代表する津田左右吉に逆らう丸谷才一氏(「梨のつぶて」晶文社 1966年)とも通じるところがあるはずである。
 問題は「西欧近代」を貶めようとするあまり、佐伯氏などが、江戸時代に実際にありもしなかったことをあるように言っているのだろうかということである。小谷野氏の言及からだけ佐伯氏の論を判断してはいけないのだろうが、おそらくそうしているのだと思う。それで思い出すのが吉田健一氏の「ヨウロツパの世紀末」(新潮社 1970年)におけるヨーロッパ18世紀賛美である。ヨーロッパ18世紀における農民の悲惨などということは吉田氏の著作では一顧だにされていない。要するに吉田氏の本は学問の本ではない。佐伯氏の本も学問の本ではないのだと思う。
 それを小谷野氏は学問の側から批判する。佐伯氏の主張は学問の側から批判されたらすぐに崩壊するような柔なものであるように思える。しかし、佐伯氏はめげないだろうと思う。思想運動と思っているからである。フェミニズムは学問としてはもはや成立しなくなっているのだと思う。しかし、それでも現状が女性にとって容認できるものではないということがあるかぎりは、思想運動としてのフェミニズムは残るのであろう。だが、それを学問として主張するのはつらい。だから上野千鶴子氏なのどは介護の問題に軸足を移そうとしているのであろう。
 しかし、もう少ししれっとしているひともいるのだと思う。思想運動をしながら自分は学者であると思えてしまう呑気なひともいるのだと思う。そういうめげないひとを、学問の側から一生懸命にたたくというのは、徒労であるような気がしないでもない。本書でも小谷野氏がいっているようにフェミニズム運動というものを成立させたのは日本の高度成長、経済の爛熟である。そしてフェミニズムの息の根を最終的に止めるのも経済の停滞、不況なのではないかと思う。それを倒すのは小谷野氏の論ではないように思う。
 
 問題は「学問とは何か」ということである。佐伯氏の本は本来修士論文として書かれたものを書き直したものらしい。学問として提出されたものなのである。このあたりになると「中沢事件」などともかかわってくる。羽入辰郎氏の「学問とは何か」(ミネルヴァ書房 2008年)を論じるときに詳しく検討してみたいが、小谷野氏も中沢氏の問題が生じたときは、中沢氏の側に分があるとしていたらしい。しかし現在は、中沢氏のしていることは学問ではないとして、否定する側へと考えを変えたらしい。丸谷才一氏の「忠臣蔵とは何か」(講談社 1984年)を学術論文であると思うひとはいないであろう(これは10ページほどのエッセイの材料にすぎない思いつきを水増しして、一冊にまで引き延ばしたものとしかわたくしには思えない)。学者でこれを真面目に論じるひとはいないであろう。佐伯氏の論も学者でまともに論じるひとはいないらしい。しかし佐伯氏もまた学者なのである。そういう学者もまたいてもいいのだろうかということである。
 デリダとかクリステヴァとかいった人たちは正統的学問の世界(アカデミズム)では学者としてはあつかわれないのだと、小谷野氏はいう(「バカのための読書術」ちくま新書 2001年)。しかし異端的学問の世界というのもまたあるのかもしれない。異端的な学者が大学という正統的学問の場、アカデミズムの場にいるのはおかしいという主張はありうるとしても、そういう主張をみとめないひともいるだろうし、正統と異端をどこで線引きするのかも難しい。
 文科系の学問ではなかなか「事実」にいきあたらないし、「事実」というようなものはなく、それは「社会的に構成されたものである」という「学問的?」な主張もある。「バカのための読書術」で小谷野氏は《「意見」によって「事実」を拗じ曲げてはならない》という。本書で氏がいうのは、佐伯氏などが「意見」によって「事実」を拗じ曲げているということである。しかし、佐伯氏などは「社会構成主義」という陣地に立てこもるであろう。
 I・ハッキング(「何が社会的に構成されるのか」(岩波書店 2006年)は「構成主義は、ヒュ−マニズム、すなわち人間中心主義である」という。文科系の学問は、人間中心主義である。「道徳的な義務」というようなものは、なかなか「事実」とは遭遇しない。「天に輝く星々」は事実の世界であるが、「わが内なる道徳律」はなかなか事実の世界には属さない。そもそも哲学は学問なのか?ということである。それはすべて“たわごと”に過ぎないという立場もある。それでも、学問の世界では、自然科学の歴史よりも哲学の歴史の方がずっと古い。
 
 本日の朝日新聞朝刊の「耕論」の「モンスター どう対処」というテーマで、内田樹氏がモンスター・ペアレントやクレーマーたちは今回の経済危機により絶滅するだろうということを言っている。今回の危機で資源は無限であるという前提がなりたたないことがようやく多くのものに理解されるようになったから、と。今から思うと、浅田彰氏の「逃走論」(筑摩書房 1984年)なども、典型的なバブルの産物であった。しかし、今から思うとであり、バブルの中にいるときは、ほとんどのひとは、バブルが当たり前だと思っていた。だから浅田氏の論が新鮮だったのである。今回の経済危機も一年前に予知していたひとはほとんどいなかった。人間は大分賢くなって、破局は避けられるだろうと、なんとなくみなが信じていた。かりにクレーマーが絶滅するとしても、それは内田氏などの言論の力によってではない。
 フェミニズムの運動もまた一種のクレーマーとしてあったなどというと怒るひとがたくさんいるかもしれないが、それが高度経済成長を自明の前提としていたことは間違いないのではないかと思う。その高度経済成長は「男社会」が作り上げたものであった。「色恋」あるいは「恋愛」についての見方も、梅毒によってだけではなく、経済の動向によっても大きく変わっていくのではないかと思う。
 そして「色恋」とか「恋愛」についての見方は、同じ人間の中でも、年齢とともに変わっていく部分も大きいのではないかと思う。恋は、一人ではできない(片思いであっても相手がいる)。人間同士の関係が生じる。若いときに「他者」と出会うのはそのような場においてであることが多い。自分あるいは自我の形成に汲々とする時期であり、自我といったものは、いたって脆くわずかなことで崩壊してしまう。だから、若いときには「恋愛」への恐怖ということもおきる。
 橋本治氏の「「三島由紀夫」とはなにものだったのか」(新潮社 2002年)はその問題をあつかったものだと思う。《タブーとは、「恋によって自分の絶対が脅かされること」―つまり、「恋そのもの」なのである》、あるいは《「「安全な場所にいる私を脅かしに来るものがあってはならない」という、彼自身の内にある禁忌なのである》というようなことである。これは吉行淳之介氏の世界にもつながっていくと思う。「道具は、やはり使い馴れたものがよい、と彼はおもっている」(「星と月は天の穴」講談社 1966年)という一節は、江藤淳氏が「成熟と喪失」(河出書房 1967年)で印象深く引用していたので覚えているのだが、江藤氏は「矢添(「星と月は天の穴」の主人公である作家)がこうして守ろうとしている自己のなかには、おそらくなにもない」という。初期の「娼婦もの」から一貫して吉行氏はそういう姿勢であるのかもしれない。それらの作品における「やさしさ」は、お互いの人間関係に深入りしないことで相互に傷つかないようにしようという距離の謂いである。《三島由紀夫とその読者達は、「恋の力」によって自分を揺るがそうとする他者の存在」を、タブーとしてしまった》と橋本氏はいうが、たとえば庄司薫氏の「赤頭巾ちゃん気をつけて」(中央公論社 1969年)で薫くんがいう「ぼくは海のような男になろう。あの大きな大きなそしてやさしい海のような男に。そのなかでは、この由美のやつがもうなにも気をつかったり心配したり嵐を怖れたりなんかしないで、無邪気なお魚みたいに楽しく泳いだりはしゃいだり暴れたりできるような、そんな大きくて深くてやさしい海のような男になろう」というのにもそれは通じるので、自分が相手を一方的に支配していて、相手が自分には浸潤してこない関係だけをそれは許すのである。芥川賞の選考で「赤頭巾ちゃん・・」を強く推したのが三島氏であったことは故なしとはしない。
 そしてこういう自我だとか自意識だとかいうのが、果たして明治以前の日本人にあったのだろうかということである。それもまた輸入品であったのではないだろうか? 「自我」と「恋」が一緒になると「愛」になるということはないのだろうか?
 本書では「恋愛輸入品説」が批判されている。恋するでも、想うでも、焦がれるでも、懸想するでも、狂うでも、変になるでも、なんでもいいけれども、そういう言葉はただ事実を示しているだけだと思う。しかし、愛するという言葉は(まだ日本語として熟していないと思うけれども)微妙に価値判断を含んでいると思う。それは北村透谷が「恋愛は人世の秘鑰なり、恋愛ありて後人世あり」などと変なことをいったことの悪影響なのかもしれないが、透谷自身が自分への惑溺という近代病患者になっていたからこそ、そんな発言がでてきたのだと思う。《「恋」はもちろん日本でも古代からあり、普遍的な現象である》としても、明治になって「近代的自我」などといったものが輸入された結果、「恋」が単なる事実としての「恋」ではなく、崇高なる「愛」への昇格するという形で、間接的に「恋愛」が輸入されたという見方はありえるように思う。
 そしてもしも「恋愛」が近代的自我と不可分なものであるとすれば、それはとても疲れるものとなってしまう。なにしろ自我と自我とのぶつかり合いだから、食うか食われるか、支配するかされるかのせめぎ合いになりやすい。そこで「色」が理想的なものに見えてくる。近代以前がすばらしい世界に思えてくる。相手には自我がない世界はすばらしいものに見える。それは近代人がみる「夢」なのである。
 そんな「夢」だとか「好きとか嫌いかのレヴェルで、学問をしてはならない。「事実」というのもひとつの幻想かもしれないのだが、だからといって事実に迫る努力を抛棄していいというものではあるまい」と小谷野氏はいう。学問としての実証のレヴェルでは間違いなく小谷野氏が勝っていると思う。しかし、負けても平然として「好きとか嫌いかのレヴェル」で「学問」を続けるひとはこれからもいるだろうと思う。そしてそういうひとの本を「学問」としてではなく、「夢」として読むひともこれまた存在し続けるだろうと思う。
 とはいっても、多くのひとにとって、自我だとか自己だとかいったものは若い時の一時的な病気のようなものである。仕事をして世の中とかかわり、そこである役割を果たすようになると、自然と意識から消えていってしまう。「恋愛」といった言葉も、だんだんと頭から消えてゆくのではないかと思う。それなのに「恋愛」という言葉にこだわり続けるひとたち(学者や文学者に多い)はどこか変わっている。そしてそういうひとの本について、延々と文を連ねるわたくしもまた、間違いなく変である。早く大人にならなければいけない。だが、間に合うだろうか?
 「恋愛は一時の興奮にすぎない。結婚においては出発点の経緯など問題ではなく、一日一日の過程を賢明に生きる心働きに左右されるのである」と谷沢氏はいうのだが(「人間通」)、わたくしはそういう心境には生涯いたれそうもない。おそらく谷沢氏の盟友である開高健氏もそういう境地には達することはなかったように思う。「仲のよい老齢の夫婦というのをぼくには空想できない」という吉本隆明氏(「吉本隆明 三好春樹「〈老い〉の現在進行形」 春秋社 2000年)に深く共感してしまう。しかし、いくら何でも吉本氏の言葉は極端であると思う。仲のよい老齢の夫婦というのも少しはいるのではないかと思う。
 

江戸幻想批判―「江戸の性愛」礼讃論を撃つ

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バカのための読書術 (ちくま新書)

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