羽入辰郎「学問とは何か −「マックス・ヴェーバーの犯罪」その後−」(1)

  ミネルヴァ書房 2008年6月
  
 この本は買おうかどうか相当に迷った。なにしろ高価な本であるし(6000円)、羽入氏の前著「マックス・ヴェーバーの哀しみ」(PHP新書 2007年11月)がわたくしにはつまらない本であると思えたこともある。それで買わずにいたのだが、小谷野敦氏のブログで本書がとりあげられていて、マックス・ヴェーバー問題以外にもいろいろ興味あることが取りあげられているようであったので、買ってみた。面白かった。買って損はしなかったと思う。しかし・・。確かに、面白いのだが。しかし・・。羽入氏は「マックス・ヴェーバーの犯罪」だけを書けば良かったのはないだろうか。この本が書かれる必要があったのであろうかということがよくわからなかった。
 羽入氏は2002年に「マックス・ヴェーバーの犯罪」(ミネルヴァ書房)を刊行している。それに対して折原浩氏が「ヴェーバー学のすすめ」(未来社 2003年)以下4冊の批判の本を出し、自分の批判に反論できないのは羽入氏が自分の言い分を認めているということである、早く反論してこいというようなことを延々と述べている。それに対して羽入氏が満を持して刊行した反批判が本書、ということになる。4冊の本の刊行はまだしもであるが、この間に折原氏がしていたことはとても奇怪なもので(具体的なことは後ほど書く)、それに羽入氏が怒りを感じるのは当然であると思うが、それでも、しかし・・、である。本書で引用されている鈴木あきら氏の言を借りれば「もう少しご自分の仕事と読者を信頼し、どっしりと構えられていてもいいのではないか」と思った。
 (「マックス・ヴェーバーの犯罪」と「ヴェーバー学のすすめ」についての感想はすでにここに書いた id:jmiyaza:20040103 id:jmiyaza:20040202。今回、久しぶりに読み返してみて愕然とした。羽入氏の名前をすべて「羽生」氏と誤記してあった。文献学どころの話ではない。今回気がついた限りは訂正したつもりだが、まだ残っているかもしれない。本当に申し訳ない。以前、小倉千加子氏の名前を「小倉加世子」氏とばかり思い込んでいて、数年気がつかないでそのままとなっていたことがあった。このブログにはまだ至るところにそういう初歩的以前の間違いが残っているかもしれない。)
 わたくしから見ると、羽入氏の「マックス・ヴェーバーの犯罪」と折原氏の「ヴェーバー学のすすめ」の両方を読んでみればもう勝敗は明らかで、羽入氏の圧倒的な勝ちである。折原氏の勝ちと思うひともなかにはいるのかもしれないが、少なくとも「マックス・ヴェーバーの犯罪」と「ヴェーバー学のすすめ」の両方を読んで、どちらが正しいかはわからず、本書を読んではじめて羽入氏に軍配をあげるなどというひとはいないだろうと思う。また「ヴェーバー学のすすめ」を読んで折原氏に分があると思っていたが、本書を読んで転向し、羽入氏の陣営に入るなどというひともいないと思う。羽入−折原論争?のためであれば、本書は書かれる必要のなかったもので、徒労ではないか、水に落ちた狗を叩いているだけではないかという気がした。「マックス・ヴェーバーの犯罪」という強烈なパンチをくって、立っているのがやっとなのに、朦朧として相手も見えないまま、それでも手数だけは出す。しかし、すべてが空を切っている。そういう相手に、さらに第二・第三のパンチを浴びせ、リングに倒れたあともさらに打ち続けている。誰かタオルを投げ入れればいいのに、と感じる。
 わたくしの理解が違っていなければ、ヴェーバーは《「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」でプロテスタンティズムの国々で資本主義が発展したのは、ルターがその聖書訳で職業のことを Beruf と訳したことによる》とした。しかし、羽入氏は《ルターはその聖書訳で職業を Beruf とは訳していない》と指摘した。
 なお、「マックス・ヴェーバーの犯罪」では、それを世界ではじめて指摘したのは羽入氏であるとされていたが、本書ではそれは沢崎堅造というひとがすでに1937年、ヴェーバーの死後17年の時点で指摘していたことが、その後に判明したと書かれている。上田悟司というひとの指摘だそうである。自分が世界最初の発見者であるという主張を羽入氏は取り消している。羽入氏はヴェーバーがそれを知っていて隠したという主張なのであり、それにはオリジナリティがあると思うが、プライオリティが尊重される学問の世界において、「マックス・ヴェーバーの犯罪」の新鮮さはかなり減じたことはいなめない。今後、「マックス・ヴェーバーの犯罪」が改訂される場合には、根本的な改訂が必要となると思われる。
 少なくとも後世のルター訳とされる聖書ではそう訳されているとしても、ルター自身がそう訳したかどうかは事実の問題である。本当はルターがそう訳していなくても(沢崎氏や羽入氏の論からそれは事実なのであろうと思われる)、ヴェーバーケアレスミスで、そう思ってしまった、ということはありうる。ヴェーバーは間違った認識のもとに、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」という重大な問題にいきあたったのかもしれないわけで、それにくらべれば、ルターの聖書に Beruf という語が使われているかどうかは枝葉末節のどうでもいい問題ではないか、という立場もありうる。
 しかし、羽入氏が問題にしているのは、《ヴェーバーは、ルターが Beruf という言葉を用いていないことを本当は知っていた。プロテスタンティズムの国々で資本主義が発展したのは、ルターがその聖書訳で職業のことを Beruf と訳したことによるとする当初の仮説を検証していく過程で、それに気がついたにもかかわらず、「仮説」の美しさを捨てられず、事実でないことを知りながら、「ルターが Beruf という訳を持ち込んだ」と主張しつづけた》ということである。だからこそ、ヴェーバーは詐欺師で犯罪者ということになる。そのことを文献の検索という方法のみで主張していく、それが「マックス・ヴェーバーの犯罪」の面白さの源になっていた。
 羽入氏を批判する折原氏も、ルターが Beruf という言葉を用いていないということは(不承不承?)事実として認める。その上でヴェーバーの主張の整合性には何ら問題はない、と主張しようとする。だからとても苦しい。「マックス・ヴェーバーの犯罪」という羽入氏の本の土俵ではとても勝ち目がない。折原氏のとるべきなのは、羽入氏のいうように、ヴェーバーは犯罪を犯したと認め、その点でヴェーバーは知的誠実を欠いていたことも認め、だが、それにもかかわらずヴェーバーの学問的業績は揺らがないとする方向だと思う。それが知的誠実ということだと思う。しかし担いだ御輿に少しでも問題があるとは認めることができないらしい。それで詭弁を弄し、変な工作に走ることになる。
 羽入氏にも弱点がある。プロテスタンティズムの国々で資本主義が発展したのは、ヴェーバーがいうのとは違って、別のこれこれの理由によるとするのではなく、ただヴェーバーの論旨の組み立て方は虚偽だ、といっているだけということである。生産的でない。
 だから折原氏らは、ヴェーバーのいいたいことの核心を擁護するという路線に走る。それはいい、事実で争っても勝ち目はないのだから。それなのに「事実」に煙幕をはるためにわけのわからない議論をはじめるので、おかしなことになる。羽入氏の著書が読者の前に残されていることが不安でならないようなのである。それで、折原氏は裏で(表でかもしれない)変な工作をはじめる。
 本書冒頭に「序 本書出版の理由」という部分が90ページほどある。出版の理由が延々と90ページもあるというのは異常といえば異常なのだが、ここの部分はとても面白い。ここで書かれていることは一言でいえば、東京大学ということろがいかにとんでもないところであるかということである。以下、そこで紹介されている、東大名誉教授である折原氏の言動。
 羽入氏の「マックス・ヴェーバーの犯罪」は氏が東京大学人文科学研究科に提出した博士論文をもとにしたものである。折原氏は、羽入氏の博士論文は本来学位授与に値しないレベルの低いものなのに、それに学位を授与した学位審査委員会の責任を問うとして、審査委員と公開討論会に入りたいとし、東京大学大学院人文社会系研究科のホームページにそれを討論するコーナーを開設して欲しいと要求する。学位を授与したものたちは、なぜそれが学位に値するとしたのか、各自の見解をそこでのべよと言い、かつ自分にそれに対する再反論の場を提供せよ、と要求した。また「マックス・ヴェーバーの犯罪」の出版元であるミネルヴァ書房の社長にも、なんであんな本を出版したと抗議文を送ったらしい。さらに羽入氏の論文が日本倫理学会の学会賞「和辻賞」を受けたことについて、学会の主要メンバーに、なぜそのような賞をあたえたのかという手紙を送りつけたりもしたようである。さらに「マックス・ヴェーバーの犯罪」が山本七平賞を受賞したことについても、選考委員である山折哲雄養老孟司中西輝政竹内靖雄加藤寛江口克彦の諸氏が、賞の主催者であるPHP研究所からの推薦文にしたがって、それをきちんとは読まないままに受賞作としたのであろう、という推測(としか思えない)を書いているらしい(「学問の未来」・・わたくしは読んでいない。羽入氏の引用にしたがう。「学問の未来」は羽入氏の引用をみるかぎりとても面白そうだったので、買おうかと思ったのだが、6000円以上もするのでやめた)。
 しかし、こういう変なことをするのは折原氏に限らない、というのが本書のもう一つのテーマになっている。折原氏以前にも、羽入氏におかしなことをしたひとはたくさんいたのである。。
 氏の東大教養学部教養学科の卒業論文ヴェーバーを批判したものであったため、羽入氏は指導教官たちから、それを出さないように脅迫され、そのため留年し、教養学科の大学院に進学できす、やむをえず本郷の文学部の倫理学科大学院に翌年進んだという。アカデミック・ハラスメントである。その妨害をおこなった指導者たちが実名で書かれているのが本書のすごいところである。
 さらに本書に、ヴェーバー研究の先達の一人である安藤英治氏が大塚久雄氏に批判的な本を出版しようとしたら、それをやめさせようとしてかかってきた圧力のことも書かれている。その圧力をかけたひとは、誰あろう丸山真男氏なのである。
 わたくしは「マックス・ヴェーバーの犯罪」を2003年の毎日新聞の書評欄の養老孟司氏の紹介で知った。なんで養老氏がこんな売れそうもない学術書を知っているのだろうというのが疑問だったが、本書を読んで氷解した。本書をPHPでの研究会に紹介したのが谷沢永一氏らしい。その研究会というのは、谷沢氏以外に、渡部昇一氏、土井健勝S氏、松田義幸氏、木村治美氏というメンバーで、そこで羽入氏が発表したことが、山本七平賞につながったらしい。あの谷沢氏であれば、文献的考証による「マックス・ヴェーバーの犯罪」を面白がったことは理解できる。なぜ谷沢氏が「マックス・ヴェーバーの犯罪」を知ったのかはわからない。
 この研究会で、羽入氏は東大における上記のアカ・ハラのことを話したらしい。そこで渡部昇一氏が上智ではこんなことは考えられない(渡部氏は上智大名誉教授だと思う)といい、参加者が口々にそれをしたのは誰だといい、羽入氏が答えると、「全然知らない名前じゃないか!」と渡部氏がいったという。本当に東大というのはひどいところである。本書を読むと、日本のヴェーバー研究を大塚学派が支配したことから生じたさまざまな歪みもわかる。本書の面白いところはそこなのである。ヴェーバーに関する議論は、かなりの部分が「マックス・ヴェーバーの犯罪」と重複し煩わしい。折原氏の批判に応えるために必要ということでもあり、「マックス・ヴェーバーの犯罪」を読んでいないひとにも理解できるようにということかもしれないが、徒に煩瑣であるように思った。マックス・ヴェーバーを批判することは一冊の本を書くに値することであると思うが、折原氏はそれに値するひとではない。それなのに、本書は「マックス・ヴェーバーの犯罪」の倍近い厚さなのである。
 本書は「学問とは何か」と題されている。随分と大げさなタイトルであるが、最後に「学問の意味」と題された章があり、その章があることにより、本書が単なる折原氏への反批判であるだけでなく、もっと一般的な学問について論じた本となるようにと企図したものとなっている。「はしがき」の最後に、「学問とは何か。この問いに誰もが戸惑ったが、誰もがその答えを持ち得なかったこの問いに、本書は答えることになる」とある。ルターが聖書訳で Beruf という語を職業の訳として用いたかどうかという最終的には事実の問題として決着可能である問題とは違って、この問いにただ一つの正しい解答があるはずはない。大言壮語という気がしてならない。
 たとえば、羽入氏は、ヴェーバーが「職業としての学問」で、ただこれこれが好きなどという理由で学問をしてはいけないとしていることに噛みついて、好きではじめなければいけないという。知的誠実のかけらもない人間が何をえらそうに、と。
 しかし、知的誠実のない詐欺師で犯罪人がなぜこれだけ多くのひとを惹きつけてきたのかという方向からの見方もあると思う。ヴェーバーは複雑で(おそらくは)怪奇な人間でもあって、その複雑と矛盾がその説の懐を深くしていて、多くのひとを惹きつけるとともに迷わせることにもなってきたのだろうと思う。それなのに、羽入氏の提示するヴァーバー像はとても平板で薄っぺらなのである。本書を読んでもそう思うし、「マックス・ヴェーバーの哀しみ」では一層その感が強い。羽入氏自身も認めるように、「哀しみ」は学問の本ではない。それなのに、憶測と推論がいつの間にか事実であるとされていってしまう。印象は折原氏の「ヴェーバー学のすすめ」にとても近いのである。ヴェーバーがサブタイトルのような「一生を母親に貪り喰われた男」であるのかどうかはわからない。「哀しみ」を読んでも、その説が説得的であるとは思えなかったし、精神分析学と schizophrenogenic mother説の悪しき混合であるとしか思えなかった。仮にヴェーバーが「一生を母親に貪り喰われた男」であったとしても、世に「一生を母親に貪り喰われた男」などたくさんいるはずで、それがみなヴェーバーのように多産な人間となるわけではない。「一生を母親に貪り喰われた男」説はヴェーバーの秘密を何も明かさないと思う。
 羽入氏が「マックス・ヴェーバーの犯罪」で依拠している学問観によれば、精神分析学は学問ではないはずである。「マックス・ヴェーバーの哀しみ」が学問の本ではないのは、それが「直接の資料的裏付けを欠い」ているためではなく、資料の解釈が精神分析学という疑似科学に依拠しているからである。
 羽入氏は「学問とは何か」と問う。この問いは分裂している。あるときは、ある主張が科学的手続きに従っているかを問う。また、学問に向かう動機が論じられることもある。「マックス・ヴェーバーの犯罪」の面白さは、それが文献にあたるという「事実」についての議論に終始して、古文献やフランクリンの本に何が書かれているかという事実とヴェーバーの記述というもう一つの事実を逐一つきあわせることにより、ほとんど事実をしてかたらしめるという手法で「マックス・ヴェーバーの犯罪」を証明していく手続きと手つきにあった。その羽入氏が、従来の説も検討せず、異なる解釈の可能性も検討せず、推測と臆断だけで「マックス・ヴェーバーの哀しみ」のような本を書いてしまうのがわからない。
 小谷野敦氏は「バカのための読書術」(ちくま新書 2001年)で「いくつかの論争的な出来事に関わった結果、「事実」を根底に据えなければ個々人の主観だけがぶつかりあい、合意は得られず、暴力の介入を引き起こすしかない、と考えるに至った」と書いている。括弧でくくられているように「事実」というのが問題なのだが、「マックス・ヴェーバーの犯罪」は「事実」を根底に据えている。折原氏は「確かにルターは Beruf という語は使っていないかもしれないが、ルターの気持ちはこうだったに違いない」というような主観に逃げる。羽入氏は「マックス・ヴェーバーの犯罪」では、学問を「事実」を根底に据えるものとしている。そこでは学問の方法が問われる。
 一方、「学問とは何か」では、「学問とは、正直なありのままの自分の問題意識に発した研究でなければならない」と動機が問題にされる。しかし、これは羽入氏の主観である。こういうことを言われると「学問に対して真摯に向かい合いたいと思っている学生であればあるほど、自分は学問の世界には不適な人間なのであろう」と思い込まされてしまうということはないであろうか?
 大部分の学者は、クーンのいう normal science に従事しているのだと思う。問題意識などは持っていないと思う。前提とされる規範の中でのささやかな問題を解いていくこと、それはとてもわくわくすることなのだと思う。折原氏はヴェーバーの「経済と社会」の編纂問題の専門家らしい。現在流布している版は本来のヴェーバーの意図を反映したものではない、という主張は「ヴェーバー学」の規範の中ではとても魅惑的なものであろう。しかし、折原氏には、羽入氏の主張が「ヴェーバー学」という安定していると思えていたパラダイムに根源的な疑念を抱だかせ、それを破壊してしまう可能性を持つもののように見えたのであろう。何とかして「ヴェーバー学」というパラダイムを守らなくてはならない、ということになる。羽入氏の「マックス・ヴェーバーの犯罪」批判に過ぎない本に「ヴェーバー学のすすめ」という題名をつけることが、折原氏の中ではいたって自然なこととなるのはそのためであろう。羽入氏のいこうとしている危険な道ではなく、従来の安全な「ヴェーバー学」のままでいきましょう、というすすめなのである。そのため、自分の専門領域を離れ、押っ取り刀で専門外の「倫理」の問題に参入してきた。しかし、折原氏はいつの間にか「権威主義者」になっていて、「学問を使って人を脅し惑わせ、ひれ伏させる」ひととなったいた。それが上記の行動につながった。
 「経済と社会」の編纂問題というのは「事実」の問題に属するのであろう。ヴェーバーの意図というようなことは最終的には証明のしようのないことであっても、草稿にあたるとか、それが書かれた年代を特定するとか「文献学」的に迫れる部分も随分と多いはずである。
 羽入氏は、ヴェーバーが本当は実業に従事したかった人間であり、余暇の利用にこそふさわしい学問という虚業は本来自分のなすべきこととは思っていなかった人間であるとする。自分のためではなく、母の愛情をつなぎ止めるための、母への貢ぎ物として学問をしたというのが氏の主張である。《自分の内発的な問題意識に由来する、自分の魂を救うための、書いている本人にとって意味のある学問であれば、それはどこかで他人にとっても必ず意味のあるものになるはず》というのが羽入氏のかかげる学問の理想像である。それなら、自分の本当の問題に由来しないヴェーバーの学問は、我々にとって果たして意味を持つであろうか、という疑問を提示して、羽入氏はその答えを保留する。
 そして羽入氏からみれば、折原氏は何らの内発的な問題を自分の内にもたないまま学問の世界に参入してきた人間なのであり、だからこそ、学問をただ自分が権威者としてふるまうための道具として用いていることになる悲惨な道を歩んだのだという。
 ヴェーバーを苦しめたのは《職業人しか完全な人間としては認めない》とするプロテスタンティズムの職業観であったと羽入氏はいう。精神疾患のため、講義がまったくできなかくなった大学教授であったヴェーバーにとって、それは自分の存在を根源的に否定する職業観であった。「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」はまさにその自分の問題、自分の苦しみに答えようとするものであったと羽入氏はいう。それなら本当の自分の問題、《自分に内発的な問題意識に由来する、自分の魂を救うための、書いている本人にとって意味のある学問》である。それなのに羽入氏は、ヴェーバーは母への貢ぎ物として学問をしたのだから、本当の学者ではなかったという。なんだか、そのあたりが矛盾しているように思う。
 それでは、羽入氏自身の《自分に内発的な問題意識に由来する、自分の魂を救うための、書いている本人にとって意味のある学問》、それだからこそ《それはどこかで他人にとっても必ず意味のあるものになるはず》であるはずの「内発的な問題意識」とは何かのだろうか? それがわからないのである。
 以下、臆断で羽入氏に失礼なことを書く。何の根拠もない。あるいは根拠は、「マックス・ヴェーバーの犯罪」「マックス・ヴェーバーの哀しみ」「学問とは何か」の3冊の文献である。
 「学問とは何か」で一番興味深い人間はヴェーバーでもなく羽入氏でもなく、羽入氏の奥さんである(旧姓は増子淳子であると紹介されている)。羽入氏は「自分で言うのもなんであるが、私の妻の夫であり続けることは、実は相当にきついことなのである」といっている。本当にそうだと思う。わたくしなら一日も耐えられそうもない。
 「マックス・ヴェーバーの犯罪」は以下に引用する衝撃的な「はじめに」で始まっている。

 「マックス・ヴェーバー、ここで嘘付いてるわよ」
 女房はトイレに本を持ち込む癖がある。たまたまその本が、多分図書館から借りてきた「中島らも」とか「池波正太郎」といった面白い本を読み尽くしてしまった頃合いだったのだろう、ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の岩波文庫版を持ち込んでいたのだ。(中略)
 ドアを開けて出てくると、岩波文庫を放り投げた。
 「今やっていること無駄よ。止めなさい。テキスト読んで分かるような書き方、ヴェーバーしてないもの。それより資料集めよ。ヴェーバーが使ったと言っている資料を集めるのよ。特にヴァイマール版のルター全集ね。この夏は図書館めぐりよ。服が塩吹くくらい回るのよ。こういう人間は必ず何かやってるわよ。必ず出てくるわ。大体が詐欺師の顔してる。嘘付いてるからビクビクしてるのよ。私、あなたがこんな奴に引きずり回されてると思うと腹立つのね。
 こうしてあの夏が始まった。

 「マックス・ヴェーバーの犯罪」では、ここと「終章」の最後の註に旧姓増子淳子氏は登場する。「学問とは何か」では、もっと頻回に登場する。丸山真男氏の圧力に出版を逡巡する安藤英治氏を支え、最後に背中を押して出版に踏み切らせるのも羽入淳子氏である。詳細は書かれていないが、羽入氏は最初に入学した埼玉大学ですでにヴァーバーに批判的な研究をはじめていたらしい。しかし、大学者にたてつく研究をつづけることが恐ろしくなり、大学院に進みなさいという師の薦めをふりきって、社会福祉の世界に進み、精神病院のソーシャルワーカーとして働くようになり、そこで、奥さんと知り合ったらしい。
 その奥さんがいう。「書きたいことがあるんでしょ。東大に入り直しなさい。貴方みたいな人が偉くならないから、貴方が占めるべきだった場所に馬鹿が入るのよ。その責任を貴方はどう考えるの?」 さらに畳みかける。「一生を終える日に、決して後悔しないと言えるの?」
 「筆者は何年逃げ続けたのか。自分のテーマから何年逃げ続けたのか。所詮、逃げおおせることは出来ない。テーマの方で追いついてくるのである。」 これが「学問とは何か」本文の結尾である。こう書いてあると、いかにも長年のテーマについに立ち戻ることになった、というように読める。しかし、そのテーマが何かのかということはわからないのである。
 そこで以下が、わたくしの失礼な憶測である。羽入氏には、「内発的な問題意識」はないのではないか? それにもかかわらず、羽入氏には内発的な問題があるのだと思い込んでいる奥さんの期待に応えるため、それへの貢ぎ物として「マックス・ヴァーバーの犯罪」以下の本は書かれたのではないだろうか?
 なにしろ羽入氏は自分を哀れな鉄人二八号であるという。馬鹿力と破壊力をもつが何をしていいかわからない哀れな鉄人である自分の操縦を委ねるべきひとは増子淳子という女性氏であることが、会って一瞬でわかったというのである。この増子淳子氏が「マックス・ヴェーバーの哀しみ」で論じられるヴェーバーの若い時の恋人であるエミーの像とわたくしには重なってみえる。
 羽入氏は、エミーは異様に鋭い人間であったという。「エミーに対してはヴェーバーはたじたじ」であり、「エミーはヴェーバーを責め、ヴェーバーを振り回すだけの力を有していた女性だった」という。そのエミーがもしもヴェーバーと結婚していたらヴェーバーに言ったであろうと想像して羽入氏が書いている言葉が以下である。
 「あなた本当にやりたいことは学問なの? 私にはそうは見えないわ。ちっとも楽しそうに見えないもの。あなたの学問て、何だかおかしいわ。」「今からでも遅くないから、あなた弁護士になりなさいよ。大学教授は嫌なんでしょ」
 わたくしには、この羽入氏の想像の世界でのエミーの言葉が、羽入氏の奥さんの言葉とそっくり重なるように思えてしまう。
 そこからさらに羽入氏に失礼な憶測へと進む(以下に書くことはまったく根拠のないことである)。羽入氏は母親の支配からなかなか逃れられなくて苦しんでいたというようなことがあり、そこから氏を救い出してくれたのが、増子淳子氏なのではないだろうか。ヴェーバーもエミーと結婚していれば、母親の世界から逃れることができたのに、それをしなかった。
 ヴェーバーが知的誠実に欠けるというのは実はそのことで、羽入氏が知的誠実ということを強調するのは、自分が増子淳子という女性から逃げなかったということが背景にあるのではないだろうか?
 羽入氏はその結婚生活を「確かに刺激に満ちた、飽きない結婚生活ではある」などと少し茶化して書いている。しかし、「もしも、筆者が外で妥協し、弱者を切り捨てる人間になったとしたならば、たとえ、どう功なり遂げようと、たとえ、東大の本郷の教授になろうとも、或いは、東大総長になろうとも、筆者の妻は筆者を決して許さず、即、離婚するであろう。なぜなら、彼女もまた、筆者より何倍も苛烈な人生を歩んできた人間であるから」という言葉はいささか尋常ではない。
 どうも羽入氏にとって一番大変なことは、奥さんに離婚を言い渡されることのようなのである。羽入氏の「一生を母親に貪り喰われた男」というヴァーバー像、母親の意にそうために学問をしたという像は、奥さんにどのように思われるかということが自分の学問の行き方の最優先課題であるとする羽入氏の生き方が、ヴェーバーに投影した結果生まれたものなのではないだろうか? そして羽入氏があれほど折原氏を嫌うのも、《妥協し、弱者を切り捨て、功なり名をあげた東大の本郷の教授》、まさに奥さんが嫌う学者像の典型で折原氏があるように見えるからなのではないだろうか。
 「マックス・ヴァーバーの犯罪」にくらべて、「マックス・ヴェーバーの哀しみ」や「学問とは何か」が面白くないのは、前者が「事実」をして「真実」を語らしめる手法に徹しているのに対して、あとのものはあまりに羽入氏の私的な問題を反映しすぎていることにあるのではないだろうか。マックス・ヴェーバーは学問の世界ですでに公的な人間になっている。だからこそ、その私的な生活も議論される。しかし、羽入氏の私的な生活に関心をもつひとはあまりいないだろうと思う。
 「学問とは、正直なありのままの自分の問題意識に発した研究でなければならない」のであるとしても、それはある程度、昇華されねばならなくて、あまりに生のままででてきてしまうのは問題なのではないかと思う。
 これで論は尽きるのだが、折原氏にはもう一つ問題があって、氏が東大闘争/紛争における造反教官だったということがある。それについては稿を改める。