ソーントン不破直子「戸籍の謎と丸谷才一」 「0章」

   春風社 2013年10月
 
 著者は比較文学の研究者であるらしい。氏の学術論文は読んだことはないが、「ギリシアの神々とコピーライト」という本は読んだことがあって、ここに感想を書いていた。id:jmiyaza:20080102 id:jmiyaza:20080103
 読んだときにはまったく気にもしなかったが、「あとがき」に「丸谷才一のような計算し尽くされた小説の愛読者である私」とあるのに、今、気がついた。その愛読が本書を生んだということなのだろう。
 この本は、著者によれば学術論文ではなくて評論のようなものであるという。256ページに実に面白いことが書いてある。

 (元)学者のはしくれから言わせてもらうと、評論や随筆ほどいいかげんな書きものはない。「評論」は、学者の研究成果を自分の考えに融通無碍に取り入れて、ドキュメンテーションもあってなきがごとしの不備だらけ(人名しか言わず、何年の、どの著書の、何ページかを言わず、おまけに正確に引用せずに自分に都合よくパラフレーズする)のようなものでも堂々と刊行される。・・・(学者は引用符と注だらけの学術論文を読んで満足し、素人はすっきりと流れる評論でないと満足しないのだ。)「随筆」とは、これまた、客観性と論理性をむしろ忌避し、「私はこう感じる、どんなもんだい」というスタイルが受ける。どちらもいいかげんな書きもののトップである。・・「寡作の小説家」と言われる丸谷才一さんも、圧倒されるように精緻な構成と技巧の小説を彗星さながらの長い周期で世に出してくる一方で、夜ごとの星々のようにおびただしい数の随筆を書いて、「わたしはこう思う。どんなもんだい」と嘯いている。実は、(元)学者の私も、学術書を書くよりもずっと楽しいので、こんな本を書いて気分爽快だ。学術論文でこんな独りよがりの、いいかげんなことを書いたら、即「不採用」と決まることは、学術誌の編集委員を務めてきた私自身がよく知っている。

 ここだけでもわくわくする。すぐに想起されるのが最近話題のO女史の問題で、彼女は学術論文ではなく「評論」か「随筆」を書いていたのだと考えればすべては氷解するのではないだろうか? 「わたしはこう思う。どんなもんだい」である。「わたくしはこう思う」という信念にうまくあうような図表や写真などをあちこちから引っ張ってきて学術論文風のものを構成する。何しろ自分の考えたことは正しいにきまっているのだから、いちいちそれを証明するために実験するなどというのは面倒なだけである。このように実験してこういう結果になればそれは証明されるのという道筋ははっきりしてるのだから、それに沿った論文さえ作ってしまえばいい。それが本当に正しいことは後から誰かが追試して証明してくれるであろう、というようなものではないのだろうか? もし追試が成功しなかったら、ソーカルらの「知の欺瞞」ではないが、現在の論文査読システムがいかにいんちきなものか、あるいは博士論文審査過程がいかにいい加減なものであるか、それを天下に示して世に警鐘を鳴らすためにこのようなことをしたのであるとでもいえばいいのではないだろうか?
 というのは冗談ではあるが(O女史はまじめに研究室で試験管をふるひとではあるらしい)、最近の報道をみていると、現在の学問世界が学術論文の世界から評論や随筆の世界に近くなってきているのではないかという気がする。アイデアのみが問われ、厳密性が要求されない世界になってきているのではないだろうか?
 著者は1943年生まれのフルブライト留学世代ということである。アメリカ留学の大学院では「目玉が頁の上の落ちそうになるくらい多くの本を読まされた」と書いている。日本の大学とは比較にならないくらいアメリカの大学では猛烈な勉学が課せられるという話はよくきくが、大学院ともなるとさらに過酷なのであろう。
 それにしても昨今の報道から推測すると、日本の大学、あるいは研究機関における学問というのはとんでもない状況になってきているように思う。一体どうなってしまっているのだろう。もはや回復が不可能なくらい腐朽してしまっているのだろうか? 「目玉が頁の上の落ちそうになるくらい多くの本を読まされた」著者なども信じられない思いかもしれない。「電子立国日本の自叙伝」などという本を読むと、敗戦直後の日本人はもっと真剣に学問をしていたように見えるのだが・・。現在の日本の自然科学研究の世界(人文系も?)は完全なボス支配の世界になっていて、研究の成果とは関係なくボスたちには研究費が自動的に流れるようになっていて、そのボスたちが学位を乱発し、自分の権威維持のための論文ではcopy&pasteが当たり前になり、仲間内で相互の批判はせず、自分たちを批判しないような弟子を跡継ぎにしていく。しかも世界のなかで例外的に学問研究の世界に公的な資金が多額に注入されている日本は世界中からから狙われていて、世界の学問世界のボスたちは日本からの留学生を受け入れて弟子にし、その弟子との共同研究という形で日本の研究資金を懐にするというような構造ができているという説もある。なんだか末世である。
 まあ、それはさておき、本書では丸谷氏の非学問的な評論?随筆?の「徴兵忌避者としての夏目漱石」からの引用がある。「乃木大将の自刃のしらせは、ほとんど暴力的に漱石に襲いかかったと見て《さしつかえない》。《おそらく》この作家は、《大正元年九月一三日以後のある日》、これでようやく趣向が立ったと内心ほくそ笑んだこと《だろう》し、その喜びは同時に、《意識下にひそむ凶暴な自己否定の欲求》がみたされる快感によって、裏打ちされていたに《ちがいない》。」(《 》は学術論文であれば絶対に用いることでできないであろうとわたくしが思う表記) 一切の客観的な証明なしにそこに書かれていることが肯定されている。
 わたくしには丸谷氏の「忠臣蔵とは何か」は、数ページの随筆にでも書けばいい程度の思いつきを強引に水膨れさせて一冊の本にしてしまったものとしか思えない。(1)御霊信仰が日本人の行動を多くの場合規定している。(2)忠臣蔵の話もまた日本人をひきつけている。(3)とすれば忠臣蔵がへのわれわれの関心は御霊信仰による、などというほどいい加減な論法ではないにしても、まあそれに近いような論理学のイロハも踏まえていないような話で、自分の説に都合のいいもののみもってきて、自説に不利になる点については最初から検討もしていないのだから、学問的検討にたえるようなものではない。
 しかし丸谷氏は忠臣蔵御霊信仰説が学界でまともに論じられることもなく無視されたままであることが不満であったようで(もっとも諏訪春雄氏という近世文学の専門家からの徹底した批判はあったらしい。学者から見れば当然の反応であろう)、「輝く日の宮」での女学者が唱える芭蕉の「奥の細道」の紀行がなぜおこなわれたかについての説など、まさに「評論」あるいは「随筆」程度の思いつきであるにもかかわらず、学問世界で発表され注目されることにしている。これなど、小説の場を借りたうっぷん晴らしとしか思えない。
 そして、ここからが問題なのだが、丸谷氏がある意味強引で非学問的なやりかたを用いて評論などでしている主張は、それが丸谷氏にとって「正しいか正しくないか」という学問の問題ではなく、自分にとってどのようであってほしいかという内面の問題なのであるというのが不破氏(以下、氏の名前を不破氏と略記する)の見解なのである。学問の世界は正しいか正しくないかが問題となる客観の世界である。一方、(少なくとも)丸谷氏における評論や随筆(の一部)は丸谷氏に固有の問題についての答えとして書かれた主観の産物なのである。不破氏はそれ「自己照射性」という言葉でいっているように思われるが、丸谷氏の論を、学問としては否定し、文学作品としては肯定するのである。
 そして丸谷氏の作品は不破氏の個人的な問題と共鳴する部分があるがゆえに強く氏をとらえるのであり(つまり「自己照射性」)、本書で書かれているようなことは学問的な主張ではなく、不破氏というある個人的な履歴を持つ人間にとって丸谷氏の作品はこう見えるという報告なのであって、つまり評論あるいは随筆とならざるをえないわけである。
 不破氏の個人的な履歴とは、「0章」の「女Aの戸籍物語」に記された、国際結婚をすることによって経験した日本の戸籍制度の不合理あるいは不条理・・子供は父親の国籍を取得しなければならないから、米国人を父とする子供は日本人の母親から生まれても米国籍にしかなれない・・である。それが丸谷氏が別の動機から戸籍の問題にこだわるのと共鳴した。そういう個的な読みの提示が本書ということになる。
 それぞれの読者はそれぞれの個人的な履歴を持つわけであるから、あるテキストはそれぞれの読者によってそれぞれ個別の読まれ方がなされる、テキストはそれだけでは確定したものではなく、読まれることによってその場、その場で再生されるあるいは創造されるという、テキスト論の実践のようなものともなっている。
 冒頭の「0章」という設定はいうまでもなく丸谷氏の「輝く日の宮」の構成へのオマージュなのであろうし、オマージュというのが大袈裟であるならば、そこから想をえた遊びということなのであろう。そのような遊びにみられるように、不破氏は自己の問題を大袈裟に表にだすことはしていない。直接の言及は「0章」でおわり、あとは本論の中に伏在していくことになる。不破氏は基本的には学問というアポロン的世界で禁欲的に生きてきたひとであろうから、文学というディオニッソス的世界に陶酔することはできないのであろう。
 しかしそれでも文学を愛する(しかも丸谷氏という種も仕掛けもあるような「なま」でない小説を作るひとの作を愛読するような)ひとでもあるので(KAWADE夢ムック「丸谷才一」(2014年2月)に収載された「ホモ・レゲンスの生態」という論で不破氏がいう「ホモ・レゲンス」、日本語では「読書人」あるいは「読書人種」・・単なる文学青年・少女というのではなく、文学共同体の存在を信じるひと・・のひとりであることを自負するひとでもある)、どこかで学問ではない客観性を要求されないものを書いてみたいという欲求があり、それを解放させてみたというのが本書なのであろう。しかも野放図にではなく、丸谷作品の解読という仕掛けを通じて。(「学術書を書くよりもずっと楽しいので、こんな本を書いて気分爽快だ。」)
 わたくしは丸谷氏を「ホモ・レゲンス」というよりも「文学に淫したひと」なのではないかと感じる。不破氏は「ホモ・レゲンス」を「文学共同体の存在を信じるひと」としているが、「書物共同体の存在を信じるひと」なのではないだろうか。文学とくに小説というのは書物のなかでも低級な部類であって、「ホモ・レゲンス」とはハイデガーアーレントのようなひとのことをいうのではないかと思う。
 文学に淫したひとは世の中の役にはいっさい立たない。丸谷氏の一生は、世の役に立たない自分のような人間でも世の片隅で生きていくことを許してほしいというようなところから出発して、文学こそが文明の中心でありそうであるならば自分こそが日本の文化を先導しているというような壮大な自己肯定へといたったというものではなかったかと思う。もっと下世話にいえば、文学世界の傍流にいる人間から文学世界の本流にいる人間になったと思うようになったということなのだけれども。
 不破氏は自分と丸谷氏を潜在的に結ぶものとして戸籍の問題があるとする。そして戸籍が死の問題、あるいは死後という問題とかかわるとするけれども、もっと大きくとらえれば「書物共同体」あるいは「文学共同体」の問題は、著書名と著者名が後に残る、後世に残るということがあるのではないだろうかと思う。つまりそれが不死の問題と結びつくのではないだろうか? なぜ後に残るのかといえば、それが個別の問題についてのある特定の人間の見方を示すものだからである。学問というのは特定の人間が提示するのではあっても、それが客観性を持つということを主張する。つまり個を消す方向にいく。もしも学説が残るならば、残るのは学説のほうであって、学者の名ではない(科学者があれだけノーベル賞にこだわるひとが多いのは、それが例外的に学者の名前を後に残す可能性があることによるのではないだろうか?)。 不破氏は学者として生きてきて、学説ではなく、個のほうを示す本が書きたくなってきたのではないだろうか? 「私も、学術書を書くよりもずっと楽しいので、こんな本を書いて気分爽快だ。」
 もとよりわたくしはどんなことについても学問的に論じる義理はまったくない人間だから、ここに評論にも随筆にもならないような雑文をだらだらと書き連ねている。この不破氏の本についても、これから少しづつ何か書いてみようかと思う。ということでこれが「0章」。

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