小谷野敦「日本文化論のインチキ」(2)第2章「本質」とか「法則性」の胡散臭さについて
ここでは、第1章での日本文化論の多くがインチキであるという指摘が、西洋の学問の一部にもインチキなところはあり、日本文化論のインチキさというのも、その流れの中でみることができるという方向に拡張される。
西洋の歴史から何かの概念を抽出してきて、それを日本の歴史にあてはめるというやりかたがあやまりであるだけでなく、歴史に法則性や深い原因を見いだすというやりかた自体が、非科学的なのである、と。
たとえば、天皇制はなぜ生き残ったか、という議論がある。小谷野氏によれば、それは地政学的なものが関係する偶然に近い出来事なのだが、多くの議論は、続いてきたという事実から、それに原因があるはずであるという方向に進んでしまう。事実があるから原因があるとは限らず、その事実は偶然の産物であるという方向の可能性が考慮にはいらない。
そうなるのは、歴史には法則性があるという考えかたが広くいきわたっているためである。その歴史の法則性を言いだしたのがへーゲルである。アジア的専制からギリシャ的民主国家をへてゲルマン的な理性の統治への歴史は発展するというとんでもないものだが、これはマルクスにひきつがれ、大きな物語の消失を説くリオタールらのポストモダン派、あるいはフクヤマの「歴史の終り」にまで連綿として続いている。
こうした歴史法則主義を徹底批判したのがポパーの「歴史主義の貧困」である。へーゲル学者のコジェーブが思いつきでいった歴史の終わりのあとは日本的スノビズムか動物化が進むといった論を真にうけて東浩紀「動物化するポストモダン」などという本まででた、と小谷野氏は批判する。
これらはすべてまともな学者が相手にするようなものではないのだが、愚かなくせに自分は知的であると思いこんでいる若者たちがいまだに信じこんでいる。人文科学は科学とはいえないとして人文学といわれることが多くなったが、社会科学だってだいぶ怪しいと小谷野氏はいう。
その例として井上章一氏の「日本に古代はあったのか」がとりあげられる。前にとりあげたことがあるが id:jmiyaza:20081130 、これはお国(お郷)自慢みたいな結構トンデモな本である(具体的には京都自慢、京大自慢で、東大憎しというような方向)。井上氏は「アダルト・ピアノ」とかときどき変な本を出すひとなのだが、小谷野氏がここでいうのは、古代とか中世とかは単なる便宜的な時代区分にすぎないのに、あたかもそれが実体としてあるもののように論じていることの奇怪さである。
岡田英弘氏の「歴史とはなにか」に、歴史の区分とは今と昔(あるいは古代と現代)の二分法しかないということが書いてある。自分が生まれてからが今、それ以前は昔。しかし歴史を書くひとと読むひとは違うひとで、書くひとも読むひともたくさんいると、ひとりづつの今と昔が全部違うでは困ったことになる。それで岡田氏は、国民国家化から後を現代とするのが一番多くのひとに受けいれ可能な今と昔の区分であろう、とする。だからアメリカの独立、フランス革命あたりから現代となる。日本では明治維新から。
ところが現在使われている時代区分はマルクス主義史観の残滓であると岡田氏はいう。原始共産制−古代奴隷制−中世封建制−現代資本制−未来の共産制(となり、そこで歴史が止まるとマルクスはした)という図式である。中学の教科書にでてくる原始時代−古代−封建時代−近現代などという時代区分はその遺産なのである。
マルクス主義史観の困ったところは、単に古代とか中世とかだけいえばまだいいのに、奴隷制とか封建制とか資本制とか支配的な生産形態と称するものをそれとペアにしたことである。経済の仕組みがそれぞれの時代を規定するという、例の上部構造−下部構造論である。実際には経済のしくみと政治のしくみがこのようなかたちで対応していることはないのだが、ソ連の崩壊のあとも、この史観の影響は色濃く残っている。歴史がある方向に向って流れ、一定の方向があるというとらえ方は決して失われていない。
本当は無数の偶発事件の積み重ねで偶然が偶然を呼んで、ブラウン運動のようにふらふらとよろめいているのが歴史なのであるが、ブラウン運動のような歴史というのは誰にも理解できない、把握できない、記憶できないものとなってしまう、と岡田氏はいう。叙述という行為により何か物語をつくることによって、はじめてそれはわれわれの理解可能なものとなってくる。歴史に方向があるようにみえるのは、そのようなやりかた以外に歴史を叙述することができないからである。歴史に方向性はない。しかし歴史を書くとそこに方向性が出現してしまう。中世などというものがでてくるのは、古代と現代だけでは歴史の方向性がみえないと考えるマルクス主義の影響の名残である。
木村尚三郎氏の「歴史の発見」で、今を起点にし、今と明らかに違うと思われる一番近い時代に現代とは違う名前をつけ(たとえば近代?)、その時代をさらに遡っていってそれとは明らかに違うと思われる時代にはまた別の名前をつける(たとえば中世?)というようにしていくというのが時代区分のやりかたなのだといったことが書いてあって、なるほどと思った記憶がある。
こういう見方からすれば、小谷野氏が紹介している国史学の分野での時代区分にしたがった学者の棲み分けなど、なんともバカバカしい限りの話である。本当に変である。しかし、学会の中にいるとそういう“変”に段々と麻痺してくるのだろうと思う。(こういう“変”は、世界中どこの学会にでも存在するのだろうか? それともかなり日本に特殊なものなのだろうか? そのあたりからまた日本文化論が書けそうな気がする。)
小谷野氏は、意味づけなどせずに淡々とこういう史実があったとだけを書けばいいのだといっている。しかしあることを史実であると認定すること、あるいは別のことは史実とするに値しないと判定すること、そこにはすでに判断が入っている。ポパーの「バケツ理論とサーチライト理論」、あるいは難しい言い方では「観察の理論負荷性」とかいうやつである。われわれには外界が受動的に見えているのではない。われわれは積極的かつ能動的に外界を見ている。岡田氏がいうように、歴史という《偶然の産物の巨大な集積物》を“見る”ためには、理論とか見方を導入しなくてはならない。
それなら、天皇制の深層とか日本文化の本質というよう言葉づかい、何かの奥に「本質」のようなものの存在をみていくやりかたこそが学問のインチキの根源であるとする小谷野氏の論と、ポパーの唱える「反本質主義」とはどのような関係にあるだろうか? このようなことを考えるのは、意味づけなどせずに「淡々と史実を書く」ことをよしとする小谷野氏の主張は、ポパーが批判するベーコンの枚挙主義に近いようにもみえるからである。
言葉とその意味についての問題を本気になってとりあげようなどと力んではならぬ。本気になってとりあげなければならないのは、事実の問題であり、事実についてのさまざまな主張(もろもろの理論および仮説)、それらが解決する問題およびそれらが提起する問題である。
これがポパーの反本質主義的訓戒である。ポパーはこの点において自分は「現代のほとんどの哲学者と意見を異にしている」という。今なお多くの哲学者はポパーが本質主義とよぶ見解「重要なのは言葉の意味、とりわけ定義である、という信念」を保持し続けているとする。小谷野氏が西洋のインチキ学問と非難するものは、ポパーのいう本質主義のやりかたとかなり重なるところがありそうである。
ここでのポパーの主張の前半、本気になってとりあげなくてはならないのは、事実の問題であるという点については小谷野氏は賛成すると思う。碌に事実も検証せずにわずかな事例からいきなり「法則」を抽出してくるようなやりかたを小谷野氏は非学問的と批判している。後半の、事実についてのさまざまな主張(もろもろの理論および仮説)という部分についてはどうだろう。ここは充分な事実の裏づけがない限りは、氏は支持しないように思う。しかしポパーによれば理論は荒唐無稽で、絶対にそんなものはありえないと思えるようなものこそが生産的なのである(いうまでもなくポパーの念頭にあるのはアインシュタインの理論)。ありえそうもない理論であるにもかかわらず、事実でなかなか倒されないとすれば、それはきわめて適応範囲の広い意義ある理論ということになる。一方、充分な事実の確認の上に成立した理論は、ほとんど事実につけ加えるものをもたない。
小谷野氏が主張する学問は、ポパーと対極にいるクーンのいう「ノーマル・サイエンス」に近いのではないかという気がする。学者世界でおこなわれている仕事の99%は「ノーマル・サイエンス」であると思う。クーンは学者の現状を指摘する。真理への探究なんて考えている学者なんていないよ。今まで学会で構築されてきた学会での通説という大きな建物の上にほんの1枚か2枚の瓦を乗せること、それが学者のしていることであって、今までの通説を根底からひっくり返すことをしようとしている学者なんてほとんどいないよ、という。しかしポパーは、そんなものはあるべき学者の姿ではない、科学者は真理の探究者であるべきであるという。
比較文学という学問世界の中を知悉しているひととしての小谷野氏はノーマルサイエンスの側にたつ。地道で堅実な実証的な手続きをへない法螺話で世間をたぶらかしている輩をゆるせない。しかも、西洋の学問の中にふかく潜入している法螺話の系列もまた許せない。そういうものは学問を汚染しているとしか思えない。この法螺話の構造を批判する枠組みとしてポパーの見解を支持する。しかし堅実な学問の世界(ポパーはそういうものの多くは、現実の問題に根をもたない、現実の問題に答えるものをほとんどもたないものとして、それに大きな意義をみとめない)への愛情があり「古文書を地道に読み解いていく」というような方向が真の学問なのではないかという思いがつねに残る。
「甘え」を例にとれば、ポパーがいうのは、「甘え」という概念を導入することが、われわれの抱えている何らかの問題の解決に役にたつかどうかが大事、ということである。しかし、そういった場合、「甘え」という概念が役に立つかどうかは「甘え」という言葉の定義次第である、という方向に向かう議論を本質主義といって批判していることになる。「甘え」という言葉の定義、その外延といった方向に議論を深めていくことは非生産的であることになる。(「問題状況が要求する以上に正確を期そうなどとけっして試みるべきではない。」)
「甘え」と関係があるわれわれが抱えている問題が何かということが一番大事で、その問題が大したことのない問題であるなら、いくら「甘え」という言葉について細かい議論しても不毛であるということである。逆に、「甘え」という言葉の提出が、ある問題の解決には結局は役にたたないとしても、いまある問題点を明確化し、あらたな問題解決の方向を指し示すことができるのであれば、それはそれで意味があることになる。
インチキな学問というのは、ある概念が現実の必要、現実の要求と無関係に提出され、現実と一切かかわりがないまま、内容の精緻化が図られるような方向に進んでいくものということになる。
ポパーは人文学や社会科学での正確さへの過度なこだわりは、数学と物理学を精密科学の代表とみた時代に由来するという。数学や物理学の世界をみて、精密さが豊かな実りを生むと考えたのである。しかし実り豊かさは、誰も今まで気がつかなかったもろもろの問題を見いだし、それらの解決方法を発見することから生じるのであり、精密さから生じるのではないという。小谷野氏には正確さへのこだわりがあるように思う。
最近の人文学を、小谷野氏は「地道な実証+おかしな意味づけ」が多いという。あるいはフランスの現代思想などの風味を加えた「実証+西洋理論(風味)+評論風の意味づけ」となっているという。そういう空理空論をやめて実証に徹すればいいとする。
ここでヴェーバーがでてくる。羽入辰郎氏と折原浩氏がくわわる「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」をめぐる例の話である。これについては以前、さんざん書いた id:jmiyaza:20040103 id:jmiyaza:20040202 id:jmiyaza:20090201 id:jmiyaza:20090215 。小谷野氏はもしもヴェーバーはプロテスタントと資本主義の関係を論証したいのであれば16世紀からその当時までの文献をできるだけ多く集めてそれを検証すればいいという。「倫理」の導入部分にちょっとそういう部分がある。しかしもっと膨大に文献を集めて両者に関係があるという「事実」を提示できたとしても、それは相関関係を示すだけで因果関係さえ主張できないわけで、かりに因果関係であるとできても、なぜそれが関係するのかという点については何もいえないことになる。少なくともヴェーバーにとっては、関係があるという「事実」を示すことは学問の中心ではなく、なぜそうなっているかという「論理」や「理論」を示すことが学問の本筋なのである。そして宗教という金儲けの反対側にあるようにみえるものが資本主義という金儲けシステムの原動力になるなどということはきわめてありそうにないことであるから、ポパー的な見地からすれば、これはきわめて高い生産性を示す可能性のある仮説ということになる。
羽入氏が示したのはヴァーバーがその理論をつくるにあたり事実を偽り詐欺を働いたということである。それが文献学・書誌学というきわめて地味な学問の手続きによって一歩一歩明らかにされてくるという、まさに「地道な実証」の典型が示されていて、学問というものの恐ろしさを知らせてくれる、とてもスリリングな本になっていた。
しかしそのような大変な努力によって羽入氏が明らかにしたことといえば、ヴェーバーが提示した「プロテスタンティズムの倫理」と「資本主義の精神」との関係についての説明は成立しないということなのである。「プロテスタンティズムの倫理」と「資本主義の精神」が関係しないということではないし、それに代る「理論」や「論理」を提出しているわけでもない。ただ、ヴェーバーのした説明はなりたたないというだけなのである。実証のもつ力により、ヴェーバーの「空理空論」が崩壊する現場が目撃される。羽入氏という刑事コロンボがヴェーバーという知的な詐欺師を追いつめていく、それはとてもわくわくする光景なのであるが、ただ何かを壊すためだけに使われる学問の力というのは精力の善用とはいえないようにも思える。
子安宣邦氏の「「宣長問題」とは何か」について、優れた学者が政治的に偏っているということはいくらでもあることではないか、何が問題なのだろうとする。子安氏は宣長が優れた学者であることが偏狭なナショナリストにもしたと思っているのではないだろうか?(読んでいないけれど)。三島由紀夫がああいう死に方をしたことが三島氏の残した文学と無関係であれば「三島由紀夫問題」は生じてこない。もしも関係があるとすれば「三島由紀夫問題」はでてくるのではないだろうか?
折口信夫を論じてまるで古代人と直接テレパシーで話しているようだという。ハイデガーとかあるいはアーレントなどを読んでいると、古代ギリシャの人たちがつい昨日までいた身近にいるひとたちのようである。専心ひたすら学問をするとそういう境地にいたることもありえるのではないかという気もする。
人文・社会科学はだいたいは帰納的に行われるべきものである、と小谷野氏はいう。ここが問題となる。ポパーは「私は哲学上の一つの大きな問題、つまり帰納の問題を、を解決したと考えている」などとんもないことを主張したひとである。ここでポパーがいっている帰納とは、過去から未来を予測できるか?といったことであるが、小谷野氏のいっている帰納とは、事実を集めることという方向であり帰納自体ではなく、帰納のための材料提供というようなことではないかと思われる。
芥川龍之介が「大学の文学研究などというのは学問といえるかどうか疑わしい」としたという話が紹介されている。「文学の楽み」で吉田健一氏は「文学は学問ではない、ここの所が大事である」といっている。ギリシャやロオマの文学のように用語が死語で、その当時の制度などが現在とまったく違っていれば、その理解のために言語、歴史、地理、風俗など知らなければならないことがたくさんでてくる。それで古典学ができる。読むための予備知識が学問となる。しかし英国で英国の文学を講じるということになると、そこには学問的にとりあげられなければいけない部分はほとんどなく、作者の生年月日、作品の年代、字句の訂正などに限られてくる。作品を読むなどということになれば、そこで行われることは批評という一種の文学行為であり、学問とは関係がないものである、という。わたくしも吉田氏の驥尾に付し、大学のなかでしなくてはならない文学の研究というものがどれほどあるのだろうと思っているのだが(谷沢永一氏のような方向しかないのではないだろうか?)、小谷野氏は比較文学という学問分野でまだ学としてできることがあるとしているようである。
しかし小谷野氏も指摘しているように人文・社会科学には、精緻に調べれば調べるほど、学問としての精度はあがるが、仮説の信頼度はさがってしまうという難問がある。自然科学ではありえないことで、多くの検討に耐えれば仮説の信頼度はあがる。しかし人文・社会科学では逆になるのは当然であって、もともとでたらめで何の統一もないところから幾つかの事例をとりだして筋道をつけるのであるから、例数が少なければ少ないほど仮説はつくりやすく、事例がふえるほど例外もでてきて仮説にひびが入ってくる。そして例数が最大限になれば、最初の混沌に戻るだけである。岡田英弘氏がいっている歴史の見方と同じことである。
さて近代日本文学の論文にしばしばでてくる「近代的自我」というのがわけがわからないと小谷野氏はいう。わたくしが考える近代的自我というのは滅茶苦茶なもので、吉田健一氏が「ヨオロツパの世紀末」でいう「ギリシャ、ロオマの文学には後めたさといふものがない」を根拠に、後ろめたさを感じるのが「近代的自我」、感じなければ「近代的自我」をもたないとするというものである。「反省する自分といふものの正体が解らなくなつたり、自分と呼ぶに堪へない忌しいものになつたりするといふのは」ギリシャやローマにはなかったと吉田氏はする。「何かの形でこの暗さ、或は一種の後めたさは日本の我々もがヨオロツパの文学と考へてゐるものに付き纏つてゐて、その文学の性格を掴むには次にはこの暗さを取り上げなければならない。それは殆どヨオロツパの文学を定義するものである感じさへする。」と氏はいう。吉田氏によれば、それをもたらしたのがキリスト教なのである。永遠の責苦という説教が自分の内部を覗くことをさせ、その結果、自分を見失うことになったのだ、と。(要するに、私は、「貴方を愛してゐます。」と言はうとして、/ 私自身といふものが私にはよく解るてゐないことに/ 気付いたのは悲しいことだつた。(ラフォルグ「最後の詩」))
吉田氏によれば、ユウリピデスのメデイアとシェイクスピアのマクベス夫人は全然違っていて、メディアにはない暗さとと後ろめたさがマクベス夫人にはあるという。わたくしは吉田氏のこの区別は河上徹太郎氏の「自然と純粋」の「赤い林檎をみて、「この林檎は赤い。」といつた場合、自然人は純粋にそれだけを意味してゐるのに対し、純粋人は「その陰は紫だ。」といふ意味を必然的に含んでゐるのである。」にも対応しているのではないかと思っているのだが、根拠はない。
小谷野氏は自我の内面を表現する様式ができたから、「近代的自我」ということがいわれるようになったにすぎないとするのだが、やはり「近代的自我」というのはあると思う。それは自分の内面を覗くことを人間はいつの時代にでもしていたわけではないという仮説とペアになるのだが、逆にいえば、それをしていれば「近代的自我」があることになるのだから、時代区分には関係ないわけで、源氏物語には「近代的自我」があるとか、新古今の世界は「近代的自我」の世界であるとか融通無碍である。明治になって西洋の小説がはいってくると、そこに描かれているのは「近代的自我」ばかりの世界だから、そんなものはなくてもいい平凡な青年たちまで舶来の「近代的自我」を演じはじめて、悲劇だか喜劇だかがはじまったということなのではないだろうか? ついでにいえば、「近代的自我」がない時代での男女の関係は「色」で、「近代的自我」があるようになった時代での男女の関係が「恋愛」となるのではないかとわたくしは思っている。
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