小谷野敦「日本文化論のインチキ」(3)第3章「日本文化論の“名著”解体」

 
 この第3章は山崎正和氏からはじまるのだが、なぜ山崎氏がでてくるるのかが、いまひとつよくわからかった。あとででてくる和辻哲郎文化賞の話への導入なのかもしれないし、あるいは小谷野氏がみとめる数少ないまともな日本文化論の論者の例としてであるのかもしれないが、わたくしは山崎氏を日本文化論者とはまったく思っていなかったので、ここで山崎氏の名前がでてくるのが意外であった。
 小谷野氏は山崎氏の「室町記」を論じて、氏が「日本人は社交する人間だと結論づけ」ているとしている。そうなのだろうか? 山崎氏は文化論者というよりも文明論者であり、社交する人間がいるのが文明社会としており、だから室町時代には文明があったとしていだけなのではないだろうか?
 わたくしは山崎氏のよい読者ではなく、氏の著作もそれほど読んでいるわけではないが、戯曲や評論を書く山崎氏と、丸谷才一氏と対談したり(「二十世紀を読む」「日本史を読む」)、あるいは木村尚三郎氏もふくめて鼎談したり(「鼎談書評」「三人で本を読む」)している山崎氏はちょっと違うひとであるような気がする。わたくしは、機嫌よくおしゃべりしている座談の名手、社交するひととしての山崎氏により親近感がもてる。
 丸谷氏とのおしゃべりをおさめた「日本史を読む」という本の巻頭に「恋と密教の古代」というところがある。万葉集におさめられている、668年の天智天皇が主催した遊猟の際にうたわれたとされる歌、
  あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る(額田王
  紫の匂へる妹を憎くあらば人妻ゆゑに我恋ひめやも(大海人皇子
 の恋歌のやりとりが論じられている。
 わたくしは歴史音痴なので天智天皇天武天皇がいつもこんがらかってしまうなさけない人間なのだが、大海人皇子というのは天智天皇の弟で後の天武天皇なのだそうで、額田王との間に子があるのだが、額田王は今は天智天皇後宮にはいっているという複雑な事情がこの歌のやりとりの背景にはあるらしい。
 丸谷氏は自分が中学のとき、斉藤茂吉の「万葉秀歌」を読んで変だと思ったという。茂吉はこれは遊猟中の野原での実景を歌った真摯な恋歌と思っている。しかし衆人環視のなかで袖をふったりしたら秘密の恋にならないし、どうやったら遠くにいる相手に歌を語りかけることができるのか? 茂吉説に対して、猟のあと夜ふたりで親密にしていて、日中のことを思い浮かべて詠んだのがこの歌という解釈をして納得していた、と。
 そこに大岡信氏の「私の万葉集」での解釈が紹介される。この歌は猟のあとの宴会の席で、二人がふざけて、即興で披露したざれ歌である、というのである(その証拠にこれは相聞の巻にではなく、雑歌の巻におさめられている)。二人の過去はそこにいるひとはみな知っているので、ひとびとは大いに盛り上がる。しかし冗談の背後に、昔の恋をしのぶ優しい気持ち、恋ごころと言っていいようなものも見え隠れしていると。
 宴会のざれ歌説というのはべつに大岡氏の創見ではなくて、池田弥三郎氏と山本健吉氏の「万葉百歌」にすでに指摘があるのだそうだけれども、この解釈の背後にあるのが「社交」である。
 茂吉の文学論は、19世紀リアリズムの写生をもとにしている。だから、深刻好きで、大まじめ、直情径行、誠実大好きなのであるが、それに対して大岡氏は「宴と孤心」ということをいうひとで、宴遊性、社交性と孤独の両立が、文学には大事とするひとである。茂吉はわが近代文学のロマンティックな個人主義に縛られていたので、宮廷詩人である柿本人麻呂のもつ共同体の詩人という部分を理解できなかった。素直なものを尊び、人工的なもの、技巧的なもの、工夫をこらしたもの排除することを文学の本道とした茂吉には、それは理解できないものであった、と。
 これは「津田左右吉に逆らって」(「梨のつぶて」)や「日本文学史早わかり」以来の丸谷氏のおなじみの文学論なのであるが、山崎氏も基本的にはそれに同調する。ヨーロッパ19世紀の文学というのは文学の歴史のなかでも随分と例外的なもので、その例外的なものをさらに曲解することで日本の自然主義文学ができあがったという話である。
 続けて、丸谷氏お得意の御霊信仰の話があり、それに山崎氏は、日本の古代では、歌は呪術的な力をもつとされており、それで国褒めの歌、鎮魂の歌、豊饒の歌(恋の歌もふくめ)が多いが、そこに社交の歌もまたあったとする。それが平安時代になると社交の歌が主になってゆき、さらに近代になると芸術の性格も強くなる、と。
 なぜ、歌から呪術の部分が消えていったのか? 密教のためというのが山崎説である。それに対応する仏像の変化もあると。さらに山崎氏の、アジアには普遍文化はないという説が展開され、中国の儒教による固い文明と恋歌を残した日本の柔らかい文明の対比がいわれる。
 対談のなかでは、いろいろと異説や珍説も披露されている。中国が廃仏をしたから遣唐使を中止したのではないか(山崎)、当時の日本は一夫多妻性だったから歌がさかんになったのではないか(丸谷)、後朝(きぬぎぬ)が詩の対象になるのは日本以外にはあまりないのではないか(山崎)、などなど。どこまでが単なる思いつきで、どこからがある程度裏づけがある話なのかよくわからないが、われわれとしては読んでいて楽しいし、頭脳が刺激される。学問としての話ではなく、高級な世間話であるが、ここに示されているいろいろなゴシップを知るだけでもうれしい。つまりここにあるのもまた社交で、座談するひとは読者をも、腕によりをかけてもてなそうとしている。
 「三人で本を読む」にR・C・クリストファーというひとの「ジャパニーズ・マインド」という本を論じている部分がある。そこで、山崎氏は、よく西洋の個人主義と日本の集団主義ということがいわれるが、世界中、個人主義集団主義の両方を持たない文明はない、とする。ただ構造が若干違う。日本の集団主義は、身辺の小さい集団にもっとも強く働く。一方、国家や民族というもっと巨大な集団に忠誠心を抱く集団主義もあり、西洋人はこちらである。一国家、一民族をあげて一つの宗教を奉ずるなどということをかってした歴史をもつ。しかし、日本人が持つ身近な集団への忠誠心のようなものも、西洋でも18世紀まではあった。村とか同業組合とか教会とかへの帰属が人々に安心感をあたえていた。ところがフランス革命がそういう小集団を潰してしまい、個人は国家に直接属することになった(トクヴィル説)、そのようにいっている。わたくしは西洋の個人主義キリスト教に由来すると思っているので、こういう説明を読むと虚をつかれ、なるほどと思う。このような広い視野をもつ山崎氏は、日本の文化の特質が社交であるなどという単純な断定はなかなかしないのではないかと思う。
 「室町期」におさめられた「日本文化の底を流れるもの」では、人と人の間で表現する日本の芸術家と、芸術の探求すべきものが人間を超えた神の世界に属するとする西洋の芸術家の違いということがいわれる(ここでの神とはイデアであったりロゴスであったりするので、キリスト教的な一神教だけではない)。その点で確かに西洋と非西洋の違いということがいわれている。しかし信長の比叡山の焼き討ちとか徳川政権の徹底的な寺社の世俗化政策がなければ、日本人だってどうなっていたかわからない(キリスト教化していたかもしれない)。われわれが今日のようであるのは偶然であるかもしれない。西洋にしても、キリスト教化したのも偶然であるのかもしれず、今、われわれがこのようであるということは事実であっても、そうならなければならなかった必然性はないわけだから、日本文化の特質という議論をするのは、「宗教の束縛が大幅に薄れた社会はどのような文化になりやすいか」を議論することかもしれないし、現代西洋文化の特質という議論も、「一見、宗教の束縛が弱くなっているようにみえても、それでも生活の根っこにあるさまざまな宗教の影響がどのようなものであるかを考察する」という方向にいくのが、生産的なのかもしれない。
 丸谷才一氏は文芸時評である「雁のたより」で、吉田健一氏が「覚書」のある章の冒頭で「安東次男氏や大岡信氏がこの何年かに書くやうになつたことによつて、詩の根本に属することの一つが歴史的に言つても恐らく世界で最初に言葉で表されることになつた」と書いているのを引用し、安東氏の「芭蕉七部集評釈」や大岡氏の「うたげと孤心」について語っている。文学作品は、「孤心」にだけとじこもると色褪せ、他と「合わす」ことにむかいすぎると輝かない、そういう機微について語っているのだが、これは連歌とか歌仙を巻くとかが日本の文学の伝統にあるという方向の論ではなく、現在の文学者がおちいっている不幸を乗りこえる方向として、日本の過去のそういう文芸のありかたが参考になるのでは、ということをいっている。現在の問題があり、それへの解答として過去が参照される。
 山崎正和氏の、実在したダブルスパイをモデルにした戯曲である「地底の鳥」には、巻末に「あとがきに代へて」と副題された「無常の国の二重スパイ」という10ページほどの文が付されている。そこで氏は「多くの日本の中産階級は、日常生活の風俗といふものに、明確な帰属意識が持てない」ということをいっている。「社会階級的にも、また民族的な文化の点でも、近代の日本人はあまりにも流動的であつて、そこには個人が強固に守るべき、あるいは劇的に裏切るべき、生活のスタイルといふべきものは存在しない」のだ、と。トクヴィルがいうフランス革命による文化の破壊と同じようなことが明治維新でおきたということである。対比されているのは「典型的な英国紳士」である。
 何もまもるべきものはないということは相対主義につながるかもしれない、しかし、と氏はいう。「古典のなかの日本人は、ほとんどこの世の無常しか信ぜず、世界を説明する一元的原理の存在を信じなかつたが、しかし、彼はけつしてその不信のなかで、シニカルな相対主義者であつたわけではない。彼らはつねに無常を痛切に悲しみ、無常しか信じられない自分を悲しみながら、しかもなほ、虚偽の世界観を信じるよりは、その悲しみのなかに生き抜くことを覚悟していたやうに見える。/ いはば、彼らの無常観はけつして安易な思考放棄の状態ではなく、刻々に世界の常なるものを求めながら、その瞬間ごとに失望を繰返す、動的な心の状態であつたやうに思はれてならない。」、と。
 これとポパーを結びつけるのは強引であることは承知しているが、ポパーはわれわれは絶対に「真理」には至れないとする。なぜなら、われわれはかりに目の前にあるのが「真理」であってもそれを「真理」であると知ることはできず、未だ反証されていない仮説と認識するほかはないからである。だから自分は「真理」を発見したと僭称する人の傲慢をポパーは激しく非難する。われわれはひとしく何も知らない無知な存在なのではないか、と。しかし同時に「真理」に至れないという認識が相対主義に陥ることも許容しない。あれも正しいかもしれないし、これも正しいかもしれない、それを決めるものは何もない、すべては等しく価値を持つ、といういきかたを認めない。なぜなら「真理」はあるのだから。われわれはそれを「真理」であると認識はできないかもしれないが、それでも「真理」はある。だから以前よりも「真理」に近づいているかどうかについて議論はできる。ポパーのいいいたいことそれは、意味のある議論が可能である、ということである。それに対して、相対主義は言いっぱなしである。議論ができない。なにしろどこにも基準がないのだから。
 現代の哲学は著しく相対主義に傾いている。クーンの「パラダイム」という概念も、お互いの「パラダイム」は相互に共約不可能で、過去は過去、今は今なのだから、今の視点で過去を論じることはできないし、してはいけないとする。典型的な相対主義である。そしてファイアアーベントにいたっては、anything goes ! である。何でもあり!。ポパーが異端なのは、相対主義が全盛の現代において、相対主義の鋭利な批判者という相貌をもっているからである。ポパーが主張していることは「決してシニックにはなるな!」ということである。
 そして山崎氏の問題意識もまた、現代においてシニックにならないで生きるにはどうしたらいいかということなのだと思う。氏の戯曲を多く読んでいるわけではないが、「世阿弥」(友人に貸したままになっていて手許にないので今は参看できない)、「舟は帆船よ」「おう エロイーズ!」「地底の鳥」など、読んだかぎりではすべてそういう印象である。あらゆることが理解可能であれば、それぞれが正しくみえて選択ができない。そのどれかに自分を賭けることができない。本当に信じるものを持てない。したがって内面は空虚である。そういう人間がどうやって行動しけばいいのか、という問題である。そして「鴎外 闘う家長」もまたその延長上にあるのだと思う。そこで描かれた鴎外像は山崎氏の自画像なのだと思う(「勤勉なる傍観者」「愛情のような雰囲気」「此車は一の空車に過ぎぬのである。」)。「不機嫌の時代」の「あとがき」で氏はこう書いている。「私はあの批評的な伝記のなかで、鴎外の姿をいはばジュリアン・ソレルではあり得ない近代人として描こうと試みてゐた。近代人でありながら内に「近代的自我」といふものを実感できず、したがつて人生を明快な自己主張として生きることもできず、むしろその内部の空洞を真摯に見つめることによつて生きてゐる人間が、私の目に映つた鴎外であつた。」 私の目に映った鴎外であって、現実に存在した鴎外とは関係ない。だから「鴎外 闘う家長」は学問としての論文ではない。文学作品である。鴎外に仮託して自分の問題を語っている。そして氏が問題を解こうとする方向は、江藤淳氏が「成熟と喪失」で(意思して家長として生きようとする)庄野潤三氏を褒め、(シニシズムに居直っている)吉行淳之介氏を批判する方向と同じなのではないだろうか?
 戯曲や評論で描かれるのは、あらゆる言説をみな理解できてしまうため、どれももっともと思えて強固に自説を提示できない相対主義の側の近くにいる山崎氏である。一方、対談や鼎談のときの氏は知識人共同体へ参加していて、自説に強くこだわるわけではないが、他の話者との関係で相対的に自分の言説の位置を確保している機嫌のよい共同体人の顔をした氏である。
 「室町記」で山崎氏が、自国文化論は日本だけにあるのではないとしているところから、小谷野氏は、戦後の「日本文化論」は「敗戦」と無縁ではないとし、そこから各論がはじまる。
 まず谷崎潤一郎の「陰影礼讃」から。これは読んでいないのだが(恥)、系統的な日本文化論といったものではなく、思いつきに近い論なのではないかという印象を、他のひとの言説からの推論でもっている。
 次が中根千枝氏の「タテ社会の人間関係」で、これは印象では会社社会日本の分析という感じであった。
 会田雄次氏の「アーロン収容所」。これで印象に残っているのは、イギリスはとんでもない階級社会なのだぞというような部分で、これが多くのひとに強い印象をあたえたのだとすれば、小谷野氏のいうように西欧の民主主義への幻想が戦後の知識人の多くにそれだけ強かったということなのであろう。
 和辻哲郎鎖国」は読んでいない。
 「代表的日本人」「武士道」「茶の本」。これもほとんど覚えていないけれど、西郷隆盛というのはどうしても気になるひとである(それと二宮尊徳も)。これらは代表的日本人ではないのかもしれないが、代表的な気になる日本人ではないかと思う。天心らが英語で書いたことに感心することはないと小谷野氏はいうが、大岡信氏の「岡倉天心」に紹介されていた天心が書いた「白狐」というオペラの台本の英語などすばらしいものに思える(英語の詩を味わう能力はわたしにはまったくないけれども)。
 小谷野氏が日本文化論の天王山というベネディクトの「菊と刀」は、かなり以前に読んだだけだが、日本に一度もきたことがないひとがよくこれだけのことを書けるものだ、学問というのは大したものだ、というのが残っている印象である。本書で一番有名なのは、西洋文化が罪の文化であるのに対して、日本文化は恥の文化であるというものであろう。これに対して小谷野氏は、しかし阿部謹也氏は日本でも西洋でも「世間」はあるといったし、前近代の地域社会に生きているか、近代的な個人主義に生きているかの差、あるいは知識人であるか一般庶民であるかの差であるかもしれないし、単なる個人差かもしれないという。小谷野氏は、前近代で地域社会では恥の文化、近代で個人主義なら罪の文化としているのだろうか、それがよくわからない。このベネディクトの指摘の一番の問題点は、罪の意識=高級、恥の意識=低級ということが前提とされているのではないかということである。そうであるなら、近代化すると罪の意識へ、あるいは個人主義にむかうと罪の意識へ、という図式が描ける。
 わたくしは、西洋=神のいる文化、日本=神のない文化という図式は間違いなく描けると思っている(「(日本の文明は)神がない文明である。・・回教とアラビアの文明、又キリスト教とヨオロツパの文明のことを思ふならばこの二つがそれぞれの神の観念から切り離せないものであることも認めなければならなくなる。」(吉田健一位置「覚書」))。ここでベネディクトがいっている「罪」とは「神を意識すること」のことであり、「恥」とは「他人を意識すること」である。「罪」という言葉から良心といった方向にいき、「恥」のみを意識する人間は、悪事を働いてもばれさえしなければいいとする良心をもたない人間なのであるといった方にいくのは、すでに相手の土俵にはいってしまっているのであり、あることをするのが美しいか醜いかという観点から行動が決まるといういきかたもまたありうることを忘れている。美しくないことをするのは恥ずかしいというのもまた倫理でありうる。
 西洋がもつ最大の不幸は神がもたらした罪の意識(つまり後ろめたさ)で、西洋での文明化とは何とか罪の意識を取りのぞいていこうという努力のことなのであり、それがようやく18世紀になってある程度の成功をおさめかけたところに、19世紀のブルジョアによる反動がきて、それが大きく後退してしまった。日本が幕末から明治にかけて接触した西洋はその俗悪なる19世紀のヨーロッパ、文明から野蛮へと後退していたヨーロッパなのであり、われわれのもつ最大の不幸はその野蛮なヨーロッパこそが本当のヨーロッパであると思ってしまったことにある、という吉田健一説(「ヨオロツパの世紀末」)の信者であるわたくしとしては、一番気になるのが、罪=高級、恥=低級という見方を、小谷野氏もまたとっているかのようにみえることである。いうまでもなく(といっても、単なるわたくしの偏見であるが)、罪=低級、恥=高級なのである。
 小谷野氏は、「ヘーゲル読解入門」でコジェーヴが「歴史が終ったあとは、日本的スノビズム動物化がすすむ」と思いつきで書いたのを真にうけて東浩紀氏が「動物化するポストモダン」などというのを書いたとして批判している。ほんの思いつきであることは間違いないのだろうが、ここでの「動物化」というのは罪の意識の消滅のことなのだと思う。罪の意識が人間を他の動物から区別していると考えれば、神がいなくなれば人間は動物に戻る。歴史が終るとは(大きな物語を保証していた)宗教に力がなくなることであり、能楽や茶道や華道といったコジェーヴがあげる日本的スノビズムの意味するものはもちろん「社交」である。猿もまた毛づくろいをする。いうまでもなくコジェーヴフクヤマもそういう気概を欠く胸郭のない空っぽの人間を軽蔑する。それはニーチェが「ツァラツストラ」でえがいた「最後の人間」であるというわけである。しかしニーチェを生んだのは西欧におけるキリスト教の重圧なのであろうし、ポストモダン思想を生んだのも西欧近代の悪への反撥であろう。
 ポストモダンという場合のモダンは西欧近代=19世紀西欧なのだから、ポストモダン思想とは「18世紀に帰れ!」である。「ドゥルーズらがやけくそになる気持ちが分からないのか」というのは、西欧世界をいまだに覆っている19世紀西欧の重さや暗さがわからないのかということであろう。ポストモダン思想というものがどんなにインチキであろうとも、西欧近代というどうしようもない時代へのかよわい反抗なのだから、その志だけはみとめてあげてもいいのではないかと思う。嘘か本当か知らないが、フーコーが日本に来たときに、ラブホテルをみて、日本はなんという文明国なのだろうかと賛嘆したという話がある。罪の意識がないということはとてもすばらしいことなのである。
 山崎氏は「不機嫌の時代」の「あとがき」で「「甘え」といふ気分はとかく低劣な心情と見なされ、「実存的不安」は逆に高貴な内面状態のやうに語られて来た」という。「甘え」にはどこにも神とつながるものがないのに対して、「実存的不安」は何か神(あるいは神の不在)に通じるものがあるように思われるからであろう。そういう「甘え」といった和語の世界から日本をみようとしてきたひとの典型が、山本七平氏であると思う。
 本書でも、イザヤ・ベンダサン日本人とユダヤ人」がとりあげられるが、こんな変名で書いた本を学問の世界でとりあげるひとなどいないと小谷野氏はいう。しかしベンダサン=山本七平阿部謹也氏にさきがけて「世間」学を徹底追及したひとであると思うので、もしも阿部氏が論ずるに足るひとであるのであれば、山本七平氏もまた当然、議論されなければならないはずである。
 むしろ、わたくしは日本文化論の最大の論者の一人は山本氏であると思っている(「日本人とは何か」)ので、学者の世界が山本氏を無視しているといるのであれば、それは学者世界の偏狭さと閉鎖性を示すのではないかと思う(もう一人えらぶなら司馬遼太郎氏?(「この国のかたち」))。山本氏は学術誌に論文を書いたことなど一度もない。そういうレフリーのいる雑誌に書かれた論文でなければ、学問の世界では相手にしないということかもしれないが、そんなことをしていると、「学問」の世界は「世間」からまったく相手にされなくなってしまうのではないかと思う。まさか阿部氏は大学のひと、山本氏は在野のひとということからそういう差別がおきているということではないと思うが。
 山本氏はひどく西洋に幻想を抱いていると小谷野氏はいうがそうだろうか? 山本氏はあちらにはいいものがあるといって、日本を批判するようなことは一切していない。むしろ日本にはこんないいところがあるといい続けたひとである。山本氏も司馬氏もその原点は軍隊経験にある。軍隊の世界の理不尽さと非科学性、それが何からおきてきたかということを徹底して追及し続けたひとだと思う(明治38年設計の銃が太平洋戦争まで使われ続け、大砲を牽くのは馬であり、戦車はブリキのようであった)。そのことから、あちらではもっと合理的だとかもっと科学的だということをいったひとではない。日本であるときまでとてもうまく機能していたシステムが、今次大戦では桎梏となってしまったそのメカニズムを生涯かけて追求したひとなのだと思う。
 わたくしは日本文化論について議論するのであれば、山本七平氏と司馬遼太郎氏のふたりがまず第一のとりあがられるべきと思っているので、この二人が十分には論じられていないという点、不満なものが残った。
 

日本文化論のインチキ (幻冬舎新書)

日本文化論のインチキ (幻冬舎新書)

室町記 (講談社文芸文庫)

室町記 (講談社文芸文庫)

日本史を読む (中公文庫)

日本史を読む (中公文庫)

雁のたより (朝日文庫)

雁のたより (朝日文庫)

果てしなき探求〈上〉―知的自伝 (岩波現代文庫)

果てしなき探求〈上〉―知的自伝 (岩波現代文庫)

ヨオロッパの世紀末 (岩波文庫)

ヨオロッパの世紀末 (岩波文庫)

この国のかたち〈1〉 (文春文庫)

この国のかたち〈1〉 (文春文庫)