今日入手した本

青春の終焉 (講談社学術文庫)

青春の終焉 (講談社学術文庫)

 この本はすでに持っていて、10年前、このブログの前身のHPで長々とした感想を書いているid:jmiyaza:20020105。今読み返してみると、何が言いたいのかよくわからないところが多い。書く以上は何かもっともらしいことを言わねばと無理している感じである。いずれにしても、ここに書く文が長くなる最初ではあったようである。
 もう持っている本だから、この文庫本を買い直す必要はないわけであるが、それでも買ったのは丸谷才一の「解説」のためである。批評の芸があるひとならどんな文章を書くのかなという興味であるが、本屋で立ち読みをして面白くて、やっぱり買って持っておこうと思ったということである。
 「もともとこの本は小林秀雄論」なのだそうである。気がつかなかった。「未熟であることを無学であることと早とちりしたのは、小林秀雄の最大の失敗であつた。」 これだけだといま一つよくわからないが「フランスの象徴派に向ひ合ふときには、彼らの感覚と感受性の新鮮さに眩惑されて、学識のほうは見えにくかつたのかもしれない。しかしマルクスの前後左右にはドイツ十九世紀の繁栄のもたらした知識人の群れがうようよしてゐたし、一方、かはいそうに小林は本物の学者をついぞ見たことがなかつた」のだということである。可哀想な小林秀雄! だから彼には折口信夫のいうことがまったくわからなかったのだという。「未熟であることの暴力性を若さのエネルギーと誤解し、それでもなほ足りない分を天才といふ奇蹟で補ふのが小林のイデオロギー」なのだそうである。ますます可哀想な小林秀雄
 と書いているが、この丸谷氏の解説文、いささかとちれているところがあって、ところどころ主語が誰であるかが見えにくくなる。だから読み違えているかもしれないことを恐れるが そうでなければ、とんでもないことがいわれていて、「近代の超克」というのはとある酒の席で吉田健一がいったことが河上哲太郎を刺激して、それがあの有名な「近代の超克」の座談会に繋がったといういうのである。「これはわたしの推測だが」とことわっているが、「忠臣蔵とは何か」での御霊信仰説のような相当強引で無理筋な推測であると思う。
 ということで、「青春の終焉」は小林秀雄論なのであることを主張している解説文がいつのまにか吉田健一論になっていって、この「青春の終焉」は「ヨオロツパの世紀末」の後を継ぐ本なのであるということがいわれる。本当かしら?
 いずれにしても、このようなことが主張されている文章が収載されている本であるなら、わたくしとしては買わざるべからずということになる。
 この前の渡辺京二氏の本を読んでいたときにも感じたのだが、日本の文学を駄目にした第一の犯人は小林秀雄だったのではないだろうか? 小林秀雄は文学が好きだったのだろうか? 文学が好きでない文芸評論家というのはおかしな存在ではないだろうか? そしてわたくしが最初にいかれた福田恆存もやはり文学がそれほど好きではないひとだったのだと思う。それに較べると吉田健一は文学が好きで好きで仕方がない文学に淫したひとであった。だからわたくしも若い時に小林秀雄から受けた毒を吉田健一で解毒してきたということなのだろうと思う。
 
(2012・5・8 追記)
 文庫版『青春の終焉』をぱらぱらと読んでいたら、変なことを発見した。文庫解説で、丸谷才一氏は「わたしは、在来の文学史型文芸評論のなかで、通史ふうのものとしては山本健吉の『古典と現代文学』、時代史ふうのものとしては吉田健一の『ヨオロツパの世紀末』と山崎正和の『不機嫌の時代』に敬意を払ひつづけてきた。その『不機嫌の時代』と並ぶ、近代日本文学史論の名篇が『背青春の終焉』である。/ 三浦は山本の本には触れないが、吉田と山崎の本には言及し、引用さへおこなつてゐる」としているのだが、『三浦は山本の本にも言及し、引用さへおこなつてゐる』のである。文庫版のp147〜148、単行本のp133〜134である。
 この『青春の終焉』には丸谷氏の名前も何回もでてくるので、気恥ずかしくて、ちゃんと読みかえさなかっただけかもしれないし、これくらいのことをわざわざうれしそうにここで指摘しているわたくしも、人品が卑しいとは思うけれど、しかしこの部分は三浦氏が山本氏の論である座の文学としての俳諧ということを考察している部分であり、歌仙を巻いたりしている丸谷氏としては他人事ではないはずの部分なのである。「雁のたより」でも丸谷氏は吉田健一の「覚書」からの大岡信氏の「うたげと孤心」についての論を詳細に検討しているのだから、この部分は丸谷氏の文学観の根底にふれる部分のはずなのである。
 いくら単行本からの文庫化とはいえ、出版社では担当の人がいて、本文を読み「解説」との齟齬がないかを検討したりはしないのだろうか? あるいはそういう人がいて本当は気がついていたのだが、文壇の中で丸谷氏があまりに偉い存在になりすぎていて、意見もいえないような存在になっているというようなことがあるのだろうか?
 昨年の暮れの毎日新聞の読書欄での恒例の「わたしの今年の一冊」というような欄で、記憶が正しければ3人のひとが丸谷氏の「持ち重りする薔薇の花」をあげていたのをみてなんだかなあと思った。丸谷氏は毎日新聞の文芸欄の《天皇》であるらしい。しかし、そこまで気をつかうことがあるのだろうか? どう考えてもそれほどの小説ではないと思うのだが、傑作と本気で思ったひともまたたくさんいたのだろうか?