東浩紀「批評の精神分析 東浩紀コレクションD」 その1 ポストモダン以後の知・権力・文化 稲葉振一郎+東浩紀

  講談社 2007年12月
  
 「批評の精神分析」は東浩紀氏の対談集である。十一の対談が収められているが、「美少女ゲーム」をめぐる薀蓄を披露している座談会などもあり、そういうものはこちらとしては取りつくべき島がない。しかし、きわめて興味深い対談もあり、それらのいくつかをこれからとりあげていきたい。
 最初は稲葉振一郎氏との対談である。稲葉氏の著作はこのブログでもいくつかとりあげたことがあり、この対談で主として議論されている「モダンのクールダウン」(NTT出版 2006年)も論じた。しかし、なんだかわたくしには焦点の定まらない本のように思え、氏のいいたいことがよくわからなかった。この対談を読んではじめて、そういうことであったのかと理解できたところが多々あった。それであらためて「モダンのクールダウン」を読み返して見たのだが、やはり、この対談で稲葉氏が言っているようには読めなかった。どうもわたくしの読解能力には根本的な欠陥があるらしい。
 それで、ここでは、この対談のみにしぼって議論していくことにする。2006年におこなわれた対談である。
 
 論点1.データベース対テーマパーク
 これはたとえば、今若者の一部がオタク化しているとして、それは誰かの演出でオタクというものが作り出されているのだろうか、という議論である。オタクは自分で進んでオタクの道を選んでいると思っているかもしれないが、実はオタクが存在したほうが都合がいい人間がいて、それがオタクたちをいい気にさせるように裏で糸を引いていて、オタクたちはその人間たちにいいように踊らされているだけだ、というような論である。
 昨今のフリーター問題での、フリーターがいたほうが都合がいいと考える人間がさまざまに社会に働きかけて、《フリーターは自由な生きかた》などと持ち上げて、結局は、低賃金労働力を確保するのに利用しているのである、という議論もこれに相当するのであろう。
 そのような踊らそう意図している人たちが存在することは、稲葉氏も東氏もともにみとめる。稲葉氏がテーマパークというのは、若者は自由に遊んでいるようにみえても、その遊んでいるところはテーマパークであって、管理者がちゃんといるというということである。一方、東氏は人間は管理しようとしてもそうそう管理しきれるものではない、という方向である。テーマパークを作っても、それが管理者の意図とは別の遊び方がされてしまう可能性があるということである。パークの一つひとつの遊びを勝手に組み合わせて、意図せざる空間をそこに生じさせてしまう、ということであり、テーマパークから自分に必要なデータだけを抽出して自由勝手な組み合わせとしてしまう、という意味でのデータベースである。
 多くの論者が「影の支配者の存在に目覚めろ!」、「みんな世界の構造を自覚しろ!」と叫ぶのだが、東氏は、それは有効に機能しないのではないか? という。それよりも勝手に自分の世界をつくりあげてしまう人たちのほうがまともなのではないか?、と。
 そこからさらに次の重要な問題が浮かび上がってくる。
  
 論点2.近代啓蒙の目指したものは何か?
 近代化の目指したものは、愚かで弱い人間でも幸せに生きていけるような世の中を作ることではなかったのか? そうであるなら、キャラ萌えして幸せである人間がたくさんでてきたことは、近代啓蒙の勝利なのではないか? それをオタクの出現を見て、イヤだ、イヤだ、こんなバカを作り出すために俺たちは頑張ってきたのではなかった、大衆化社会は愚民の世界だ!、などといいだすインテリのほうがおかしいのではないか?、という論点である。
 以上は増田悦佐さんという人の論らしいけれども、二人ともそれに共鳴しているようである。《みんなが賢くタフになる》などという(カントの「啓蒙とは何か」のような)近代啓蒙主義者の目標は成立するはずがない。なぜなら《われわれ人間はみんなチョボチョボの存在でしかない》のだから。ダラッとして愚かでいい加減な人間が大量に生きていられること、それ自体はいいことだと肯定しなくてはいけないのだ、と。
 司馬遼太郎氏が「人間の集団について」でいっていた「日本は昭和三十年代になってようやく食える時代になった。そうなると若者の目から力が消えるのは当然で、これこそが人類が崇高な目的としている泰平というものである」という議論を思い出す。それに対して赤木智弘氏は、、「冗談じゃない、今の世の中の若者は、ダラッとして愚かでいい加減な人間でいてもいいなどとおだてられていると、飢え死の危機に直面するようになるのだ!」という。
 そういう世の中だから生き残りのため《賢くタフになれ》というのが村上龍氏のいっていることかもしれない。そういう世の中は逆にチャンスに充ちた世界でもあるのだ、というのが梅田望夫氏のいっていることかもしれない。
 
 ここで、東氏が、
 論点3.集団と個人の解離と乖離
 ということをいいだす。
 ローティに依拠したもので、私的な価値観と公的な価値観を分離しなくてはいけない、という論である。近代という時代は「公的な価値観と私的な価値観が大きな物語で結びつくとして時代であった」が、、ポストモダンの時代では、それは結びつきえない。自分の人生をどう律するかという問題と、社会全体がどういう方向にむかべきかは、まったく切り離すしかないのだ、と。
 プラトンキリスト教(すなわち西欧の二大源流)はともに公共的なものと私的なものを結びつけようとしてきたとローティはいうのであるが(「偶然性・アイロニー・連帯」岩波書店 2000年)、その結びつきはあきらめて、公的なものと私的なものはまったく別々の価値観のうえで目標を設定すべきであるという。ニーチェマルクスのどちらが正しいかというような議論は無意味であり、前者は私的な問題、後者は公的な問題を論じているのだ、という。
 ここで、一匹一匹のアリは愚かでも集団としては賢い、という「創発」の議論が東氏からでてくる。そうであればいいのだと。でもこれは私的と公的の分離ではないと思う。私的なことに専念すれば、公的なことは実現するということなのであるから。そこから市場原理肯定まではあと一歩である。個人が利己的なことをしていても、全体ではそれでうまく機能するということである。わたくしとしては、ここで、経済学でいう「合成の誤謬」というのを思い出す。個々人がよかれと思ってしている行動が全体としてみると逆にはたらいてしまう、というようなことである。だからお金をためずに使いなさいという方向に経済学では話がすすむ。
 それに対して稲葉氏は、局面によっては、市場にまかせるべきでなく法と秩序を人為的に守る政治的主体が出動することが必要になることもある、という。つねに社会がコントロールされているというのは実現不可能な理想論であり、権力はそれはどうしても必要とされるときだけ発動されればいいという。
 そうであるなら、今の若者にとっては、当然、現在は政治的主体が出動すべき時期ということになるのであろう。疲弊している地方も政府がもっと金をよこせといっている。
 
 そこで4つ目の問題がでてくる。
 論点4. システムについての3つの議論
1.システム全体をどう設計するか
2.一人ひとりの個別の人間に何をいうか
3.人々が利己的に生きてもシステムはうまくまわるという乖離的現実をどう受け入れるか
 を区別するべきという東氏の論である。
 3.がうまくわまらないときには、システムをいじるしかない。しかし、それは個々人にこうせよとアドヴァイスすることではない、と。この議論で、2.の一人ひとりの個別の人間に何かいうのは誰なのだろうか? 3.でシステムをいじるのは誰が決めて誰がすることなのだろう?
 稲葉氏は、世の中の圧倒的多数はバカというか普通の人たちである、という。《人間チョボチョボ》論である。その中にたまに賢い人、あるいは変なことにこわだるちょっといびつな人がでてくる、と。なんとなく、このあたりは、エリート主義の匂いがする。
 稲葉氏は文学を例にとる。近代文学は内省的な自我がウジウジと悩む姿を描く。しかしその中からときどき元気がよく公にむかって語るような奴がでてくる。じゃあ、文学はみなそういう元気のいい公論であるべきかといえばそういうことはない。大部分の文学愛好者はウジウジ派である。しかし、文学が公にむけて人を鼓舞する力を、潜在的にはもっているというのも事実である、と。この辺り、ソーントン不破氏の「ギリシャの神々・・」の、言葉は大きく人を動かす力を持つという指摘を思い出す。文学ではないのかもしれないが「聖書」も「共産党宣言」も世界を変えてきた。
 
 それを受けて、東氏が、
 論点5.人文的な知と理科系的な知
 という問題を提示する。
 自分もウジウジ派の文学愛好者であるけれども、文学はその点での役割を終えたとも思っている、と東氏はいう。
 「知的」とは何か? 今だったら、いいプログラムが書けることが「知的」である。理科系の研究者の世界では、昔から文学を読むような奴は例外だった。
 それにもかかわらず、文学が知の中心であるように思われてきた。虚構の体験を通して知の精度があがっていくという何の根拠もない幻想がある時期支配的だったし、特に日本では昔から妙に文学の地位が高かった、と。
 しかし情報技術の地位の上昇により、非小説的なメンタリティのひとたちが実際に社会制度を設計したり、文化創造を支援するようになった。文学の地位の低下は当然なのである、という。
 人文的・文学的な反省や自己意識なしでも人の行動は説明できるという人間観は充分にありうる。他人の考えていることを絶えず繰り込んでいくという「心の理論」のようなものなしでも人間は理解可能であるという見解がでてきた、自分はそういうのは嫌いだが、しかしそれは自分の個人的な感傷にすぎない、と東氏はいう。
 稲葉氏も、教養といえば人文知で、その核心にあるのが文学である、というのは時代の制約をうけたいびつな理解だったのだ、という。
 わたくしはよくは知らないのだけれども、アメリカでつねに尊重されてきたのはマッチョな人間であって、文学を愛するというなよなよとした人間はマイノリティーであり、つねに白眼視されきたのではないだろうか? R・ホーフスタッターは「アメリカの反知性主義」(みすず書房 2003年)で「知識人は見栄っぱりでうぬぼれが強く、軟弱で尊大で、不道徳で危険で、社会の破壊分子であるとみられている」といっている。ホーフスタッターは反知性主義福音主義とも関係しているとしている。 人文的な知の尊重というようなものは、西欧の伝統ではあっても、アメリカでの伝統ではないように思う。人文知の地位の低下はグローバリゼーションの反映でもあるのかもしれない。
 
 そこで稲葉氏は、
 論点6.理科系の教養とは何か?
 を問う。
 それに東氏は《近代は、内省的な気質のひとたちに知的な権力を集中させた時代だった》という。現在おきているのは、そういう過度に内省的なひとたちに知的な権力を集中させていくというシステムの崩壊である。最近いわれている《教養の崩壊》というはそのことをいうのだ、と。これもまた西欧での話であり、グローバリゼーションの話でもあるようにわたくしには思える。
 さらに東氏がいうのは、理科系的なものと工学的なものは違うものであるということである。旧来の「リベラル・アーツ」は文理総合的なもので、実際に東大の教養学部というのはそういう理念でできている。しかし工学は「リベラル・アーツ」と対立する。21世紀にはいって工学的な知が急速に台頭してきた。ITがその代表である。
 またまたこれも「リベラル・アーツ」というのは西欧的伝統の下にあるものであり、工学とはアメリカ的なものではないかというようにわたくしには思える。「アメリカの反知性主義」でいわれるように、アメリカでは知性は実用の反対に位置するものとされてきた。
 稲葉氏は、工学的な知も人間精神や世界の神秘を否定するわけではないが、彼等はいろいろまず試行錯誤でやってみて、そこでもあとに残るものが世界の神秘だと考えているという。
 東氏は、気質の問題ということをいう。1)心が神秘であると考える気質、2)世界が神秘であると考える気質、3)神秘は結果として出てくるとする気質、の3種類である。
  
 そこから、
 論点7.レヴィ=ストロースの「ブリコラージュ」は工学的な知
 という東氏の論がでてくる。
 近代は、ブリコラージュ的な知を貶めて、自分の行為の意味を自覚的に考え設計するタイプの知にリソースを集中させることにより、爆発的に前進した時代である、と東氏はする。
 しかし、ひとはなぜ生きているかとか、世界はなんで存在するか、そんなことを考えているひとばかりが世の中に多いわけではない。多くのひとは目の前にいる牛をどうやって殺すかといったことを考えているのである。
 このブリコラージュ的知という話をきくと、ポパーが「歴史主義の貧困」でいっていた「ピースミール工学」あるいはアド・ホックな対応というのを思い出す。その根底にあるのは人間には充分に将来を見通す能力などはないということである。ようするにまたしても《人間チョボチョボ》説である。そして進化というのもアド・ホックな対応の典型である。
 東氏は、サルトルレヴィ=ストロースの対立は、内省的=人文的な知と工学的な知の対立だったのではないかという。
 サルトルは世界の見通しはきくとしたのであり、それはマルクス主義からもたらされるとしたわけなのだと思う。人間は《チョボチョボ》ではないとしたわけである。
 「動物化」とはパンセ・ソバージュ「野生の思考」なのだと、東氏はいうのであるが、「動物化」ということがいわれるのも「人間の尊大」の否定、《人間チョボチョボ》論なのだと思う。
 工学者が世界を変えようとしているし、工学の世界では、いろいろと面白いことがおきようとしている。しかし、工学者に、あなたはなぜそういうことをしているのかと聞いても、工学の意味は見つからない。レヴィ=ストロースが「野生の思考」から「構造」をとりだしたように、工学の思考の構造をとりださなければいけない、そう東氏はいう。
 「野生の思考」から「構造」がとりだせるとすれば、それを保障するものは進化なのだと思う。ひとがなぜそうなっているのかということは、神がそのように作ったとするのでければ、進化から説明するしかない。
 自分の考え(自意識)と実際に自分がしていることがまったく違っているということを気づかせ、そこに驚きをもたらすのが社会学であるのに、今の社会学ではそれがおこなわれてない、そう東氏はいう。
 自分がそう考えてしていると思っている理由と、自分が実際にしている理由が異なるとすれば、進化の過程の中で、意識がずっと後に生まれたものであるからではないかと思う。
 稲葉氏は、今の学問は人間を愛しすぎている、「人間というものはなにほどのものでもない」という醒めたセンスをもっていない(例外は一部の経済学者だけかもしれない)、という。経済学者などだけが、人間が市場をつくるのではなく、市場が人間をつくる。価値観が市場を律するのではなく、市場が価値観をつくる、そういう視点をもっている。人間は、あるマトリックスから発生してくる現象のようなものだというセンスをそういうひとたちだけはもっている。
 《人間はあるマトリックスから発生してくる現象のようなものだ》というのは、マルクス主義の用語でいえば、《下部構造が上部構造を規定する》であろう。あるいは《存在が意識を構築する》。最近の学問でいえば「社会構築主義」である。人間中心主義というのは、人間は下部構造から自由でありうる、ということである。
 東氏は、フランス現代思想のもっていた可能性をアメリカ系の人文知があまりにも人間中心主義的に解することで破壊してしまった、という。構造主義ポスト構造主義を新しい実存主義として理解してしまったのだ、と。本来のポストモダニズムは、個人の生については何も教えてくれないはずなのに、と。ポストモダニズムとは工学的な知なのであり、それは神学的なトータリティを避ける知であり、それを避ける賢さのようなのでもある、と。それが、サルトルが「実存主義ヒューマニズムである」などといいだした辺りから、どこかで道を間違ったのかもしれない。
 
 論点8.文学の地位
 稲葉氏は、山形浩生氏が「いまの文学者で危機意識をもっているのは(やっていることは結果的にダメだとしても)村上龍だけ」だといっているのを紹介している。
 さらに20世紀後半の日本の重要な文学者として橋本治がいるということをいい、橋本氏は「文学者」ではなく「文人」たらんとしている、書き言葉の技術・技能を追求するひと、書き言葉による「芸」こそが文芸であるとし、小説を文学の中心とみない例外のひとであるといっている。ただその橋本氏も、文芸の中心に近代的個人の理想像を持っている点で限界があるとする。
 わたくしは、橋本氏が《近代的個人の理想像》をもっているかどうかは非常に微妙であると思っている。むしろ日本の知識人の中では絶滅危機種に近い西欧近代知性とは異なる近世=江戸時代的知識人であると思っていて、その点が氏の論のもつ痛烈な破壊力の源泉になっていると思っている。橋本氏は江戸近世のほうが、明治以降近代よりもよっぽど増しであるとしているのであるが、ただ一点、近世の思想が「フランス革命」を用意するものでなかった点においてだけ、不十分であったとするのである。そしてそこだけをみると、氏もまた《近代的個人の理想像》を持つひとにみえてしまうのである。その点についてはあらためて橋本氏の非常に刺激的な近著「小林秀雄の恵み」をとりあげるときに、詳細に論じることとしたい。
 さて東氏は、日本での文学偏重の例として芥川賞がテレビニュースになるということをあげる。それに対して日本ではあまりに有能なサイエンス・ライターが少ないことを嘆く。これは才能ある物書きが小説の世界にいってしまっているためではないかという。
 日本の有能なサイエンスライターが少ないということについては、わたくしも強く感じている。これは日本語で書く限りは読者が限られていることに起因するのかもしれない。 ミステリだって同じなのだと思う。英語でベストセラーになれば売れる部数は桁がちがう。それにそもそも日本では科学者自身が啓蒙書を書かない。書けば、どこかの脳科学者のようなことになってしまう。
 稲葉氏は、最近の格差社会論が、支配階級と被支配階級という単純化に走っているが、ある軸での支配階級は別の軸では搾取されているという面を見過ごしているという。そこら辺のニートが大学院生顔負けの知識人だったりすることがあるわけで、金持ちのセレブに知も権力もすべてが集まるわけではない、という。
 しかし、そこら辺のニートが大学院生顔負けの知識人だったりしても、今のところはなんの力の源泉にもならないように思う。梅田望夫氏は、ウェブ時代では、そういう人たちにもそれなりの力があたえらえるようになるという展望を示しているのであるが、まだ前途は未知のままである。
 エリートはある面では無力であり、それほど世の中を意のままに動かせるわけではない。それなのにわれわれは陰謀史観に惹かれがちであると、稲葉氏はいう。それは近代的な自己了解では、世界が俺に立ち向かって俺を捕まえようとしているという被害妄想的な全体世界理解になりやすいからである、と。
 それについて東氏は、それは人間の認識能力の限界なのではないかという。全体を考えようとすると擬人化してしまうのだ、と。
 東氏のいうのは、またしても《人間の能力の限界》ということである。エリートはある面では無力であり、それほど世の中を意のままに動かせるわけではないかもしれない。しかし、あるできあがった集団がそれを構成する誰の意思でもなく、全体として、世の中を動かしてしまうということはないだろうか? 個々のエリートは世界の見通しがきくわけではなく、ただ個人の狭い視野の中でとりあえずのことをやっている、しかしそのエリートの集団が、全体としては個々の構成員の思惑を超えて大きく世の中を動かしてしまうことはありそうなことのように思う。
 稲葉氏は、自然は無目的なエンジニアとして存在していて、人間もたかだかその一部でしかないという視点、ドーキンスなどが提示するような視点、それが工学と接点をもつ、という。これはもちろん進化論の視点である。工学的な知と進化論的な知がどのように結びつくのか、それは非常に大きな問題なのであると思うが、わたくしには今ひとつピンとこない。進化の圧というのは個々の個体にかかるものだからである。むしろ、工学は公にかかわり、進化論は個にかかわるとして、東氏のいうように、公と個の原理をはっきりとわけて考えたほうが有用であるように思う。
 モダニズムは人間が充分に人間ではなかったところから立派な人間になるというストーリーを描いたが、ポストモダニズムはそのアンチである、と稲葉氏はいう。ポストモダニズムは、人間は所詮ただの生きものである、人間というのは大したものではない、という認識を根底にもつ、と。
 東氏は、ある植物がある環境に生えているとしても、その植物自体はなにも考えていない。その植物がなぜこうなっているのかという環境の仕組みを考えること、それが自分の目指すものであるという。これはまさに進化論的見方である。そういう見方は、「作品そのものの底知れなさや凄さを見ない社会学的還元主義」と批判されたと稲葉氏は指摘する。進化論は統計学であり、統計学は個々の個体は無視するのであるから、その批判は見当違いであるとわたくしには思える。
 そして、稲葉氏は、あとからみるとものごとには理由があるのがわかるが、わかるのはあとからで当事者たちには何もわからないし、自覚もしない、という。進化論は後づけの理論で、未来の予想には使えないのと同じように、と。
 炭鉱のカナリア論といういのがある。文学というものはまだほとんどのひとが気がついていない早い時期から、変化を敏感に感じるとることのできる個性が、その変化の理由についてはまったく説明できないまま、とにかく変化を描写してしまうという側面があるのだと思う。
  
 わたくしは基本的に自分が《なよなよ人文系》の人間であると思っているので、ここで議論されていることのいちいちが身につまされる。人文系の教養は時代遅れになりつつあるのだといわれると、そうなのだろうなあと思うと同時に、いやな時代になったなあ、とも思う。しかしそれは東氏もいうように、個人的な感傷にすぎない。
 人文系の人間ではあるが、理科系の端っこで仕事をしている人間でもあるので、ピュアな人文系のひとにくらべると、少しは脳科学とか進化論などの本も読んでいる。そういう人間からみると今の人文系の学問は、お公家さんが有職故実の瑣末な論にあけくれているように見えるときがないわけではない。カントは、進化論も宇宙の構造も知らずに「空に輝く星々とわが内なる道徳律」を賛美したのである。カントの知っていたのはニュートンの静的な宇宙であった。それなのに多くの人文系のひとたちは、カントをそういう背景なしに、ただその著作のテキストだけで論じるのである。「純粋理性批判」はカントがニュートンが真理を発見したと誤解したことから書かれたものであると、ポパーはいう。ポパーは科学哲学という哲学の中では異端分野にいるひとで、多くの哲学者からは無視されている。
 文化と理科の対立という問題についてはC・P・スノーの「二つの文化と科学革命」(みすず書房 1967年)以来の命題である。シェークスピアも読んでいない物理学者対熱力学の第二法則についてなんら説明できない文学者という構図である。もちろん、シャルガフ(「ヘラクレイトスの火」岩波現代選書 1980年)のような教養ある生化学者というのもいたわけだけれども、われわれの科学者のイメージはJ・ワトソン(「二重ラセン」(パシフィカ 1980年)のほうである。全然、教養がない!などというと、わたくしが旧態依然の教養概念に捉われているのは歴然なのであるが。
 スノーのころには、モノは物理学、人間あるいは文化は文学というような棲み分けがまだあった。いまでも文化を物理学で説明しようとするものはいないだろうが、人間も文化も生物学・進化学で説明できるという考えは社会生物学などとして、理科系からでてきたわけである。そして人間社会の多くが父系制であるのは文化の産物か進化的な基礎があるのかなどと議論をしているうちに、工学の分野から父系制の社会が嫌いならば男が威張れない社会制度を工学的に作ってしまえばいいではないかというような議論ででてきてしまう時代となった。人文学・生物学・物理学・工学などという分野がお互いも交流なく存在している。スノーの時代とは異なり、「四つの文化」くらいになってしまっているのかもしれない。
 人文学と工学の対立という問題は、実は医療の世界ではごくありふれたものである。ひとりの患者さんがいたとき、患者さんの悩みなどぐずぐず聞いていても時間の無駄である。直して(あえて治してとは書かない)しまえばいいではないか、という論である。外科は工学そのものである。その対極に精神医学があったはずなのだが、精神医学の世界も脳科学派と「こころ」派にわかれてしまったため、はなはだ奇妙なことになってきている。多くの患者さんが精神科にカウンセリングを受けるつもりで受診して、薬だけを処方してもらい呆然として帰ってくる。現代では精神医学の相当部分は脳にかんする身体医学になりつつあるのだが、多くのひとたちにとってはまだ「こころ」という科学をよせつけない神秘世界の話なのである。あるいは「精神分析」というものを「科学」と思っているひとも多いかもしれない。
 これは現代において相当部分の問題が工学的に解決可能になっているにもかかわらず、人文系の人間が今だにそれは自分の領域と思いこんでいることとパラレルなのかもしれない。
 むしろ医療の世界は世の中の動きとは逆になっていて、従来なら工学的解決のみでよかった部分にまで人文的な対応を求められるようになってきているのかもしれない。それで医療従事者はへとへとになってきているのかもしれない。身も心も満足したいなどといわれても困るのである。「治った(直った?)からといって俺は満足していない。俺はもっと人間としての扱いを受けたかった。単なる機械の修理を期待したのではないのだ」などといわれても途方にくれる。医者は医療の多くを機械の修理と同じだと実は内心思っているのである。
 しかし、稲葉氏や東氏がいっているのはそういうことではないだろう。人文系の多くの知が役に立たないものとなっている現在、有効な知とはどのようなものだろうか、という問いである。その根底にあるのが《人間チョボチョボ》論である。人間はそんな大した存在ではなく、知性などといってもそんなに誇れるような代物ではないという前提で何ができるかという問いである。「人間が有限な存在であり、その能力には一定の限界があるということ、これは誰が呟いても不思議のない平凡な確認である。とりわけ十八世紀においてこの事実は絶えず歌われ呟かれる平凡なエレジーステロタイプだった」(丹生谷貴志吉田健一」)。「(「人間の自己慢心の時代」が広範に流布されるようになったのは)「完全性」への信仰とその帰結たる完璧な社会的秩序に向けての連続的(かつ急激な)進歩への信仰が、強力な主導者によって説かれ、一般の耳目を集め始めるようになった十八世紀後半に於いてでありました。そして、こういう風潮が最高潮に達したのが、十九世紀後半から二十世紀初頭の10年間にかけての時期、すなわちヴィクトリア朝と呼ばれていた時代であったのであります」(A・O・ラヴジョイ「人間本性考」 名古屋大学出版局 1998年)。
 18世紀に時代にまた戻ろうとしているのかもしれない。しかし、工学だけは新しい部門であるだけに、「完全性」への信仰とその帰結たる完璧な社会的秩序に向けての連続的(かつ急激な)進歩への信仰がいまだに色濃く残っているかもしれない。そうであるとすれば、「人間が有限な存在であり、その能力には一定の限界があるということ」のうえに、工学的手段で社会構築をしていくということは、とても危うい綱渡りになるのではないだろうかと思う。
 東氏も稲葉氏も《チョボチョボ》のひとではなく、賢い人、あるいは変なことにこわだるちょっといびつな人のほうであろう。そういうひとたちが《チョボチョボ》について論じるというのが、この手の論の一番の問題なのだろうと思う。わたくしには《チョボチョボ》論というのが、どうしてもニーチェの「末人」「最後の人間」論と重なってイメージされてしまう。とすると東氏や稲葉氏がニーチェのように見えてくるのである。18世紀の《チョボチョボ》論は語っているひともまた、自分も《チョボチョボ》と思っていた。しかし東氏も稲葉氏もどうも自分は《チョボチョボ》ではないと思っている嫌疑が濃厚なのである。
  

批評の精神分析 東浩紀コレクションD (講談社BOX)

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