6.情報自由論

 
 最近刊行された(講談社2007年8月)「情報環境論集」の前半部分を構成する論文である。2002年から2003年にかけて「中央公論」に連載されたが、今まで書籍化はされていなかったらしい。今回読んでみてとても面白かったが、「存在論的、郵便的」を書く東氏と、「動物化するポストモダン」を書く東氏と、この論文を書く東氏の関係がよく見えない。ということは東氏について何もわかっていないということになるのかもしれないが。本書の後半に収められた「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」(1997年から2000年にかけて書かれたもの)とさえ、よく関係がつかめない。「サイバースペース・・・」ではフィリップ・K・ディックのSFなどが延々と論じられるのである。
 それでここでは「情報自由論」をそれ単体の論としてみていく。
 
 携帯電話はつねに自分の位置情報を発信している。ということは現代社会とは市民の大半の位置情報が電話会社のデータベースに収められているということである。
 われわれはウエブサイトをひとつ見るごとに、自分の使用機種やブラウザの種類、そのサイトを見る前に見ていたページのアドレスなどの情報を相手のサーバに発信している。
 テレビ時代は情報は受身であった。しかし現在の情報化社会は、双方向的に情報を発信している、匿名化が困難な社会なのである。
 日米欧などの先進諸国は20世紀最後の30年で大きな変貌をとげた(現在思想の分野では「ポストモダン」化と呼ばれる)。社会全体をまとめる象徴的=国家的統合の力が落ち、構成員の多様性をみとめる多文化主義的な社会が出現した。しかし、多様な社会とは隣人が何を考えているかわからない世界でもある。ということは隣人が危険な人物であるなら、それを排除したいという欲求が高まる社会でもある。異常者や犯罪者の隔離という圧力が働く排除社会でもある。これが社会のセキュリティ化という動向を呼びだす。
 かつて情報技術革命はわれわれに自由をあたえるという夢想をあたえた(カリフォルニア・イデオロギー)。しかし20世紀の最後の10年では、それはわれわれの自由を奪うものであるといわれるようになってきている。
 かつての権力は、ある特定の集団がそれ以外を監視するような機構であった。現代では万人が万人を監視する。かつて国家が独占したような技術が、今では民間企業や個人が簡単に利用できるようになってしまっている。
 最近では、監視カメラをプライバシーの侵害であるとして否定する議論はあまり見られない。安全はプライバシーに優先するという見方が先進国に共通したものとなりつつある。
 情報技術の進歩は、新しい権力と結びつきうる。一見、非政治的にみえる工学的な技術革新が容易に政治に結びついてしまう。工学と政治がどう結びついているのかへの想像力を欠いた視点では、現代の権力をとらえらることはできない。
 フーコーは19世紀以降の権力は、国家から市民へと一方的に働くものではなく、市民の価値観を変え、市民が自発的に国家にしたがうことで機能していることを指摘した。視線の内面化である。義務教育の役割は読み書きの訓練よりも、このような視線の内面化をおこなうことであった。
 しかし、ドゥルーズは、フーコーのいう権力形態は20世紀はじめに頂点に達し、現在ではすでに衰退しているとした。かわりに台頭しているのが、情報処理とコンピュータ・ネットワークに支えられた「管理型」という形式であるといった。もはや学校や工場での訓練は必要とされず、個人の行動を数字におきかえて直接制御するようになってきているというのである。内面をもった個人には、もう国家は関心をしめさない。個人を法や社会的規範や市場により規制するのではなく、(レッシグのいう)アーキテクチュアで規制する。東氏はアーキテクチュアを環境と意訳し、現代社会を「環境管理」社会と呼ぶ。
 ポストモダン化とは、規律訓練の失墜と連動している。これはまた「教養の崩壊」「道徳の崩壊」でもある。
 ポストモダン社会は、多様性を歓迎する寛容な社会であるが、同時にたえず相互監視を必要とする強力な監視社会でもある。価値観は多様であってもいいが、だれがいつなにをしたかは監視され記録され、必要とあれば特定の個人の生活に権力が介入できる社会なのである。そこでは寛容の論理と排除の論理が同居している。
 「個人の内面」から「動物的な生存」へと管理の対象が変わってきていることに、現代の人文社会科学の分野は対応できていない。だから、9・11以降の「理念や価値観も大切かもしれないけれど、まず市民の安全を確保せねば」という論理に、コミュニタリズムもリベラリズムポストモダニズムも対抗できていない。現代社会ではイデオロギーとセキュリティが切断されていることが理解されていないのである。環境管理型権力は個々人の内面の情報を必要としない。人間を物理的に管理するだけである。その人が何を考えていようと関係ない。現在の社会は、人間を人間として(考える存在として)あつかうことをしない。セキュリティへの希求とは動物的な生存の欲求なのであり、そのレベルに応えるだけなのである。
 当初、コンピュータは大学や研究所内に鎮座する重厚な機械だった。それが現在のように大衆化され、日常生活に入りこむことができたのは、エンジニアやプログラマ、いわゆる「ハッカー」たちのもつ倫理観や世界観によることろが大きい。彼らは、コンピュータの普及が社会変革をもたらす可能性を信じ、その啓蒙や改良に身をささげた。コンピュータの民主化は「ハッカーたちの夢」がもたらした。それがなければ現代社会は、一点に権力が集中する、オーウェルの「1984年」のような世界になっていたかもしれないのである。
 「ハッカー」は1950年代末のMITで生まれた。60年代の「ハッカー」の多くは学生で、大型計算機の最先端システムを「ハック」し、改良し、新たな利用法を発見し、その価値を利用できる仲間たちと共同体を作りあげた。
 1970年代には、マイクロプロセッサが安価になり、「ハッカー」の活動の裾野が広がった。それを担ったのはカリフォルニアの若者たちであった。彼らは、コンピュータの普及が従来の権力や社会体制を破壊するものであると確信していた。そして同時に金銭的な成功も追求した。かれらは、選良主義者であると同時に大衆主義でもあったのであり、反体制的かつ資本主義的、理想主義的かつ現実主義的という存在なのであった。ある時期の若者にとって、「ハッカー」になるということは、《反体制の匂いをもった金持ち》になるという、魔法のような選択を意味した。
 続く10年の間に、新しい「ハッカー」文化は、古くからのアナログ技術を前提とした法体系とぶつかるようになる。
 「ハッカー」は国家による管理に反対する。民間企業の情報収集もまた警戒する。彼らは市民の自由やプライバシーを最大限に尊重する。これは「左翼的」にみえる。しかし、「ハッカー」が自由やプライバシーを希求するのは、競争原理の徹底化を望むからなのである。情報技術を利用する権利はあらゆるひとに等しく開かれていなければならない。そういう社会においては情報技術に精通した自分たちこそが勝者なのである、ということなのである。かれらは、情報化がもたらす社会格差や経済的不平等には意外と鈍感である。こういう点から見ると、かれらは「リバタリアニズム」の徒であるともみえる。暗号化のツールを使いこなすひとは、規制や税から逃れることができるのであり、そのそうな暗号技術で武装した市民が完全に自己責任で、だれの干渉もうけずにモノやサービスを交換しあう世界こそがかれらの理想の世界である。そこでは犯罪者が跋扈するかもしれず、情報弱者が不利益をこうむるかもしれないが、それは甘受すべきリスクに過ぎないのである。
 「ハッカー」たちはアメリカ独立宣言を強く意識している。自分たちこそが、「遠くにいる無知な権力を拒否し、自由と自己決定を愛した人々」の伝統につながるとするのである。だからかれらは愛国主義的でもある。かれらは従来の左翼・右翼、保守・革新の区分からはみだしている。彼らがもとめるものは、情報技術の規制なき利用と、それにもとづく公正な競争のみなのである。
 かれらは情報技術そのものは価値中立的であると考えている。それは自由を増大させるものではあっても、脅かすものでは決してないとしている。その心情はあるものたちからは「カリフォルニア・イデオロギー」として揶揄される。それはヒッピーたちの奔放な精神とヤッピーたちの企業的野心の野合にすぎないし、技術の発展がすべてを解決するという安易な楽観主義に堕しているというのである。
 「ハッカー」たちの専門家依存体質は、ポストモダン社会一般の問題でもある。それをベックは「リスク社会」と呼んだ。現代社会は専門家にしか認識できないリスクに満ちあふれていている。そのため、目に見えない不安が人々を襲い、現代社会は安全性の追求という方向へと再編成されていく。ベックはリスクの有無は技術的観点からのみは決定できないことを強調する。リスクの大きさは人々の生きかた、すなわち価値観に依存するのだ、と。「ハッカー」たちのいう技術の価値中立性を否定するのである。
 現代社会は、情報技術が一部「ハッカー」たちのものではなくなり、社会全体のインフラとなってしまうことにより、それが環境管理型社会の重要なツールとなってきているという状況の下にある。
 イギリスの政治学バーリンは半世紀前に、消極的自由(他者からの干渉の欠如)と積極的自由(自己支配)を区別した。バーリンは後者を危険であるとした。それを追求していくと、それを可能にしてくれる権威への隷従へと弱い人間はいきついてしまうと考えたのである。インフォームド・コンセントのような自己決定の肥大化は危険であるとする主張もこの延長線上にある。
 現在はあまりにも多くの選択肢が提供されている社会であるので、誰も自分でそれを取捨選択することができなくなり、誰かがそれをフィルターしてくれることをみな望むようになる。専門家でなければ判断できないことを素人が判断させられるという状況がそれを呼び出すのである。フィルターすることは相当程度は工学的に可能である。そこから工学と政治が結びつく。かつては自由の拡大を支援すると思われていた情報技術が、急速に権力のインフラと化しつつある。
 個人情報と引き換えにえられる自由には何かが欠けている。それは「匿名性」である、と東氏はいう。現代は、まず身分を明らかにせよ、そうすれば自由にふるまってもいいという仕組みでできている。従来の規律型権力では記名的な個人が形成され、権力は個人の内面に踏み込んだ。それに対して現代にあるのは、情報管理の枠内でのみ多様性や自由を許す権力である。
 プライバシーの権利は1890年のアメリカで「ひとりにしておいてもらう権利」として提案された。もともとはイエロー・ジャーナリズムから個人を守ろうというものであった。しかし1960年代以降、情報社会化とともにその概念が変わってきた。それはもっと強い概念、自己情報の完全管理という方向にむかうのである。しかし、そのような余りに強い概念は現在では実現不可能なのである。現在、プライバシーへの最大の脅威はインターネットである。
 多様性を多様なままで保ちながら全体を管理し安定させる秩序は構築できるのだろうか? ここで東氏はH・アーレントの「人間の条件」を持ちだしてくる。アーレントは人間のいとなみを、「労働」と「製作」と「活動」とに分けた。アーレントによれば「活動」は「顕名」的なものである。「顕名」的な活動によって、ひとははじめて固有の人格として現れることになる、とアーレントはした。政治と公共性はその成員が固有名をもつ存在として「現れる」ことなのだとした。それらなインターネットという場は、アーレントのいう「活動」の場でありうるのだろうか?
 「ハッカー」たちを駆り立てたのは「ハッカー」内部における評判ゲームであった。多くの情報社会論は、研究者や「ハッカー」や起業家のような確固たる目的意識をもった能動的な主体ばかりを想定して議論をすすめている。そこでは、ただ受動的なだけのユーザーは相手にされていない。想定されているのは選択肢の多さに耐えられる強いユーザーであり、そこから遁走する弱いユーザーではないのである。
 コンピュータとネットワークは、
1)新たな公共空間を開くこともできる(活動)。
2)新たな協働のモデルを用意することもできる(製作)。
3)セキュリティとマーケティングの精緻化を介して、秩序維持の媒体ともなりうる(労働=消費)。
 現在では消費も次第に顕名的なものとなってきている。現金は匿名だが、クレジット・カードは顕名である。現在では能動的な顕名性と受動的な顕名性があるだけなのである。ポストモダン社会は二層化する。人間が人間でいられる(人格としてあつかわれる)層と、人間が動物としてあつかわれる(情報の集合としてだけあつかわれる)層とにである。この社会はわたしたちの中の「人間」と「動物」を切り離して管理しているのである。
 そもそもわたしたちはいつも人間として生活しているわけではない。むしろ大半は動物として非主体的で受動的な消費者として生きている。情報社会においては、人間はますます人間的になってくるのと同時に、ますます動物的にもなってくる。
 問題は、人間はつねに自分の「主体」でありうるとするような強い人間像がはたして正しいのかということである。東氏はひとはつねに主体的でありうることはできないという。どのような人間にとっても、生活の大部分は受動的な消費者としての生活なのだという。わたしたちはフルタイムで人間であることはできない、という。そしてひとがどのような領域において主体となりうるのかは各人で違っているという。このポストモダン社会では、どのようなことが「人間的」なのであるかを決める超越的な存在はいないのである。
 われわれが出発点とすべきなのは、動物としての生活の中にときどき人間が点滅するという人間像である。もともと能動的に発信しているひとを「隠す」ことはそれほど重要ではない。受動的に消費しているだけのひとが意に反して発信してしまうことを「防ぐ」ことのほうが現在でははるかに重要である。
 21世紀の公共空間は、入り口にIDカード読み取り装置と監視カメラがあり、そこで拒絶されないものだけが入れるようなものになっていくおそれがある。今は国境をこえるのにパスポートがいるだけである。しかし将来は飛行機にのるにも新幹線にのるにも当人が危険人物でないことを明かす特定のカードが必要とされるようになるかもしれない。とすれば、これから大事になるのは、匿名のままで公共空間にアクセスする権利をどうやって確保していくかである。
 労働や消費の場においてはひとは地位や能力や経済力という属性により判断される。それは容易に差別の場へと変化してしまう。一方、公共の場とは他者を自由な存在者として遇する場のことである。そこでひとは、身分や財力を離れた、なにものでもない存在として立ち現れることができる。とすればアーレントの見方とは反対に公共の場こそ匿名性の場であるとすることもできるかもしれない。
 いずれにしても、公共性の場とはセキュリティの思想とは相反する場なのである。自由の感覚は匿名であることと深く結びついている。現在の環境管理型の管理から外れてもひとが生きていける社会の構想こそが現代社会の課題である、と東氏はいう。
 今や人々は警察よりも隣人をおそれる。なぜアメリカにおいて銃犯罪が多発するのか? カナダでも銃は普及しているが、アメリカとくらべて非常に銃犯罪は少ない。なぜアメリカには多いのか? それはアメリカ人が犯罪をおそれているからである。アメリカ人はいつも敵の影におびえている。ひとりひとりが安全をもとめると社会全体は危険なものとなる。地下鉄サリン事件に取材した村上春樹の「アンダーグラウンド」を読むと、そこでの被害者でこれを一種のテロと思ったひとがほとんどいないことに驚く。現在このようなことがおきれば、人々はすぐに何らかのテロを想起するであろう。わずか10年で日本人の感覚も、またまったく変わってしまった。
 情報化はわれわれを自由にするのか、不自由にするのか? 両方である、と東氏は答える。オーウェルの「1984年」が規律訓練型の近代権力を描いているとすれば、ハックスリーの「すばらしい新世界」はそれより前に書かれたものでありながら、「環境管理型」のポストモダンの権力を描いている。ハックスリーはそれを生化学的方法でおこなわれるとして描いたが、広告やマーケティングによってもそれが可能であることには気がつかなかった。
 問題は、ポストモダン的なモデルを受けいれると、近代社会が築きあげた「市民」とか「個人」といった理念を放棄することになってしまうという点である。東氏は、規範を内面化された近代的人間にとどまるべきなのか、情報環境に支援されたポストモダン的動物として生きるべきなのかは判断できないという。そのかわりに東氏が指摘するのが、セキュリティへの過剰な欲求が寛容の精神を衰退させるという問題である。東氏は寛容の精神を断固維持する立場なのである。
 ここで、この前に論じたフランシス・フクヤマの「人間の終わり」が登場する。フクヤマは明白に近代的人間にとどまるべきであるという立場である。問題は「近代」が終わることによって生じた「人間観」の変貌である。自由とは選択肢の多さと自己決定の確保だけではなく、異質なもの=他者への寛容の精神なしにはありえない、というのが東氏の強調するところである。そしてここで、前のエントリーでも紹介した「すばらしい新世界」の、「わたしは愉快なのがきらいなんです。わたしは神を欲します。詩を、真の危険を、自由を、善良さを欲します。わたしは罪を欲するのです」という野蛮人の言葉が引用されてくる。つまり、ここに野蛮人という危険な隣人がいるわけである。「すばらしい新世界」はそれを寛容する社会ではないわけである。それでいいのかを問いかけて、東氏は論を終える。
 
 「あとがき」で東氏は、これまでこれを単行本化しなかった理由について、連載開始時には監視社会批判の立場にあった自分が、連載をすすめるにつれて、監視社会を単純に批判できなくなり、自由の観念を信じられなくなってしまったためであるとしている。
 ここでいわれていることは、現在では思想はもはやどうでもよくなっているということである。イスラムのテロリストが何を考えようとどうでもいい、それを工学的にコントロールできればいいではないかという方向に社会は進んでいる。
 現在の人文科学や社会科学の議論がどこか的をはずしているように見えるのは、もやは現代社会では相手にされていない個人の内面といったものを後生大事に議論しているからであるのかもしれない。安部首相がいっていた「美しい国」などというのがどうにもピント外れに聞こえたのも、みなの関心が年金といった生存レベルの問題にあるときに、個人の内面に国家がかかわろうという時代錯誤的な試みをしているようにみえたからなのであろう。これは必ずしも格差社会になって、生存すら保障されなくなっているのに、心などという腹のたしにならないことを議論しているということではなく、人々が国家に期待するものがセキュリティだけになっているのであり、個人の生きかたにかかわってくることを拒否するという動向になってきているということである。だからこれは景気が回復しようと、ふたたびバブルがこようと、関係のない話であることになる。まさに日本はポストモダン社会にいるということになる。
 それにくらべれば、ブッシュ・アメリカにはいまだポストモダンは到来していないことになる。そういうアメリカにおいてなら、「ハッカー」たちが主張していることもよく理解できることになる。アメリカはまだ規律管理型の社会であるのかもしれない。デネットはそれを生物学の立場、進化論の立場からつき崩そうとしていた。「ハッカー」たちはそれを工学の立場から壊そうとしているわけである。
 わたくしは「個人」という西欧近代の価値を信じている古い人間であるので、ここでいわれているような工学的な見地からの思想の無化という主張には虚をつかれた。現在の人文科学や社会科学での人間理解は相当程度に空中楼閣的な部分があって、もっと生物学(進化論)からの理解を取りいれて基礎から補強工事をしないと空中分解してしまうのではないかと、わたくしは思っているけれど、それでも、人間とはどのようなものかという議論には意味があると思っている。そのような議論は一切捨ててしまっても、現代の社会はコントロール可能であるという議論は、ほとんど考えたことはなかった。
 わたくしが寛容な社会を好むのは、自分が変わった人間であるという自覚が強くあるからであると思う。寛容な社会でなければ、わたくしのような人間には居場所がない。だから、東氏が描くような、人の内面には干渉しないで、生物学的なデータだけで人を管理する社会というのを決して不愉快には感じない。いやではあるが携帯で位置情報を知られたり、インターネットにアクセルするたびに自分の情報を発信してしまうことは許容範囲であるようにも思ってしまう。
 しかし、東氏によれば、セキュリティ至上の社会は変わりものへの許容度がきわめて低い社会であるかもしれないのである。そこは非寛容な社会であるかもしれない。ポストモダン社会は寛容と非寛容どちらにもふれる可能性をもった社会であるということになる。それでも、それはキリスト教的な価値観で一元化されている世界やイスラム的価値観で一元化されている世界よりはずっと増しな世界であると、わたくしは感じてしまう。
 わたくしは文明社会と寛容な社会というのをほぼ同一視しているように思う。「アラビアン・ナイト」を読めばイスラム世界は文明社会である。西欧の歴史をみれば、キリスト教社会もまた文明世界たりえることが理解される。原理主義というのは(わたくしからみれば)明らかな退行なのである。
 “寛容”は人間が愚かしい存在であることの自覚から生じる。ここに描かれた「ハッカー」に、もし不足しているものがあるとすれば、それはまず第一に、愚かなもの、すぐれていないものへの共感である。
 自由とは、われわれが愚かであることが許されることである。自己決定は、もしそれが最善の選択を意味しなくてはならないのであれば、地獄である。愚かな選択をしてもいいことがなければ、自己決定ということは何も意味もなさない。「ハッカー」たちは何が正しいのか自分たちはよくわかっていると思い込んでいる疑いがある。しかし、何が正しいのかはわからないのである。正しいということは“価値”という見地から独立には存在しえない。そして“価値”はアプリオリに定言命題として与えられないかぎり意味をなさない。そして東氏によれば、ポストモダン社会とはそのようなアプリオリの定言命題が消失した社会なのである。だからこそ、ポストモダン社会は不幸なのであって、聖書の言葉のままに生きたり、日本の美しい伝統のもとに生きることこそ、のぞましいというひとがでてくる。しかし、今の情報社会を生んだのは工学的な知なのであり、それは科学にもとづくのであり、科学の知はいやおうなしに人間の理解をも変えるのであるから、片方で情報社会、それと同時に聖書の言葉、あるいは「美しい国」などといういいとこどりはありえないことになる。
 東氏はもちろん人文科学の畑の人間であるが(おそらく)コンピュータとかインターネットといった技術に例外的に詳しいひと、「ハッカー」的な素地をもったひとなのではないかと思う。新しい見方というのは、そういう学際的素地をもったひとのなかからしかでてこないのかもしれない。人文科学プロパー、社会科学プロパーのひとはどんどんと取り残されていってしまうのではないかと思う。
 しかし、文学青年崩れで物理学と数学が大嫌いであったわたくしとしては、途方にくれるばかりである。たまたま医者という職業を選んだので、生物学とはかすかに接点があり、進化論まではまだ視野に入れることができる。しかし、工学となるともはやお手上げである。セキュリティとか暗号とはいわれても何のことやらである。これから世界を主導するのが工学なのであり、それは専門的知識をもったひとしか手をだせない分野であるのだとすると、どうしたらいいのだろう。
 数学とか天文学とか生物学とかの分野では、素人に啓蒙できる有能なライターが多く存在している。しかし工学の分野についてはどうなのだろう。工学もまた思想にかかわる部分があることは今まではあまり考えられていなかったので、この分野には人材があまりいないのかもしれない。ぜひそのような視点からの、われわれ素人にもなんとか理解できる啓蒙書がもっと多く書かれることを切に期待したいと思う。

情報環境論集―東浩紀コレクションS (講談社BOX)

情報環境論集―東浩紀コレクションS (講談社BOX)