R・ローティ「偶然性・アイロニー・連帯」 最終章「連帯」

 
 人間には本性、たとえば人間性といったものはないとローティは主張するのだが、そうするとある人が別の人のためになにかするといったことがあった時に、それの説明として人間性などというものを持ち出すことはできなくなる。それはたまたまのことであることになる。なんら普遍性をもった行為とはいえない。われわれがある人に同情するという局面があったとしても、それは偶然がもたらした歴史の所産にすぎないことになる。
 われわれという言葉は誰を指すのか? われわれ人類などという言葉は意味をなさない。キリスト教の見方によれば、あらゆる人は罪深い同胞として等しく扱われなければならない。カントは理性的な存在としての人間を等しく扱うことを要請した。しかし、それらは間違っている、とローティはいう。われわれが誰に同情を感じるかは歴史的な偶然による。それでも、われわれが同胞と感じる仲間の範囲を広げていくことはできる。人種や習慣の差異ではなく、苦痛や辱めを受けている人かどうかということを基準にして、それをしていくことは可能である。
 ローティがいうのは以下のようなことである。「理性」がわれわれの道徳の根幹にあるという見方は(たとえ間違ったものであったとしても)民主主義の創生期には有意義であった。しかし、それは現在においては、もはや民主主義にとっての桎梏となっている。もう、その見方を手放してもいい時期にきている、という。
 ニーチェ以降、人間の本性というような見方はわれわれにとって身に沁みるものではないものとなってしまっている。そういう身に沁みないものを根拠に人間の連帯を説くことは欺瞞でああり力を持ちえない。そうではなくて、苦痛のもとにある人、辱めを受けている人をなんとかしたいという気持ちを根拠にすべきである。われわれがなぜある人の苦痛を見過ごせないか、それには何ら根拠はない。それは偶然の所産である。根拠はないにもかかわらず、われわれの連帯の基盤はそこにしかない。
 すくなくともそういう見方は、リベラル・デモクラシーの体制にとっては最善のものである。しかし、またしてもリベラル・デモクラシーがなぜ望ましいのかということには根拠はない。であるから、それに対するニーチェハイデガーの挑戦に対するまともな対応は存在しない。しかし同時にニーチェハイデガーの主張を支持する根拠もあるわけではない。とにかくわれわれは今いる場所から出発するしかない。そして、今いる場所はニーチェハイデガーの望んだ世界ではない。この主張はエスノセントリズムである。この呪いを解くことはできない。できることは「われわれ」の範囲を広げ、「われわれ」が今よりも多様なものとなっていくことだけである。「われわれが信じ欲していることをあなたは信じ欲しますか」という問いと、「あなたは苦しいのですね」という問いをいまわれわれは区別できるようになった。これにより「公共的な問い」と「私的な問い」を区別できるようになり、「苦痛についての問い」と「個々の人間の生の核心についての問い」を区別できるようになった。すなわち、リベラルの領域をアイロニーの領域から区別できるようになった。そのことによりある一人の人間がリベラルであると同時にアイロニストであることが可能になった。それがローティの結論である。
 
 この終章は20ページほどの短いものである。他の章にくらべて書くこんでいなく、結論のみを並べたようなぶっきらぼうなものとなっている。デリダナボコフの本を舐めるように一行づつ読んでいくような行き方のそれまでの章と比べ違和感が大きい。
 ローティによれば、わたしたちはアイロニストである。アイロニストとは自分の考えが他人の考えより優越するとは信じられない人である。人が自分の行為や信念や生活を正当化するのに用いる語彙を、ローティはファイナル・ヴォキャブラリーと呼ぶ。アイロニストは、自分の語彙の絶対性を信じることはできない。このアイロニーは私的な場面においては大切だが、政治の場、公共の場には持ち込まれてはならないというのが、ローティの本書での主張のポイントである。そしてリベラルな社会とは、個人のアイロニーを最大限に許容する社会なのである。それは理論的に示されるものではなく歴史的な事実としてそうなのである。
 どう考えても、ローティのいうわたしたちとは知識人である。そして知識人の中にも、俺をそんな仲間に入れるな!という人はたくさんいるであろう。本書ではその一例としてハーバーマスを挙げている。
 そしてローティは知識人でない人でも、現在では、唯名論者で歴史主義者ではあるだろうというのだが、本当にそうだろうか? むしろ、これからは宗教回帰の時代などともいわれるくらいである。実在論の超歴史主義に傾くのではないだろうか?
 わたくしは自分のことをアイロニストであると思うけれども、アイロニストとは二流の人なのではないかと思う(わたくしはせめて三流ではなく二流になりたい)。たとえばローティは、ここで示しているような見解を自分で信じることができていないだろうか? ここに書かれていることは公共のことであり、公共のことについてなら、そういうことはないということなのだろうか? ローティは信じていると思う。そうだとすればローティはアイロニストなのだろうか? 私的な部分ではアイロニストだが公共的な提言においてはアイロニストではないということなのだろうか? 
 自分はこう信じるとして著作を公刊する。しかし、自分は間違っているかもしれない、とも思う。それはありうる態度である。しかし、自分はこう信じるけれども自信はない、などといって本を出すものは二流の人間である。自分はこう信じる、自分は正しい、という人は一流と三流の人である。一流のアイロニストというものがいるのだろうか、というのが疑問である。世に害毒を流してきたのは一流の思想家である。一流の思想家がいなくなれば、世の中はずっと平和になるであろう。しかし・・・。
 平和であることが何より苦痛という思想家(それも一流の)がいるのである。あるいは一流の思想というのは、そういう人の中からしか生まれないのかもしれない。
 「あなたは苦しいのですね」ということ以上の連帯の根拠はないのかもしれない。しかし、その苦しみを緩和するための方法について議論が始まると、そこにすでに信念が生じ、すぐに「われわれが信じ欲していることをあなたは信じ欲しますか」という議論ははじまってしまうのではないだろうか? そもそも私的なことと公共のことをそんなに奇麗に分けることができるのだろうか?
 この本を知ったのは、東浩紀氏の本での紹介による。そこで、東氏は、「ポストモダンの本質である『自分が信じていることをひとに伝えるときに、それを皆が信じるべきだと言えなくなること』なのだが、その葛藤についてもっとも簡単に書いている本として紹介している。しかし、本書を読んでの印象はそれとは異なる。
 東氏がいっていることによれば、ポストモダンというのは「大きな物語」を信じることができなくなった時代である。それはなんでだが知らないがそうなってしまった、という時代認識なのであり、それを前提にして、そういう時代の生き方の探っていくという行き方である。いまだに「大きな物語」を信じているひとがいれば、それは時代遅れなのであり、感受性が鈍いのであり、そもそも相手とするに足りない。豊かな感受性をもった人間ならば、現代において「大きな物語」などを信じられるわけがない。もっとも鋭い人間はすでに100年近く前からそれを敏感に感じていたくらいなのであるから、ということになる。
 しかしローティはいっていることは、真理とか人間本性とかいったことである。これが「大きな物語」なのであると東氏ならいうかもしれないが、真理というような言葉を持ち出すと、これは科学の領域まで包含してしまうことになり、その領域においてはそれがすでに否定的に見られているなどということは少しもない。
 ローティは「真理」というのもまた言葉である。人間のつくったものである、という。しかし、そこのところはどうしてもわたくしは納得できない。それは人間が作ったものではなく、生命体が作ったものではないかと思う。生命が外界に期待する規則性である。われわれの身体には生命が発生以来生き残りのために外界に期待してきたさまざまな反応が組み込まれている。われわれの身体は地球という構造を組み込んでいる。だから宇宙空間に一月もいれば骨はぼろぼろになる。その規則性を人間の言葉では真理とかいっているだけではないかとわたくしには思える。
 東氏の紹介で読み始めた本だが、ポストモダンなどという領域をはるかに超えた射程をもった本であると思う。その点で大変面白かったが、同時にあまりにおおきな論点を扱っているために、最後は矢は尽き刀は折れた感じで、ローティ自身も十分の論点に自信をもてなくなってきているのではないかと思う。それが終章のあっけない体裁に現われていうのではないかと思う。
 ローティは本当は文学と哲学に淫した人で、プルーストを読んだり、デリダを読んだりしているのが至高の時間という人なのではないかと思う。私的と公共を分けるという発想は、そういう俺を邪魔しないで抛っておいてくれ!ということに起因しているのでは?というのはうがち過ぎであろうか? ローティのいうリベラルな社会というのはそういう個人を抛っておいてくれる社会であることは間違いないのだが・・・。