R・ローティ「偶然性・アイロニー・連帯」 その7 第6章〜第8章 デリダ ナボコフ オーウェル

 
 第6章から第8章は、デリダナボコフオーウェルが論じられているのだが、わたくしはデリダをまったく読んでいない。ナボコフは「ナボコフ自伝 記憶よ、語れ」(晶文社 1979年)と「ヨーロッパ文学講義」「ロシア文学講義」(TBSブリタニカ 1982年)の文学論だけで、小説はひとつも読んでいない。オーウェルは、「動物農場」「カタロニア讃歌」「評論集」などを読んではいるが、本書で主として論じられている「1984年」を読んでいない。ということで、ここで論じられている主張を判断する根拠をほとんどもたない。だから以下書くことは、とんでもない見当違いなものとなっているかもしれない。
 
 まず、デリダ
 デリダは、ハイデガーが、賛美するヘルダーリンをヨーロッパそのものとした点において誤ったとしたという。何か大いなるもの(ヨーロッパとか、存在の呼び声とか)に自己を同一化するそういう誘惑にハイデガーは勝てなかったのである、と。ハイデガーは私的なものと公共的なものを結びつけようとしたのだ、と。その失敗を見て、デリダは、私的なものと公共的なものを結びつけることをあきらめる勇気を持ったのだ、と。ローティは、デリダの著作(特に後期の)は、プラトンハイデガーの影響を受けたことのない人にはあまり役に立たないだろうし、哲学をかじったことのない人にとっては、ほとんど得るものがないものだろうという。しかし数少ない特定の読者にとっては、それは貴重な本になるかもしれない、と。
 とすると、哲学の本をほとんど読むことのできない。たとえば、イデアという考え方にまったくなじめないわたくしにとっては、まったく関係のない本ということなのであろう。
 こういう見解を読んで思い出すのが、丸谷才一氏が「梨のつぶて」(晶文社 1966年)の中の「日本文学のなかの世界文学」で述べているナボコフの「ロリータ」への見解である。丸谷氏はいう。「ロリータ」という小説は「文学趣味に淫した作品、つまり、この詩(・・・Fraeulein von Kulp / may turn, her hand upon the door ; / I will not follow her. Nor Fresca. Nor / that Gull. )を読んですぐ初期のエリオットの詩のパロディだと判る読者を対象にして書かれた作品なのである」と。
 文学が好きで好きで舐めるように詩や小説を読む文学に淫した人というのが少数確かにいるのであろう。そしてそういう文学趣味に淫した人のための「凝った味の小説であるにもかかわらず『ロリータ』がベストセラーになったのは」、丸谷氏のいう通り、「幸福な、あるいは不幸な、偶然にすぎない」のであろう。何しろ新古今などというのは、本歌取りの元歌にすぐに気がつけるような人だけを相手にしていたわけである。教養のない人間が文学を親しむなどということが、そもそもありえない、と丸谷氏はするわけである。要するに文学はごく一部の人のためのものである、と。
 それと同じに哲学に淫した人というのもいるのだろうと思う。そういう人にとってはデリダは面白いのだ、ということである。そしてデリダが主張した(とローティが言っている)ことは、ハイデガーの著作もまた哲学に淫した人にとってはとても美味しいものであるかもしれないということである。しかし、ハイデガーの主張はヨーロッパの運命などということとは何の関係もないのだ、ということでもある。あるいはヨーロッパの運命を考えるというのも個人の趣味の世界、エリオットの初期の詩に親しむのと何ら変らない、私的な世界の中だけのできごとなのだ、ということであろう(もっともエリオットもまた「欧米の運命」に終生こだわって生きたひとなのであろうが)。ローティによれば、デリダニーチェを離れてプルーストに近づくのである。ただ違うのは、プルーストが自分の身近に知っていた人々を材料に造形したのに対して、デリダは歴史上の哲学者あるいは現存の論敵などを材料に造形したということだけである、ということになる。
 
 次にナボコフ
 ナボコフは、アイロニストの知識人に向かって、残酷さに駆られてしまう危険を警告しているのである、というのがローティのいうことなのである。しかし、何だかよくわからない。ナボコフは、自分が残酷なのではないか、自分が接した人の苦難に気づいていなかったのではないか、ということにきわめて敏感な人であった、とローティはいう。「ロリータ」の主人公ハンバートは他人に無関心な残酷な人間として描かれていて、それを読者に提示することで、「ロリータ」は教訓の色彩を帯びるのだ、という。自分の美的関心のみに専念していると、他人の苦しみは一層増しているかもしれないのだ、ということをいいたいのであるという。
 そういうナボコフの像は一般に信じられているナボコフの像とはあまりにも違うので、いわれていることをにわかに信じることはできない。ナボコフは、文学を読むことで得られる「背筋のあのささやかな戦慄」を追求すること以外には何も眼中になかった人のようにわたくしには思える。
 
 最後がオーウェル
 ナボコフとは正反対に、オーウェルは同時代のために書いたのであり、後世に残るなどということを決して目指さなかった。しかし、オーウェルもまた、読者が自分でも気づいていない残酷さや辱めというものに敏感になることを目指したのだという。オーウェル全体主義国家においても個人の内面の自由があり、自律的な個人がありうる、という見方を虚偽であるとして否定した。この論点が「1984年」を例として論じられるのだが、読んでいないわたくしとしては、議論の細部についていけなかった。
 ナボクフとオーウェルを「残酷さに鈍感になることへの警告」ということでくくるのはどう考えても無理があるように思う。ナボコフは私的な幸福の追求によって惹き起こされる規模の小さな残酷さを、オーウェルは、ある特定の集団によって流布されてきた残酷さをあつかうとはいうのだが。
 
 ここにとりあげられているデリダナボコフオーウェルをみな読んでいるという人がいったいどれくらいいるだろうかと思う。ここでローティが展開する論についてこられる人はどのくらいいるのだろうと思う。なにしろ「1984年」の細部が、読者がそれを知っていることを自明の前提としているかのごとくに論じられるのである。そして同様に「ロリータ」の細部も。デリダにいたっては西洋哲学史に習熟していることが前提なのである。とすれば、ローティが想定してる読者とはどのような人なのだろう。ローティの考えるリベラルなアイロニストというのはどこにいるのだろうか?
 今、われわれが現在のようであるのは偶然による。そして未来もまた偶然が決める。その偶然のサイコロの動きにほんの少しでも自分の著作が関係することをローティは期待しているのであろうか? それとも各人の私的な自律にささやかにかかわることだけを期待しているのであろうか? 自律した個人が公的なことに私的な自律の延長でかかわることによる危害を防ぐことには寄与できると考えているのであろうか? 
 なんだか分らなくなってきたが、ローティは最終章の「連帯」でみずからその絵解きをしているので、次回にその辺りを考えていく。