G・スタイナー「マルティン・ハイデガー」
岩波現代文庫 2000年9月
ポストモダン関係の本を読んでいると、ハイデガーは逸することのできない名前であることがわかる。それで以前読んだこの本を引っ張り出してきて読み直してみた。ハイデガーの本を読んでも少しもわからない(というか読む気がしない)が、この本はなんとなくわかるような気がする。それは著者のスタイナーが哲学者ではなく、文芸批評家であるからなのだと思う。わたくしは哲学者の書く本というのが苦手なのである。あるいは哲学書の著述スタイルが苦手なのかもしれない。
最初に「ハイデガー 一九九一年」という文が付されているが、これは1978年に出版された著書にあとから付されたものである。ここの部分が一番理解しやすい。
スタイナーは、ハイデガーは当初(キリスト教)神学者として出発したという。
究極の問いを問おうとするハイデガーの決意、真摯な人間の思索はあくまでも「最初にして最後の物事」にこだわらねばならないという、彼がけっして譲ったことのない、また譲ることのありえない要請(ヒュームやフレーゲの哲学世界との対立がもっとも厳しく現われてくるのは、この点においてである)は、宗教的‐神学的な価値の領域にその端緒と正当化の根拠をもつのだ。
しかし、それにもかかわらず、「存在と時間」を書いている間に、神学から存在論への転向がおきたのだと、スタイナーはいう。そしてその転向以後、ハイデガーは「超越」への呵責のない批判者となる、という。ハイデガーは単なる形而上学の克服を目指したのではなく、(西洋の形而上学の中につねに透けてみえる)神学の克服をも目指したのだという。ハイデガーによれば西欧における不可知論と無神論の極北のようにみえるニーチェにおいてさえ、神学の亡霊が見えるというのである。したがってスタイナーが問うのは、ハイデガーは神学を克服したのか、ということである。
数学や記号論理学は超越的なものがでてこない場面において有効な言語である。しかし、とスタイナーはいう。
われわれ(西欧人)がヘブライ的源泉とギリシャ的源泉から相続し、西洋においてプラトン的非物質性とユダヤ‐キリスト教的超越主義との消しがたい刻印を捺されてきた自然言語は、その超‐自然的な使用域と内包と潜在的合意とから納得のゆくほど十分の浄化されることはありえないのだ。聖書と『パイドロス』のあとで、聖アウグスティヌスとダンテのあとで、カントとドストエフスキーのあとで語ることは、超越的に語ることである。
そこで、神学の克服を目指してハイデガーがしようとしたことは、西洋の言語自体を作り直そうという壮大な試みなのであったという。そして、それは失敗したのであり、その結果、ハイデガーは言葉を棄てた、と。ヘルダーリンの頌歌やゴッホの絵画にハイデガーは〈存在〉を見るようになるのだが、それは〈存在〉が言葉では表せないものだからなのである。モーゼの神の「我は我があるところのものである」という自己定義が、自分の〈存在〉の定義と同じであるという批判をハイデガーは終生激しく拒否したが、それにもかかわらず、彼の〈存在〉はほどんどの場合、〈神〉と置き換え可能なのである、つまりハイデガーは神学を克服できなかったのだ、とスタイナーはいう。
とりあえず、ここまでのところをみただけでも、西欧思想における根本的な問題が提出されていることがわかる。数学と記号論理学は人間の理性があつかう言葉であり、現代でいえば端的に科学の領域の言語である。それは自然言語ではなく、きわめて人工的な言語である。われわれが理性の範囲で、科学の範囲で語ろうとすれば、そのような人工的な言語を用いざるをえない。しかし、一旦、自然言語を用いてしまえば、それは歴史を負った言語であるのだから、そこにいやおうなしに超越的なものが紛れ込んできてしまう。とすると、われわれは自然言語を使いながら合理主義を貫徹することができるのか、そもそも合理主義ということ自体が矛盾を孕んでいるのではないか、そういう問題がでてくる。
また一方では、日本語の場合にはどうなのだろうかという問題もある。日本には、聖書も『パイドロス』も、聖アウグスティヌスもダンテも、カントもドストエフスキーもいなかった。それらはすべて(聖書以外は?)明治以降に輸入された。とすると日本語の自然言語で語ることは超越的なものを呼び込むことがないのだろうか? そもそも日本語の自然言語とは何なのだろうか(というようなことを考えていると本居宣長にいってしまうのだろうか? 唐ごころ?とか)。よくは知らないけれども、(大乗)仏教の研究においては膨大な観念論の蓄積があったのであろう(阿頼耶識がどうこうとか)。しかし、それは認識論の範疇であって超越的なものとは必ずしも結びつかないようにも思える。そうであるとすれば、日本で合理的に考えようとすることは、西欧においてそれを試みる場合よりもずっと有利な地点にいるということはないのだろうか? それであるのに、超越的な思考を呼びよせざるを得ない自然言語使用という環境の中でこそ意味をもつ思考を、われわれがわざわざ学ぶことにどれだけの意味があるのだろうか? そういうものには無理に近づかないほうが賢明なのではないか? それもまた、十分に考慮にいれなければいけないことであるように思う。ハイデガーは西洋の言語の中で生きるスタイナーにとっては避けて通れない存在であるのだとしても、われわれにとってもまた、避けて通れない存在なのだろうか?ということである。日本語には be動詞(sein動詞)はない。
ここでは、ハイデガーの哲学はヒュームのそれと対比されている。ハイデガーは形而上学を拒否しようとしたのであるとしても、それにもかかわらずドイツ観念論の流れの上にあるのであり、イギリスの経験論とは対峙するものなのである。ハイデガーからみればイギリス経験論などは頽落であり、存在忘却そのものということになるのであろう。
もう少し先をみていく。
数学的、記号論理学な言語ではない思考をめざすハイデガーがする著述がわれわれに持つ意味というのは、立派な詩が少しづつ分るようになること、もっといえば音楽の意味を把握し、わがものとしていくことに通じるのだと、スタイナーはいう。
もっとも後のほうでスタイナーは、ハイデガーは音楽のことをほとんど論じていないことを指摘して、それをハイデガーの欠点としている。音楽は意味は明白であるが、他のコードには翻訳できない点で、ハイデガーの哲学の例としてもっともふさわしいものであるはずなのだからと。
本書の中ほどで、スタイナーは音楽について考察している。音楽の存在はどこにあるのか? 音程か?音色か? それらの間の動的な関係か? 弦楽器や管楽器から耳に伝えられる振動にあるのか? それとも音符にあるのか? われわれは音楽が何であるかを知っている。音楽とは何ですか?と聞かれたら、演奏して、これが音楽です、というだろう。しかし、それは何を意味するのか、と聞かれたら? やはりもう一度演奏してみるしかない。
音楽では存在と意味を切り離すことができなくて、パラフレーズすることができない。われわれは音楽の存在を当たり前だと思っているが、それはハイデガーがいうようにわれわれが〈存在〉を当たり前と思っているのと同じである。われわれは驚くことを忘れている。
最近、茂木健一郎と江村哲二の対談「音楽を「考える」」(ちくまプリマー新書)を読んで、作曲家の江村氏が断定的に、(西洋音楽においては)音楽とは楽譜のことであるといっているのが印象に残った。音楽は作曲家の頭の中にあるのではなく、演奏にあるのでもなく、空間に響いている音響にあるのでもなく、われわれの鼓膜の振動にあるのでもなく、われわれの脳の中で構成される何かにあるのでもなく、楽譜にあるのだと。おそらくハイデガーはそのような見方をとらないだろうと思う。音楽が楽譜という客観的で物理的な存在の中にあるという見方を排斥するだろうと思う。
われわれの多くは、楽譜を見てもそこに音楽を聴くことはできない。オーケストラのスコアを見て、そこから音楽を聴ける人はごく少数であろう。だから実際には演奏家が必要となるのであるが、それでも音楽は楽譜の中にあるということは、音楽を数学的、記号論理学な言語で記述できると主張することである。実際、五線譜というのは極めて数学的な記述法である。よく知れれているように、楽譜をそのままコンピュータに打ち込んでも、まったく音楽にはならない。だから実際には楽譜は音楽ではないのだが、それでも音楽とは楽譜であるとするのは、一つの西欧思考の典型なのであろう。そして、ハイデガーはそういう西欧の思考の異を唱えるのである。
ハイデガーは従来の意味での哲学者ではなくて、合理主義的な言語と「何か別なもの」の間の影の領域で仕事をしたのであり、そこに日なたの明晰さを求めても無理なのだ、とスタイナーは言っている。
ハイデガーは、形而上学と科学的な見方というほとんど西洋の定義に等しい見方が、現在の西欧における技術的・大量消費的人間の疎外された、宿無しの、野蛮回帰の状態を引き起こしているのだとする。ハイデガーによれば、哲学とは「存在者の存在の呼びかけに関わる限りにおいて発せられる明確な呼応・応答」のことである。ハイデガーは、人間存在と言語のあいだに暗々裡の平行関係を認める。われわれは存在の声をただ聴く。聴き取る。存在をつかみとったり利用したりはしない。そして、存在の声をもっともよく聴き取る人が思想家と詩人なのである。
客観的な観照、論理的分析、科学的分類といったものが西洋人の知性を根扱ぎにしてきたと、ハイデガーはいう。西洋の哲学においては「考えること」が「見ること」「観察すること」になってしまった。そうなれば、そこからは時間が消えてしまう。時間は見えないから。また西洋哲学は人間の本質を日常生活の外でとらえようとした。そこには時間が流れないし、大地に根づいてもいない。
ハイデガーは「本来的なもの」と「非本来的なもの」を厳格に区別する。非本来的な生き方というのは、ほとんど生きていないに等しい。それが持つものは「心配」と「恐れ」だけである。それは世俗的である。本来的に生きているものが持つのが「不安」である。それは発見的である。しかし、そのような「非本来性」「頽落」は「本来性」へ向かうための絶対条件である、とハイデガーはする。その点を、スタイナーは、ほとんど「幸福なる罪過」という聖書的な説教とパラレルであると批評する。
反商業的自由主義で、昔の収穫刈入れに従事した人を渇望するといったハイデガーの主張は、そのままD・H・ロレンスにつながるものであり、ルーツをたどればルソーまでさかのぼれるものである。それは、政治的には必然的に反動的となるものとなると、スタイナーはいう。
それにもかかわらず、ハイデガーの著作の影響がきわめて広範囲に及んだということは、彼の主張が現代の問題の根幹をついていたからである、とスタイナーはいう。
誰にもみてとれるサルトルやカミュへの直接的影響はいうまでもないが、カソリック、プロテスタント双方の神学へも絶大な影響を与え、精神分析学(ボス、ビンスワンガー、ラカンら)にも、またデリダを通じてフランス文学にも大きな影響をあたえた。ツェランらの詩人への影響もまた絶大である。
ハイデガーは、ポパー的な論理的・分析的・客観的・実証的な行きかたが、西洋の人間を個人的疎外と集団的野蛮へと導いたという。だが、そういうハイデガーの見解は、神的なものの超越的一者性を分析的に解剖して解体することを厳然として拒否するという、旧約聖書からカントにいたる神学的な伝統的思考法そのものであると、スタイナーは批判する。それは神学以後の神学であり、マルクスのメシア主義的救済プログラムや、フロイトのストア的ペシミズムにも見られる神学からの遺産としてのメタファーにつながるものである。
ニーチェの主張が神学以後の神学であるのと同じに、深く神学の伝統のもとにあることを(ハイデガーがいくらそうではないと主張しているとしても)認めざるを得ないとスタイナーはいう。同時に、そうではあっても、ハイデガーは大思想家のみがなしえる創造的な刺激をわれわれに残したことも間違いことをスタイナーは認めるのであるが。
吉田健一の「ヨオロツパの世紀末」に、「我々にとつて重要なのはギボンにキリスト教といふものが一種の狂気にしか見えなかつたことである」という文がある。わたくしにはハイデガーの言っていることは一種の狂気にしか見えないが、ヨーロッパはそのような狂気をもふくんだ上でヨーロッパであるということなのであろう。そして日本はそのような狂気と無縁で来ることができたという幸運の星のもとにあるのであるから、狂気を今さら輸入することはないではないか、と思う。また「ヨオロツパの世紀末」では「ヒュウムは、数学と存在がそれぞれ違つた世界のものであることを苦に」しなかったとある。ハイデガーは「数学と存在がそれぞれ違つた世界のものであること」をヨーロッパの病根としたわけである。
客観的な観照、論理的分析、科学的分類といったもの、総じていえば理性による判断の一つの典型としてヴァレリーを挙げることができるのではないかと思う。「ヨオロツパの世紀末」にはまた「それで話が簡単になり、ヴァレリーがヨオロツパである」というとんでもない断定もある。ヴァレリーのちょうど反対にいたのがD・H・ロレンスなのであろう。そしてヴァレリーもロレンスも詩人であった。
どういうわけか本書を読んでいるうちに、中原中也の詩の断片がいくつか浮かんできた。「和める心には一挙にして分る」とか、「あゝ、吾等怯懦のために長き間、いとも長き間 徒なることにかゝらひて、涕くことを忘れてゐたりしよ、げに忘れゐたりしよ・・」とか。それから小林秀雄とハイデガーとかいうことも考えた。小林秀雄の非論理的文章!
わたしが最初にいかれた思想家が福田恆存であり、福田のかつぐ神輿がD・H・ロレンスであった。福田も属していた「鉢の木会」のメンバーに三島由紀夫がいて吉田健一がいた。それで三島や吉田健一を読むようになり、最終的には吉田健一信者となって今日に至っている。福田恆存と吉田健一では最後にたどりついた場所は全然異なっているが、出発点としてヨーロッパがある時期にむかえていた危機という共通の認識があり、それにどう対処していくかという方法論において、その後の道が異なってきたということなのであろう。ハイデガーもロレンスもそしてヴァレリーもみなヨーロッパの危機という認識では一致している。
本書の冒頭で、「存在と時間」はこの時期のドイツで分量と様式の極端さにおいて書物以上の書物というべきものがいくつか書かれたその中の一つなのだということがいわれいる。挙げられているその他の書物というのは、ブロッホの「ユートビアの精神」、シュペングラーの「西洋の没落」、バルトの「ローマ人への手紙」注解、ローゼンツヴイクの「救済の星」、そしてヒトラーの「わが闘争」である。それらはすべてヨーロッパ1918年の危機への対応として書かれたのだという。
そして危機の意識がメシア的救済というイメージを呼び出してしまうのが、ヨーロッパに骨がらみになっているキリスト教の根深さなのであろう。「ヨオロツパの世紀末」で吉田健一は、「おそらく凡ての神の名に値するものはその存在を知つてそれを信じる必要がないもので」などと、これまたとんでもないことをいっている。それができればメシア的救済などの出番はないのであるが、何かの導きにより世界が一挙に変わることへの希求は、容易なことでは西欧から消えることがないのかもしれない。スタイナーがハイデガーを神学的と批判するのはその点である。そして、そういうスタイナーにしても、神学という尻尾がまだ残っているからこそハイデガーを否定しきれないのである。
それで疑問。ポストモダン思想もまた、神学を否定する神学の系譜なのであろうか?
- 作者: ジョージスタイナー,George Steiner,生松敬三
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