國分功一郎「暇と退屈の倫理学」(3)

 
 第5章の「暇と退屈の哲学」は、國分氏が退屈論の最高峰だというハイデガーの退屈論が論じられる(國分氏はハイデッガーと記しているが、ハイデガーという表記になれてしまっているので、以下もハイデガーで通すことにする)。世に退屈論というのがどのくらいあるのか知らないが、ハイデガーの「形而上学の根本問題」が最高峰がというのが世間一般での評価なのか、國分氏一人の評価なのかはわからない。
 わたくしは例によってハイデガーも読んでいない。木田元氏の論を少し読んだのと、スタイナーによる入門書を読んだくらいである。だから國分氏の論を理解できている自信はまったくないが、氏の紹介によるハイデガーの退屈論というのがピンとこなかった。最初は氏の議論をまとめてから考えてみようかと思ったのだが面倒になったので、國分氏によるまとめをそのまま引用してみる。
 ハイデガーが述べていることを本書の文脈で翻訳すると次のようになるとして、「人間の大脳は高度に発達してきた。その優れた能力は遊動生活において思う存分に発揮されていた。しかし、定住によって新しいものとの出会いが制限され、探索能力を絶えず活用する必要がなくなってくると、その能力が余ってしまう。この能力の余りこそは、文明の高度の発展をもたらした。が、それと同時に退屈の可能性を与えた」というのがその前半である。これはどうみても國分氏の論のまとめであって、ハイデガーの論ではない。続いて「退屈するというのは人間の能力が高度に発達してきたことのしるしである。これは人間の能力そのものであるのだから、決して振り払うことはできない。したがってパスカルが言っていた通り、人間はけっして部屋に一人でじっとしていられない。これは人間が辛抱強くないとかそういうことではない。能力の余りがあるのだから、どうしようもない。どうしても「なんとなく退屈だ」という声を耳にしてしまう。」 ここも最後の「なんとなく退屈だ」というのがハイデガーの言葉であることを除けば、論は國分氏のものであり、ハイデガーのものではない。さらに「人間はなんとかしてこの声を遠ざけようとする。わざわざ命を危険にさらすために軍職を買って戦場に赴いたり、狩りや賭け事に興じる。だが、そうした逃避も退屈の可能性そのものに対しては最終的には無力である。人間の奥底からは「なんとなく退屈だ」という声が響いてくる。」 これもまた「なんとなく退屈だ」を除けば國分氏のものである。
 「なんとなく退屈だ」というのはとても素っ気ない表現で、なんでこれが大哲学者であるハイデガーからわざわざ教えられなくてはいけないことなのかは、以上の引用だけからは理解されないと思う。國分氏の論述にあたっていただくしかないが、おそらくそれを読んでもなおピンとこないのではないかと思う。ハイデガー自身の著にあたるしかにのかもしれない。
 とにかく、この「なんとなく退屈だ」ということのなかで、人間は自分の可能性を示される。そうハイデガーはいっているのだそうである。その可能性とは? 驚くことには、それは「自由だ」ということなのだそうである。「退屈という気分が私たちに告げ知らせていたのは、私たちが自由であるという事実そのものである」ということがいわれる。なんだか呆然としてしまう。「私たちは退屈する。自由であるが故に退屈する。退屈するということは自由であるということだ」ということなのだそうである。まだ続く。「この段階では自由は可能性にとどまっている。人間が自由であるという可能性が示されているだけである。ではそれをどう実現するか?」 その答えは、「決断することによってだ」という。????。「退屈はお前に自由を教えている。だから、決断せよ ― これがハイデガーの退屈論の結論である」ということになる。
 ここら辺を読んでいて、若い頃読んだ実存主義の解説書のようなものを想起した。そこでは「神は死んだのだから、人間は目的をもって生まれてきてはいない。人間は世界にただ投げ出されている。われわれの生に意味はあたえられていない。意味をつくるのはわれわれの行動である。われわれは何かに賭けて、飛ばなければならない」というようなことがいわれていたいたように記憶している。そういうことを「投棄する」とかいう難しい言葉でいっていたのではなかっただろうか。ハイデガーの原著を読めば違うのかもしれないが、ここでの國分氏の紹介だけでは、実存主義入門書のまた入門というような感じが否めない。
 國分氏はこのハイデガーの結論はどうも腑に落ちないという。それを受け入れることはできないという。そもそも人間だけが退屈するのか? ハイデガーはそう考えているのだが・・として、今度はいきなりユクスキュルの「環世界」のほうに話がとぶ。生物学である。どうもこの本はいきなり話が全然違うところに飛ぶことが多い。それで、延々とダニの世界の話が続く。そして、ハイデガーは人間が特別だという信念を抱いていることを國分氏は指摘する。動物は「環世界」にとらわれているが、人間はとらわれていないとハイデガーはするが、それは人間が他の動物とはまったく違っているということを主張したいハイデガーの無理による、そう國分氏は主張する。
 しかし、國分氏は人間と人間以外の動物が変わりがないとするわけではない。相対的には違いがあるとする。「環世界」の間の移動能力において人間は他の動物とは比較にならないくらいの多様性と融通性を持つだけだという。「環世界」というのはユクスキュルの「生物から見た世界」を読まないと理解しづらい概念であるが、たとえば動くものしか認識できない動物、超音波で世界を認識する動物、酪酸のにおいと摂氏37度の温度と体毛の乏しい皮膚組織という3つで世界が成り立っているダニでは、その世界がまったく違うということであり、その生物が外界を認識する手段としてどのようなものをもっているかによって、その生物にとっての世界すなわち環世界は、他の動物の環世界とはまったく異なっているというようなことである。「コウモリであるとはどのようなことか」はわれわれには理解できない。そのことをカントは「われわれは物自体には達することができない」といったのだろうか?
 このユクスキュルの本が衝撃的であるのは、われわれが抱いている「世界は客観的に存在している」という見方に根源的な揺さぶりをかけてくるからである。どのくらい前だか忘れてしまったが、本書を最初に読んだときの衝撃はいまだにありありと思い出せる。國分氏の見解とは違って本書は人間は人間以外の動物と基本的に何も変わらないというほうに強く傾いているのだと思う。ダニの世界があって、人間の世界がある。われわれはきわめて弱い嗅覚しかもたず、ヒゲは知覚にほとんどなんの役にも立っていない。しかし嗅覚で世界とかかわっている動物も多いわけだし、ヒゲで世界を探る動物もいるわけである。ヤコブソン器官は人間では痕跡となっているが、それが大きな役割をもつ動物もいるわけだし、人間でも第六感はそれが司っているというひともいるようである。
 スタイナーは「マルティン・ハイデガー」のなかで、ハイデガーは「私は一個の神学者なのだ」といっていたことを紹介している。「私を創造的な哲学者の基準で計らないでくれたまえ。・・私は一個のキリスト教神学者なのだから」とカール・レーヴィットに書いているのだそうである。スタイナーは「究極の問いを問おうとするハイデガーの決意、真摯な人間の思索はあくまでも「最初にして最後の事物」にこだわらねばならないという、彼がけっして譲ったことのない、また譲ることのありえない要請(ヒュームやフレーゲの哲学的世界との対立がもっとも厳しく現れてくるのは、この点においてである)は、宗教的−神学的な価値の領域にその端緒と正当性の根拠をもつのだ」としている。
 わたくしはヒュームの側の人間であると思うので(そしてフレーゲは読んでいないが、おそらくフレーゲの弟子であるポパーに帰依しているので)、ハイデガーが読めないのだと思う。もしもハイデガーキリスト教神学者なのであるとすれば、人間が人間以外の動物とは根源的に違うとするのはきわめて当然のことであるわけで、そこが崩れたらキリスト教神学は成立しなくなる。
 人間が人間以外の動物とは根源的に異なるとする見方はキリスト教に深く浸潤された西欧文明の宿痾でありアキレス腱でもあるわけで、明治になるまでそういう見方と関わらずにいたわれわれはそんなものに知らん顔をしていればいいわけであるが、明治維新は西欧まるごとの受容のようなものであったわけだから、そうもいかなかった。薄まったキリスト教のようなものがわれわれの常識のようになっている。
 だから國分氏は、ハイデガーのように人間と人間以外の動物が画然と異なるとすることを受け入れることはできないが、そうかといって人間は人間以外の動物となんら異ならないとすることも受け入れることができない。國分氏もまた「究極の問い」にこだわる。人間というものは何か? 人間が人間らしく生きるとはどういうことか? しかし、犬というものは何か? 犬が犬らしく生きるとはどういうことか? と問うことは滑稽である。この問い自体が人間が人間以外の動物とはまったくことなるということを前提としてしまっている。
 ここで、とりあえずわたくしが考える退屈ということを少し書いてみることにしたい。退屈とは「自分がいましていることは、本来自分がするべきこととは違っている」という意識のことではないだろうか? ハイデガーのあげる第一の退屈、駅で電車を待っているがなかなかこないという例は、本来自分のするべきことは電車に乗ってどこかにいくことであるのに、それができていないということである。では電車が来たら退屈でなくなるのか? そんなことはないわけで、電車に乗るのはどこかにいくためで、どこかに着くまでの電車のなかはまた退屈なのである。
 退屈というのは「現在にいない」ということである。自分の今は未来の何かのための過程であって、今自体は意味をもっていないという感覚、それが退屈なのではないだろうか? ハイデガーのいう第二の退屈、夕方、招待され、時間が空いていたので参加したパーティ、食事はおいしく、会話は楽しく、退屈なものは何もなかった。しかし家に帰ると今晩は本当は退屈だったのではと感じるというもの、これにしても、本当は別のことをするべきであったのにしなかったという感覚なのではないだろうか?
 動物は現在にいる。しかし人間はしばしば過去や未来にいて、現在にいない。もしもそれが人間の不幸であるとすれば、人間が幸福を取り戻すためには、人間が動物に戻ることがまず要求される。人間が現在にいないのは、人間が過去にいたり、未来にいることのほうが圧倒的に多いからである。
 もしもひとが仕事に打ち込んでいるなら、そのひとは現在にいる。我を忘れているひとは現在にいる。しかし仕事が食べるための手段であるとしたら、そのひとは仕事をしていても、現在にはいない。
 ハイデガーのいう第三の退屈、何となく退屈だ、というのも、今に打ち込めていない、というだけのことではないだろうか? そしてハイデガーのいう「われわれは自由である。だから決断せよ!」というのも、「現在に生きるようにせよ!」というだけのことではないかと思う。
 わたくしが本書に感じる疑問の一つが、國分氏は「退屈」を人間全体にあたえられた運命のように論じているが、本当にそうなのだろうかということである。「退屈」は「知識人の病」なのではないだろうか? そして近代というのは多くの人間が「プチ知識人」になってしまった時代なのではないだろうか? スノッブというのは貴族にあこがれるひとであると同時に知識人にもあこがれるひとで、知識人の多くは貴族ではないのだから、退屈している、それにまたスノッブがあこがれる。
 わたくしがこんなことを書いているとき頭にあるのは、D・H・ロレンスの「無意識の幻想」に付せられた訳者小川和夫氏による「あとがき」である。「オルダス・ハクスレイがD・H・ロレンスを回想して書いていることであるが、「チャタレイ夫人の恋人」の作者が持っていた大きな人間的な魅力のひとつは、彼がけっして退屈することがなく、したがってその時いっしょにいる相手の人間をも退屈させることがなかった点にあった。ロレンスは、その瞬間に自分がやっている仕事に何によらず没頭することができた。どんな仕事でも、つまらないと感じるとか、ていねいにする値打ちがないと思うようなことは、けっしてなかったのだ。・・ロレンスは、彼のように高度の理知をもった人間としては珍しいひとつの才能をべつにそなえていた。つまり、無為にすごすすべを心得ていたのである。彼は座っているだけで、完全に満足していることができた。そしてその満足は、彼といっしょにいるあいだに、相手にも伝染するのだった。」 小川氏は、このようなロレンスの特質は現代のインテリゲンチャとしては、珍しいほとんど類い稀な才能といっていいだろうという。ハクスレイはそのような才能を欠いていただろうし、自分もまたそれを欠いていることを認める。そのような才は現代の知識階級から失われており、田舎の百姓とか、都会人でも職人などのなかに辛うじて保たれているものなのだという。われわれは、なにかほかに本当の生活があるのであり、いまやっている仕事はかりそめの営みにすぎないと考えながら手を動かしているのだという。そして晩年の詩集「三色菫」から「仕事」という詩の一部を引く。「ひとを夢中にさせる遊戯のように/ 仕事がきみを夢中にさせないならば/ 仕事をしたってなにもならない。/・・/ひとが仕事に入りこむとき/ 彼は生きている、春の木のように、/ 彼は生きているのだ、単に仕事をしているのでなく。」 上で述べたわたくしの退屈観というのもなんということはない、ここでの小川氏の受け売りである。なんでわたくしがこの小川氏の解説を覚えているのかといえば、それを読んだときにとても衝撃的だったからである。これは自分の問題だと思ったからである。そして何でロレンスの「無意識の幻想」などという変な本を読んだのかといえば、若い時に福田恆存にいかれたことがあるからで、その福田氏の御輿がロレンスであったからである。
 私見によれば、吉田健一は「無為にすごすすべ」を意思して取り戻そう、回復させようとしたひとだったのだと思う。その試みがうまくいったのかどうかはわからない。とにかく氏はこのように書く。「時をたたせる為に」のなかの「無為」という文である。「余暇といふこともこれは何もすることがない時に何もしないでゐる期間を指すものではなくて余暇を楽むといふのがさういふ際に何かすることを見付けて時を過すこと、競技に熱を上げたり遊びごとに夢中になつたりすることなのである。本当はこの逆だつた筈なので時間がただそれだけで充実してゐるのに何かしなければならないのが億劫であるからこそ人間なのである。」

 話がずれてしまったかもしれない。まだ第7章の途中なのであるが、話がコジェーヴの「歴史の終わり、人間の終わり」のほうに移っていくので、稿ををあらためる。わたしはコジェーヴの「ヘーゲル読解入門」はほとんど読んでいないが、それに依拠したF・フクヤマの「歴史の終わり」は、昔、とてもおもしろがって読んだ記憶がある。それを思い出して國分氏の論をみていきたい。

暇と退屈の倫理学

暇と退屈の倫理学

生物から見た世界 (岩波文庫)

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マルティン・ハイデガー (岩波現代文庫)

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無意識の幻想 (1966年) (南雲堂不死鳥選書・別巻)

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時をたたせる為に (1976年)

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