3.ハイデガーにおける動物の問題

 今回は「想像界と動物的回路―形式化のデリダ的諸問題」(p139〜163)の前半の「ハイデガーにおける動物の問題」をとりあげる(後半はラカンを論じる)。前項で、東氏は浅田彰氏は柄谷行人氏ら日本人ばかりを相手にしているなどと書いたが、ごめんさないであって、ここではハイデガーを論じている。そしてさらにごめんさないであるのは、わたくしはハイデガーをほとんど読んでいない。というか読めない。
 さて、その序(p137)で東氏は、「動物化するポストモダン」では「動物」概念をもっぱらコジューヴに依拠して論じているが、実は「動物」という言葉にはじめて着目したのが、デリダによるハイデガーの「動物」概念批判であったであったといっている。
 わたくしのハイデガーについてのわずかなイメージは、そのほとんどをアーレントの著書からの間接的な印象によっている。そのイメージは sein 動詞の哲学とでもいうものであって、欧語において sein 動詞、be 動詞が存在していることがその哲学を支えているように思う。だからそれは、be 動詞が存在しない日本語に翻訳することは不可能なのではないかと思っている。To be or not to be というのが翻訳不可能であるように。アーレントを読んでいると古代ギリシャ人がほんの昨日の人間であるように書かれており、ヨーロッパというものが言葉によって結ばれた緊密な統一体となっていることが、彼らにとっては文字通りの実感なのであろうことがわかる。だから sein 動詞に相当するものがない言語を話す人間などは文字通りのバルバロイなのであろうと思う。
 それでここで論じられるのは、動物は言葉を話さないのだから、石に近いのか人間に近いのかという問題である。ハイデガーによれば、「石は世界がない」にの対して「人間は世界を形成する」ということになるのだそうであるが、一方、「動物は世界が貧しい」とされる。この「動物は世界が貧しい」によってハイデガーがいったん拒否した「人間中心主義」が復活してしまい、それがハイデガーがナチに加担することにもつながっていったというような論旨で話は進む。つまり、こういう動物観では、人間のほうが人間以外の動物よりも上であるという方向が見えてきてしまう、というわけである。
 しかし、人間以外の動物は言葉を介さずに直接に世界を認識できるが故に人間よりも優れているという見方もまたなりたつだとろうとわたくしは思う。人間は言葉というものを発明してしまったがために世界を間接的にしか見ることができなくなっているではあるが、それでも言葉は、世界を直に認識できなくさせるという欠点を補ってあまりある利点を人間にもたらしているのであるから、われわれはそれに自足するしかないという見方である。人間を人間以外の動物よりも上に置くというのが(キリスト教のもたらした)西洋思想の悪の根源ではないかとわたくしは思っている(キリスト教の教会では動物の葬儀は絶対にしないのだそうである。動物は魂をもたないから。一方、お寺さんでは動物の葬儀もしてくれる。なにしろ輪廻の世界であるから、人間と人間以外の動物に差があるはずがない。釈迦の涅槃図ではたくさんの動物たちが集まってきている)。
 わたくしは「動物化するポストモダン」を読んで「動物化」というのが、否定・肯定半々の微妙なニュアンスで使われているように思ったのだが、この文章を読んでいる限りではそうもいえないように思えてきた。「動物化」というのはヘーゲル的な「つねに与えられた環境を否定することが人間的なのである」という像を否定し、現状に自足することを悪とは捉えないという肯定的な側面もある使われ方であると思ったのだが。
 「動物化するポストモダン」で、東氏は、動物は欲求をもつが、人間は欲望を持つということをいう。人間の欲望は他者を必要とするのであり、その他者への欲望が人間関係を作り、社会を作るのだという。だから人間が動物にもどれば人と人のコミュニケーションが途絶えてしまう、という。しかし、このあたりの叙述はいかにも図式的だという気がする。無駄話によるコミュニケーションということもあるのではないだろうか? 難しくいえば社交だろうか? 食うか食われるか、支配か被支配か、といった関係ではなく、人と人のただのつきあいという関係もまたあるのではないだろうか? それはサルの毛繕ろいよりも高級というわけではないが、さりとて低級でもないのだと思う。それでいいのではないだろうか?