千葉雅也 「現代思想入門」(5) フーコー

 わたくしがフーコーというと想起するのは「パノプティコン」である。われわれはソフトな監視システムによって管理されているというようなことだったのかなと思っている。学校・軍隊・病院・家族などの近代の様々な制度はみなそうで、支配者が不可視化されていくのが特徴である、と。
 こういうのを読むと、イリイチの「脱病院化社会」などという本があったことを思い出す。1998年に翻訳された本である。どうも重要な本は20世紀にでている気がする。21世紀の思想は小粒になっている。
 キリスト教社会では自分の内心をどうするかという問題が昔からあったと千葉氏はいうのだが、そんなことを言えば、仏教では輪廻転生を離れて自分の人生を取り戻すということが根本にあると思うし(橋本治さんは「宗教なんかこわくない」(1995年)で「ゴーダマ・ブッダの開いた悟りの根本は、「我思う、ゆえに我あり」なのである」なんてとんでもないことをいっている)、「生政治」(これは生はバイオらしいので「なまで剥き出しの政治」ではなく「生物学的政治」のことらしい)なんて言葉も出てくる。即物的な政治(内面にかかわらない)のことを指すらしい。今のコロナ対策のワクチン接種もその例として例示されている。
 それは生物としてだけの方向から人間をみている、心とか意識のことは無視されるのだ、と。
 喫煙の問題も例としてとりあげられている。喫煙に反対するひとも「喫煙して健康を害するのは個人の勝手、自己責任」という議論には配慮はしている。だからこそ間接喫煙が問題とされる。自分が死ぬのは勝手だが、周りに迷惑をかけるな!と。

 生政治などという言葉がでてくると、そこでは数値化できるものがすべてにならざるを得ないので、最近の風潮は「ひたすら長生き」である。
 ここで書かれている「人間の再動物化」というのもよく理解できなかった。再動物化すると社会がクリーンになるなどということがあるだろうか?
 フーコーは「個人」というのは「歴史の産物」としたのだという。103ページに「キリスト教的な反省性」という言葉が出てくるが、世界にはキリスト教圏から外れた国はたくさんあるはずで、例えば日本はキリスト教圏なのだろうか? わたくしはそうは思わないが、広い意味で西欧の思想が普及した国をキリスト教圏といっているのだろうか?
 どうも千葉氏が考える世界とはフランスのことなのではないかという疑念が消えない。
フーコーの「自己への配慮」という言葉が紹介され、これは本来はギリシャ・ローマの人々の生き方だったが、キリスト教が「罪の意識」を持ち込むとそこから「個人」という不幸がうまれてきた、そうフーコーはしたという。
 そんなことを言えば、D・H・ロレンスだって、反プロテスタントだった。反カトリックであったかどうかは微妙だが。

 フーコーはヨーロッパの人だからキリスト教の問題は切実な問題だろうが、日本人が、「あなたは罪人である!」などといわれてもキョトンのキョンである。とすれば日本人は「古代的」なのだろうか?
 
 どうもこの本を読んでいると「あなたは自覚してだいないだろうが、あなたは本当は不幸な人なのだ!」という色調が色濃く感じられ、「余計なお世話だ」と返したくなるところがある。

 千葉氏は読者に、あなたのことはあなたよりわたしのほうがよくわかっているといいたげなところがあって、ちょっとそれはどうなの?と感じる。
 千葉氏はヨーロッパ20世紀の思想に深く傾倒しているので、スランスあるいは西欧の社会がすべての思考の前提になっていて、現実の日本の社会の独自性というのが無視されるところが散見されるように思う。

 ここまでで前半が終わり。次に、ニーチェフロイトマルクスが「現代思想の源流」として論じられるので、稿をあらためる。