今日入手した本

語りえぬものを語る

語りえぬものを語る

 この著者の書いたものは今まで読んだことはない。科学哲学についての記事を読んでいるときに時々目にしていたような記憶がある。
 本屋で手にとって、相対主義の問題とか、寛容の問題とか(寛容は不寛容を寛容するか?)、ヒュームの懐疑論だとか、分節化だとか、ウィトゲンシュタインの「ザラザラした大地」だとか(これをわたくしは清水幾太郎氏の「倫理学ノート」で知った)、何となくわたくしが関心があることを論じているようであったので買ってきた。
 ざっと目を通しての印象は「哲学だなあ」というものである。議論がすぐに言葉の問題に帰っていく。一番わからないのが、こういう議論がわれわれの日々の生活とどのような関係があるのかということである。議論が哲学の中で閉じてしまっているように思う。
 この題名はいうまでもなくウィトゲンシュタインからきているわけであるが、わたくしはウィトゲンシュタインがよくわからない。わたくしがある程度まとまって読んだ哲学の本はポパーのものだけ(哲学業界の中ではポパーは哲学者であるとは思われていないであろうが)であり、ポパーウィトゲンシュタインを批判しているので、わたくしのウィトゲンシュタイン理解は色眼鏡を通している。ポパーが「言葉の問題にかかわってはいけない、大事なのは事実の問題だ」というはウィトゲンシュタイン批判でもあるのだろうが、この本を見ても言葉の意味にかかわっていくと泥沼なのだなあ、と感じる。
 この本は猫は後悔するか、というところからはじまる。その議論自体は面白くないこともないのだが、なぜ猫は後悔するかということが問題になるのかということ抜きに議論がはじまるので、この議論の位置づけがみえない。議論は猫は後悔しない(できない)、なぜなら猫は言語をもたないからという方向に進んでいくのだが、こういう議論からは当然、言語が問題の中心にならざるをえない。
 人間以外の動物はつねに現在にいる。人間だけが現在にいることが極めてまれで、ほとんどの時間、過去や未来を漂っている。わたくしは、言語がわれわれから奪ってしまった現在をどのようにとりもどしていくかということが、人間と人間以外の動物の違いを考える上で一番大事なところなのではないかと思っているので、言語の問題にいってしまうと、その一番大事なところが視野から消えてしまうのではないかと、どうしても思えてしまう。