國分功一郎「暇と退屈の倫理学」(2)

 
 第3章「暇と退屈の経済学」は経済という見地からみた暇と退屈である。
 前章が人類史からみた暇と退屈であったわけで、とにかくこの問題を広い視野からみていこうとしている。
 ここで本書ではじめて暇と退屈が定義される。暇は客観的な条件、退屈は主観的な状態。
 ヴェブレンの「有閑階級の理論」が紹介される。國分氏の紹介を読んでいて変だな、変だなと思っていた。ひどく恥ずかしい話であるがゾンバルトと混同していたのである。「恋愛とぜいたくと資本主義」のゾンバルトである。わたくしはヴェブレンもゾンバルトも読んではいないが、日下公人氏の紹介などでなんとなくゾンバルトの論の大枠はこんなものかなという感じはあって、それとあまりに違うので変だなあと思ったわけである。違うひとなのだから当たり前で、ひたすらわたくしが悪いわけだが、何でそんな混同をしたのかといえば、「暇と退屈の経済学」と「恋愛とぜいたくと資本主義」で語呂があうからかもしれない。少なくともわたくしが暇と退屈の経済学ということがら連想するのはゾンバルト的な何かなのである。前章では西田正規氏の「定住革命」がもっぱら議論された。本章ではヴェブレンがひたすら議論の対象となる。そのように、ある論題についてさまざまな見解を検討するのではなく、一つの説のみを論じる傾向があるのが本書の問題点であるのかもしれない。
 さて、ヴェブレンは「暇であることはかつて高い価値が認められていた、有閑階級は周囲から尊敬される高い地位にあった」と書いていて、そのことに読者は驚くだろうと國分氏はいう。ここを読んで今度はわたくしが驚いたわけで、ヴェブレンのいっていることはきわめて常識的な見解ではないだろうかと思う。國分氏がいうには、暇であることは退屈であることとすぐに混同されるから読者が驚くので、暇⇒余裕⇒裕福と考えれば、ヴェブレンのいうことは納得できるだろうという。しかし暇⇒余裕⇒裕福というほうが普通の見方で、暇⇒退屈、だから暇であることはよくないという連想をするほうが例外なのではないだろうか?
 どうも國分氏には暇⇒退屈という方向がまず第一にあって、その退屈を回避するにはどうしたらいいかという方向にすぐに話がいってしまう傾向がある。だからヴェブレンが「ギリシャ哲学者の時代から現代にいたるまで、労働を免除されていること、そこから解放されていることこそが価値あるすばらしいことであったのだ」といっているのを特筆すべき指摘であるように引用することになる。しかし、聖書のころからわれわれは額に汗して働くという苦役を農業の開始とともに呪いとして運命づけられているのであるから、なんとかその苦役を免れることができるひとがいたらうらやましいと思われるのは当然である。暇なひとをみて、退屈だろう可哀そうとするひとがたくさんいたとはとても思えない。
 ヴェブレンは暇と退屈を賛美するひとではなくピューリタン的で、贅沢を嫌う性向をなんとしても人間の中にみいだしたかったのだと國分氏はしている。ヴェブレンは額に汗して働くことだけが幸福をもたらすのであり、文化などは浪費に過ぎないとしているのだ、と。これはアドルノのヴェブレン批判の紹介でもあるのだが、アドルノは芸術を高く評価したひとなのだから、ヴェブレンの主張を許せないのは当然である、と。(ここらへんを読んでいると、ゾンバルトのような見方についても大いに論じてほしかったと思う。ヴェブレンというのはつまらないひとなのである。ピューリタン的なひとが面白い人物であるはずがない。) とにかくこのあたりにでてくるのは労働がひとを幸せにするとする見解と、文化や芸術がひとを幸せにするとする見解の対立である。
 國分氏がヴェブレンから有意義な見解としてひきだしてくるのが「ブルジョアジーは裕福ではあるが成り上がりであって、金はあっても教養はない」とする視点である。それ以前の貴族は「品位あるれる閑暇」(キケロ)を知っていた。有閑階級の伝統をもつものは暇を生きる術を知っていた。かれらは暇であっても退屈しない。しかし新興ブルジョアジーは暇になってもどうしていいかわからない。暇に苦しみ、退屈する。
 そうだとすれば、これは20世紀の大問題となるはずである。ブルジョアジーだけではなく大衆も暇を手にするようになるから。暇を生きる術を知らないのに暇を与えられた人間の大量発生。この問題にたちむかうにはかっての貴族がもっていた「品位あふれる閑暇」という伝統に学ばなければならないはずであると國分氏はする。
 そのためには、まず労働の神聖視をやめなければならない。歴史の大部分において労働は忌み嫌われてきた。しかし19世紀の労働運動のなかで労働者の賛美がおき、労働に高い価値がおかれるようになった。労働の神聖観というのは歴史的にあたらしい見方であることを知らねばならない。ポール・ラフォルグというひとがいる。彼は「怠ける権利」ということをいった。しかしラフォルグのいったことは間違っている。怠ける権利もまた資本の論理に組み込まれているのだ、ということで、前のエントリーで紹介したフォーディズムの話がここででてくる。適当な余暇をあたえたほうが労働者は効率的に働き、製品も買ってくれるのだから。そして、余暇をどうすごしていいかわからないひとのためにレジャー産業が生まれてくる。
 ガルブレイスは、仕事には不愉快であってもやらざるをえないものという側面があるが、労働によって他人から尊敬されるという面もあることを指摘し、そのように仕事から満足をえられるひとを「新しい階級」とした。仕事に生きがいを感じるひとである。所得が増えることをめざすのではなく、仕事が充実することをめざすべきではないか?、と。しかしと國分氏はいう。充実した仕事があるということと仕事は充実すべきでだということは絶対に混同されてはならない。「仕事が充実すべきだ」という主張は、あっというまに「仕事において人は充実していなければならない」という強迫観念を生んでしまう、と。バルブレイスは医者とガレージの職工を差別してみている。後者は尊敬されもせず、そこに生きがいを感じられるはずなどないとみている。現代社会に偏在する職業への差別意識は、ガルブレイスが「新しい階級」といったものを賛美するようなことから生じているのだ、と。
 現在はフォードの大量生産の時代とはまったく異なる、絶えざるモデルチェンジの時代である。この不毛をどうすれば変革できるのか? 消費者が変わればいいのだと國分氏はいう。この消費スタイルを変えればいいのだ、と。1980年代、消費社会論が一世を風靡した。「差異が消費される」というようなことがさんざん言われた。だが何も変わらなかった。なぜか? 論者がはじめから現状を変えようなどという気がなかったからであり、そもそも問題点をとらえていなかったからなのだ、と。消費者は退屈していて、パスカルのいう気晴らしを求めているのだということに気がつかず、退屈をどう生きるか? 暇をどう生きるかという問いをたてるべきだということを、彼ら消費社会論者は理解していなかったのだ、と。現在の労働の悲惨がそこでは捉えられていなかったのだ、と。
 ここにいたって本書の目指すものがはっきりしてくる。現代の消費社会の病理を正すために「暇と退屈の倫理学」が要請されるという視点である。それがp136〜137あたりでいわれ、その主題を確認するために、p138〜139で、第2章と第3章のまとめが示される。
   まとめ
1)定住は人類に能力の過剰といういかんともしがたい条件を課すことになった。
2)それにより文化が生じたのだが、同時に絶えざる退屈との戦いも強いられることになった。
3)しかし、有史以来、大多数の人間にとっては暇に直面するような余裕はなかった。暇は一部の階級が独占しているだけだった。
4)退屈が問題になるのは近代であり、19世紀以降である。
5)資本主義社会が高度に発達すると、人々は暇をえるようになった。「余暇」も権利の対象であるとされるようになった。それは近代人が求めてきた〈個人の自由と平等〉の達成でもある。
6)しかし、かれらは自分の求めているものが何であったかを理解していない。暇を生きる術をもたず、そこから長らく人類の歴史で眠っていた退屈の問題がふたたび頭をもたげてくることになる。
7)退屈は近代社会が生み出したものではないが、近代で再活性化した。
8)定住するということが即、退屈を運命づけるということでもない。有閑階級がもっていた「品位あふれる閑暇」の伝統をわれわれはもっている。
9)われわれはその知恵に学ばなければならない。
 わたくしがこれを見て感じる疑問としては以下のようなものがある。
1)定住は普通、農業の開始とパラレルである。農業の方に着目すれば過剰になりうるのは生産力であり、その余剰が都市を生み、文明を生む。
2)文化を生んだのは生産力の余剰であり、余剰がもたらす退屈が文化を生んだのではないだろうか? 文化が生まれたから退屈が生じたのではなく、退屈が生まれたから文化が生まれたのではないか?
3)退屈は文明のあるところには常に存在したのではないか?
4)19世紀は退屈が一般化した時代なのではないか? 19世紀は労働服を着た(ホイジンガ?)。退屈も労働服を着た。
5)〈個人の自由と平等〉追求の結果が「退屈」でしかないのであれば、個人の自由と平等という目標が間違っているのではないかという議論もまた可能なのではないか?
6)暇と退屈の問題に対応するためには長い歴史と伝統の蓄積とそれによる高度の教養を必要とするのではないか? それは成り上がりには不可能なものであり、万人にそれを求めることは無理なのではないか? そうだとすれば、時間の蓄積によってゆっくりと労働者も貴族になっていき、「品位あふれる閑暇」を楽しめるようになることを期待するしかないが、その時には「売り家と唐様で書く三代目」となっていて、そもそも暇を生じさせる経済的余裕が失われていて、暇を感じる余裕さえなくなってしまっている可能性も高いが。
 
 本書の一番根底にある問いは、われわれは豊かになったが幸せにはなってきていないのではないかというものである。そこでわからなくなる。「まえがき」の最後のほうに「この本は俺が自分の悩みに答えを出すために書いたものである」とある。それならばここで言いたいのは「俺の悩みはみんなの悩みなのだ」ということなのだろうか? 「俺」と「みんな」の関係が見えない。氏の提出する問いに対しては「豊かになってわれわれは便利を手にすることができた。しかし、便利になっても幸せになるとは限らない」というのが常識的な答えであり、その身も蓋もない見解にわたくしも同意する。
 吉田健一がある随筆でこんなことをいっている。「何故、可愛がられてゐる犬があんな眼付きになるのかと言ふと、情を籠めた扱ひの温かさとか、喉が乾いた時の水とか、よく乾いた寝床とか、なければ努力して得なければならないもの凡てに恵まれてゐて、後は人生とか、退屈とか、孤独とか、努力してみたところでどうにもならないものと対決するばかりであり、それでいつもさういふものと向き合つてゐるからである。」 あんな眼付きというのは沈んだ色の眼で、実は英国人というのはその犬のような顔つきをしているということなのであるが、豊かになることが提供してくれるものは、たかだかよく乾いた寝床まで、とわたくしには思える。
 しかし國分氏は、豊かになったが幸せになれないのは間違いであるとして、その対策を追及しようとして、次に「疎外」の問題を論じていく。
 それで第4章では「疎外」が論じられる。だが、これが本当にわかりにくいものになっている。「疎外」とは一般には「人間が本来の姿を喪失した非人間的状態のことを指す」とされる。しかし疎外論は現在ではきわめて評判が悪い、と氏はいう。なぜならそれは「そもそもの姿」「戻っていくべき姿」つまりは「本来の姿」というものをイメージさせてしまうからであり、そのことによって本来性の概念は人から自由を奪うとされる。あらゆる人に対してその「本来的」な姿が強制されてしまうし、そこから外れる人は排除されてしまうから、と。
 しかし、「非人間的状態」という言葉は「本来あるべき人間の状態」を想定しているのであるし、「本来性の概念は人から自由を奪う」という言い方は「本来、人間は自由であるべきである」ということを前提にしている。一般的な「疎外論」を「本来性」を呼び寄せるという観点から批判する文脈は、また別の「本来性」を呼び寄せてしまうようにわたくしには思える。
 「そもそも人間とは○○なものである」という議論はそれだけで「本来性」を呼び出す可能性がある。とはいっても、「そもそも人間とは愚かなものである」という文は「ひとは愚かであるべきである」ということを要請してこない。それは事実の指摘であっても、当為の指摘ではないから。だから、ここで指摘されている問題とは、疎外論には「べき」論を呼び寄せる構造が内包されている危険性が高いということである。
 ある悲惨な状況のなかで人が「これは何か違う」「こういう状態であるべきではない」と感じるのは当然のことである、と國分氏はいう。しかし「これは何か違う」「こういう状態であるべきではない」と感じさせるのは何なのだろうか? 本来はこうであってはいけないと感じさせる何かがそこにあるからではないか? それは本来性を呼び出してこないだろうか?
 ルソーの自然状態の話がでてくる。それはかって存在した理想の状態でもなく、将来ふたたび実現されるべき目標でもなく、現状を異化の目でみる視点を提供するものとされる。今の自分の考えはわれわれが暮らしているのが文明社会であるからこそ出てきたものであって、決して変更することのできない人間の本能、あるいは本態ではないのだという視点を提供するものであるという。現状ではないまた別の可能性もありうるということをわれわれに気が付かせてくれる、そのための装置なのであるとされる。
 國分氏は、現状を肯定しない、それではない生き方を志向する萌芽をもつものとして「疎外」をとらえるわけである。どこかに戻るのではなく、とにかく現状に止まらないことを志向させる何か。それを氏は「本来性なき疎外」と呼ぶ。
 ついでマルクス疎外論が論じられ、その疎外論アーレントにより改竄されていることが批判される。マルクスは単に労働日の短縮をかかげただけなのに、アーレントはそれを「労働の廃棄とか本来的な労働の開始」というように曲げてしまっていると批判する。マルクスは労働の廃棄といった本来的なものなどは決して想定していないのだ、と。
 マルクスが単に労働時間の短縮を主張していただけなのかということにはいろいろな見解がありうるであろうが、そのように受け取られていないことだけは確かであると思う。単に労働時間を短縮するというような主張は決して人のこころに火をつけることはなく、あのような多くの殉教者を生み出す「革命をめざす運動」を作り出すことは決してなかったであろうと思う。つまり「本来性」を想定しない思想はほとんどの場合「力」を持てないのであるが、マルクス主義の場合、それがあまりに強い力を持ってしまったこと、途方もなく多くの人を殺してしまったことが、「本来性」をわれわれが嫌悪するようになってしまっている最大の理由ではないかと思う。「理想」はひとを殺す。あまりにも多くのひとを殺すことをわれわれは知ってしまった。
 かつて楽園があったが、知恵の木の実を食べてしまったために、そこから追放され悲惨な生を送るようになるが、やがて信仰によって千年王国を実現するというキリスト教歴史観の、マルクス主義はその世俗版であると俗論ではされている。今と違った根本的に改まった世界が出現するという信念を提供しない思想は力を持てず運動体の核にはなりえない。マルクスが本当には何をいったかではなく、何を言ったと信じられてきたかということのほうがはるかに重要であると思う。すくなくともある時期まで、ここで國分氏がいっているようなことをマルクス主義陣営の学問世界で主張したら、改良主義とかいわれて袋叩きにされ、それでおしまいであったであろう。「哲学者たちは、世界を様々に解釈してきただけである。肝心なのは、それを変革することである。」 変革するために必要なのは運動であって学問ではない。マルクスが本当にはどういったかとか、それをアーレントが改竄したかなどというのは学問の世界、解釈の世界での話であって、政治運動の世界、変革の世界の話ではない。
 本書の第二章で唐突に定住生活以前の遊動生活が論じられ、多くの読者はここでとまどうのではないかと思うが、あえて國分氏がそれを導入してくるというのは、ルソーの自然状態のように、太古には退屈を知らない時代があったという仮定を置くことが、氏の立論には必須であるからなのではないだろうか、という気がする。そういう点から、わたくしには國分氏にはきわめて強い本来性への志向があるのではないかと思えてしまう。
 第二章のはじめには、「聖書」の原罪が語られ、かつての罪のために額に汗して働き、苦しんで子供を産まねばならなくなったという人間の宿名がいわれる。そして、その宿命の中に「人間は退屈しなければならなくなった」という項目が入っていてもよかったのではないだろうか?、ともいう。汝らはこれから退屈に耐えねばならない、神がそう命じた、と。そんな気すらしてくるとまでいう。しかし、額に汗して働くことと退屈は、普通は正反対である。もちろん、額に汗して働きながらも退屈するというようなこともないわけではないのであろうが・・。國分氏の立論はかなり強引なのである。
 疎外論の最初にはボードリヤールの「浪費」と「消費」の区別の論がとりあげられている。ここでいわれる浪費とは物理的なものである。しかし消費はそうではなく実体のない記号的なものであるとされる。浪費は物理的なものであるから、いくらでも食べ続けることはできないように、自ずと限度がある。しかし、記号を受け取ることには限度というものがない。よって消費という行動には限度がなく際限がない。そこで浪費できる社会が「豊かな社会」なのであり、石器時代の生活が「物があるれる豊かな社会である」という変な説が紹介される。ここでもまた國分氏の本来性への希求を感じてしまう。
 今どこもあったか探せないのだが、どこかで氏は誰もボードリヤールを真剣に読んでいないというようなことを書いていた。しかしボードリヤールは真剣に読まれることを期待していたのだろうか? ボードリヤールというのはトリック・スターのような人であったし、自分でもそうなろうとした人なのではないかと思う。こういう見方だってできるのはないかというとても変な考えを提示して人々が陥っている硬直を解きほぐすこと、それが彼の目指したことであって、はじめから有効性とか実用性とかを期待などしていないだろうと思う。記号を消費するという視点もわれわれの見方を異化してくれ、そういわれることでわれわれに見えてくるものもたくさんあるが、しかしだからそれによって消費をやめて浪費をしようなどと國分氏がいいだすのは、理解できない。ボードリヤールは不真面目(あるいは非真面目)なひとであったと思うが、國分氏はそれを真剣に検討するえらく真面目なひとなのである。ボードリヤールマルクスと正反対で、絶対にひとを鼓舞しないひと、あるひとがあなたはこういうことをいいたいのですねというと、俺はそんなことはいっていないと逃げるタイプのひとで、まさに浅田彰氏の「逃走論」ではないが「逃げろや逃げろ」というひとなのではないかと思う。
 次が退屈論の最高峰であると氏がいうハイデガーであるが、それは稿をあらためて。
 

暇と退屈の倫理学

暇と退屈の倫理学

乞食王子 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

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