小谷野敦「退屈論」

   2002年6月30日初版


 ご存知「もてない男」の小谷野氏の退屈論である。というわけで、「もてる男」の話からはじまる。
19世紀の特異なユートピア思想家フーリエ理想社会から話ははじまる。かれの理想としたのは「すべての人間がすべての相手とセックス可能な社会」なのだという。その社会では結婚は偽善であり、エゴイズムの極致であることになる。それに対して、ある人がこういう社会は弱肉強食であって、もてる男に有利な社会ではないかといったという話が紹介されている。しかし端的に小谷野氏はそういうのって飽きないか?というのである。いくらもててもそんなの飽きるだろうと。誰だったが「好色一代男」の主人公は色事に飽きないという男の理想を表しているのだといっていたことを思い出す。
 小谷野氏によれば、たいていの男の最大の楽しみは出世である。これは目的があるから、その目的がどうにも達成不能とわかるまではひとを退屈させない。一方、遊びとか快楽は目的をもたない。目的をもたないものは飽きる。過去における最大の退屈しのぎは子育てだった。しかし子供に対する要求水準が高くなってしまうと、子育ては大変な事業となり、退屈しのぎどころではなくなってしまう。ではどうしたらいいのかというところから本論。
 はじめに鴎外の「カズイスチカ」の老花房翁のエピソードが紹介される。これはわたくしも高校時代の教科書に載っていて読んで妙に記憶に残っていて、それは例えば「父はつまらない日常の事にも全幅の精神を傾注している」というような部分である。これは退屈をしない人間を書いた、あるいは退屈に臆さない人間を書いたものである。
 これを読んで思い出すのがD・H・ロレンスの「無意識の幻想」(南雲堂)のあとがきで訳者の小川和夫氏が紹介紹介しているオルダス・ハクスレイの回想である。それによればロレンスは決して退屈しない人だったという。ロレンスは、その瞬間に自分がやっている仕事に何によらず没頭することができ、どんな仕事でもつまらないと感じるとか、ていねいにする値打ちがないとか思うことはなかった。料理も縫い物もでき、靴下のつくろいも、牛の乳搾りもできた。薪も上手に割れた。さらに無為にすごすすべさえ知っていた。ただ座っているだけで完全に満足することができた。これは小川氏ものべているように現代のインテリからは完全に失われてしまった才能なのである。現在のインテリは今やっていることはかりそめのことで、本当に自分がすべてことは別にあるという考えから逃れられない。ロレンスのよればそういう才能を失ったひとは生きながら死んでいるのである。
 もう一つ、吉田健一氏の「覚書」(青土社)の奇妙な書き出し。「何かしなければならないといふ考えが余り昔からあったのでそれが凡そもの心が付いて以来のことといふ気がしてならない。」
なにをしたいというのはなく、なんでもいいからするに値することを何かしたい、という奇妙な強迫観念。たぶんここにも小川氏の指摘する近代のインテリの欠点がいわれていて、吉田氏はその救いとして「時間」を出してくるのであるが・・・。
 老花房翁は近代人ではない。その子の花房学士はすでに近代人であって、退屈というのは近代の特質であると思えるのだが、小谷野氏はあっけなく「カズイスチカ」を離れ、田山花袋の「布団」にいってしまう。そして「恋愛して結婚しても、妻となった女にはいずれ男は飽きる」という話にいってしまうのである。でそのあと漱石から海外の文献にと話は多岐にわたり、引用該博であるのだが、よく勉強していますということはわかっても、どうも小谷野氏がなにをいいたいのかわからないまま進んでゆく。「ハレとケ」が考察され、「遊戯論」が論じられる。ハイデカーのSorgeから退屈しのぎとしての性、さらには人間以外の動物は退屈するか、退屈しのぎとしての書くこと、文学と退屈、退屈しのぎとしての恋愛、家事や育児の退屈からの帰結としてのフェミニズムといった話題から、なぜか森田療法の話題へとさまよった挙句、最後にあっと驚くポパーがでてくる。ポパーの講演「ユートピアと暴力」を全面的に支持するといったあと、さらにこれ以外のポパーの主張にもほぼ全面的に賛成であるというのである。ある理想を求めて現体制を変換させようという運動はつねに悲惨を生んできただけであり、それにかわって個々の具体的な悪を一つ一つ除去していけ、というポパーの主張に対してである。退屈だからといってラジカリズムに走ってはならないという。
 ということで、退屈論としては何がいいたいのか分からない本なのだが(小谷野氏は退屈を論じた本がほとんどないなどと書いているが、近代の頽廃というのは退屈とほとんど同義ではないのだろうか? <肉体は悲しんでいる。わたしはすべての本を読んでしまった!> 近代文学論というのはほとんど退屈論ではないかと思うのだが、そういう方向には話は全然進展しない)、小谷野氏といい、内田樹氏といい、ともにポパーに言及している点にとても興味をそそられた。ポパーは科学哲学者であり、科学哲学に関心をもつひとにはそれなりに影響をもっているかもしれないと思うが、人文科学の人間にはほとんど関心をもたれていないだろうと思っていた。
 わたしは医者として、医学の科学の上での身分という方向からの関心からポパーを読み始めたが、ポパーがたんに自然科学の分野にとどまるひとではなく、もっと広い射程をもったひとであると感じていた。しかし人文科学の方からみれば、ポパーは保守の論客であり、西洋の擁護者であって、現代ではきわめて旗色の悪い思想家なのではないかと思っていた。そのポパーに多くのひとが言及し、それを評価するようになっている点を大変面白く感じた。ポパーは「ポスト・モダン」思想の対極にいるひとである。こういう現象はひとがポスト・モダンに飽きて退屈してきたことの証左なのであろうか?