歴史法則主義

 今週号の「週刊文春」の宮崎哲弥氏の「時々砲弾」の「歴史の概念について」というコラムで、氏はロシアのウラル山脈への隕石の落下を枕に、巨大な隕石の落下が地球の生態系を更新してきたことを述べ(中生代の恐竜の絶滅など)、そうであるなら人間の歴史もまた同じなのであって、小谷野敦氏が「日本人のための世界史入門」でいっているように、「歴史は「偶然の連続」」に過ぎないのだと述べている。
 そのような、歴史は「偶然の連続」であるという見方に真っ向から対立するものとして50年前まで猖獗をきわめていたのがヒストリシズム(歴史法則主義)という「人類史の展開には何らかの法則があり、われわれが現在かくあるのは必然である」という見方で、その代表がマルクス主義なのだったといっている。
 氏は、「宗教のように生死など個の実在に関わる思考や経験ならば、もっと普遍的で、効力が長持ちするけれども・・」などと宗教方面には甘いことをいっているが、わたくしはマルクス主義は、キリスト教最後の審判説の裏返しヴァージョンだと思っているし、第一、宗教は個の実在に関わるよりも集団の正当化という面での方が大きいと思っているので、ちょっとこのあたりには納得できないものを感じる。氏は結婚にあたって奥さんの宗教であるカトリックに帰依したというような話をどこかできいたことがある気がする。別のひとと混同しているのかもしれないが・・。
 そのようなことはどうでもいいとして、「歴史法則主義」(ヒストリシズム Historicism )というのはポパーの造語であるはずであるが、その著書「The Poverty of Histricism 」の邦訳「歴史主義の貧困」は、その訳者である久野収・市井三郎両氏が「歴史法則主義」へ未練たらたらの人であることによって実に奇妙なものになっている。「訳者あとがき」で両氏は、「歴史の流れに方向を与えようとするわれわれの主体的指向」などということをいい、「開かれた社会とその敵」では、マルクスの思想のうちポパーが高く評価する点も数章にわたって論じられているので、マルクス歴史観のすべてを批判すべき「歴史法則主義」だとポパーは考えていないとかいって、「これまでの「マルクス主義」をよりよく発展させるために、ポパーの批判をてことするようなやり方もなくはない、というのである。なにしろ(マルクスによる)西洋において資本主義体制を産み出したさまざまな初期的諸条件の指摘は、もしそこに作用した社会学的普遍法則が明示されるならば、ポパー歴史観と対立することなく受けとることが可能ではないだろうか?などとまで書くのである。ポパーの思想をまったくわかっていない。誰か「The Poverty of Histricism 」を訳しなおさないだろうか?
 その昔、進歩的文化人という言葉があって、久野収・市井三郎両氏はその代表的存在であった。「進歩的」などという言葉がすでに「歴史法則主義」を前提にしているのである。

歴史主義の貧困―社会科学の方法と実践

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