今日入手した本

 ポパーの本の日本語訳の中で「歴史主義の貧困」の訳(久野収&市井三郎訳 1961年)だけは全然ポパーのことがわかっていないひとが訳したもので、何しろ「進歩的文化人」の側のひとだから、「反共の闘士」ポパーをどう扱っていいのか困り果てている感じで、それで実に奇妙な「訳者あとがき」がついている。「つまり唯物史観でいう「生産力と生産関係との矛盾」を歴史の原動力とみる立場を、やや定式化し直して、《生産力が増大する方向に歴史は動くのであって、ある生産関係がその増大を抑止するようになれば、その生産関係は抑止的に作用しない方向に変化する》というような普遍法則の形 ― に捉えれば、それとさまざまな初期条件とによって、歴史的な体制変化をポパー的見地と矛盾することなく解しうる路が開かれはしないか?」などと書いている。何もわかっていない。ポパーは歴史には普遍法則などないと言っているのである。
 誰か訳しな直さないかなと思っていたら、書店に本書があった。この新しい翻訳はこれから読むのであるが、題をなぜ「歴史法則主義の貧困」としなかったのかが疑問。それから「解説」で黒田東彦氏が「近年、ポパーの書が読まれることは少なくなり、その影響力は大きく低下したように見える。その最大の理由は、1991年にソ連が崩壊し、主要な論敵だったマルクス主義哲学がほとんど壊滅してしまったことにある」というのも疑問。
 ポパーは科学哲学者なのであって、「歴史主義の貧困」とか「開かれた社会とその敵」などは余技というか手すさびなのだと思う。これらは余技や手すさびと呼ぶにはあまりに力の籠った書ではあるが、科学哲学者としての思考がなければ書かれることはなかったものであることは間違いないのだし、科学哲学者としてのポパーは少しも古びていないと思う。本書は「日経BPクラシックス」の一冊として刊行されている。これまで刊行されているものは分類からいうと経済学か社会学あるいは政治学に属するものばかりである。とするとこの「歴史主義の貧困」も政治の問題を論じた人文の書としてこのシリーズに加えられたのであろう。
 しかしポパーというのは変なひとで、おそらく一番関心があるのは量子力学における観察者問題とか科学の客観性、科学と非科学の区別といった問題であるはずであるが、その関心からプラトンからヘーゲルまでを平気で切ってしまうのである。プラトン哲学の専門家からみるとポパープラトン論などもう箸にも棒にも掛からぬとんでもないものに見えるらしい。
 ポパーのいっていることはマルクスの主張は科学ではないよ!ということである。しかしソ連が崩壊したのは、ポパーが「歴史主義の貧困」や「開かれた社会とその敵」を書いたからではない。そしてマルクス主義が一時期非常に大きな影響力を持ったのも、それが正しかったからではなく、それが人の心に火を点ける力を持っていたからである。煽動家としてのアジテーターとしてのマルクスの才によってである。以前(大学教養学部の時)に読んだ記憶によれば本書は全然人の心に火を点けるような方向のものではない。ミネルヴァの梟ではないが、本書はソ連が崩壊した後に読めば、それがいかに問題を抱えた体制であったのかという理解に資するものではあると思うが、その渦中にある人間にはごく小さな影響しか与えなかったのではないかと思う。
 だから今読んだほうが面白い本であるかもしれない。