4.動物的幸福をめぐる断章

 p260〜267「動物的幸福をめぐる断章」をとりあげる。
 東氏によれば、従来はポストモダンという時代は、近代的な桎梏から解放され、高度な情報技術で武装された自由な人間の誕生として、肯定的かつ楽観的に捉えれてきたのだという。しかしポストモダンの生は、記号的刺激に反応するだけの機械的で動物的なものになってしまうでのはないかということを論じたのが「動物化するポストモダン」で主張したことなのであるという。そうするとやはり氏は「動物化」というのを否定的な意味で用いているのである。大きな物語の喪失は悪いこととされるのである。氏は、現在では「倫理」がなく、あるのは「快」だけであるという。われわれは超越論的=倫理的なことは考えずに生きていけるのであるし、それなりに快適に生き、幸せに生きて死んでいくことができるという。
 氏は、そのような内向きの幸福は、それを脅かすものへの敵意とワンセットになっているという。ポストモダンの世界は一見多様性を称揚しているようには見えるが、寛容な社会ではないという。多様なひとびとを互いに衝突しないように、隔離しつつ共存させるという繊細な管理のもとにある社会なのだという。そこではセキュリティがきわめて大きな問題となる。
 
 われわれが大きな物語をもたなくなったことは悪いことなのだろうか? われわれ人間もまた動物である。ここまではいいであろう。そこに「しかし」という言葉が続くかどうかである。《しかし、人間は精神をもつ動物である》とか。
 大きな物語が消失したというのは、人間が神の似姿として作られたといったことが信じられなくなったということである。創造神が信じられなくなり、われわれが単なる動物であるということになれば、それはわれわれから倫理を奪うだろうか?
 あるいは、快を追求することからも倫理が構成されるということはないのだろうか? そんなことはアダム・スミスの時代に逆戻りする戯言なのだろうか?
 西洋はいざ知らず、東洋においては人間は昔から動物だったのではないだろうか? 東洋においても昔は大きな物語があり、それがここ30年くらいに失われようとしているのだろうか? 匹夫もその志を奪うべからず、などという言葉も大きな物語なしにはでてこないものなのだろうか? 
 東氏が依拠しているのは、デリダフーコーハイデガーなどの西欧近代から現代の哲学者である。彼らはキリスト教の神ととことん闘うことを強いられた人たちなのであり、なによりも西洋近代を生んだのもまたキリスト教なのであるから、その闘いは必然のものであった。だから西欧においては動物化という言葉をプラスの意味で用いることはとても難しいであろう。しかし、そういう歴史をもたない日本においては、動物化という言葉を悪い意味で使わなければならない理由はないのではないだろうか?
 誰だったか忘れたが(フーコー?)、ポストモダンの哲学者が日本に来て、ラブホテルを見て、日本はなんと言う文明国なのだと誉めた?という話をどこかで読んだことがある。西欧は原罪の意識を背負って二千年を過ごしてきたわけである。それを持たない日本人が、なぜいまさら超越論的になる必要があるのだろうか?