丸谷才一「梨のつぶて」

 
 晶文社から1966年刊に刊行されている。黒い箱に入ったクリーム色の装丁の本で、丸谷氏の最初の文芸評論集である。(講談社文芸文庫の「日本文学史早わかり」に付された著書目録によれば、この前に「深夜の散歩」という著書が刊行されているが、これは確か福永武彦氏などとの共著ミステリ論集であったと思う。)
 これは丸谷氏のもっともすぐれた著作の一つであると思うのだが、今は絶版のようである。「文明」「日本」「西欧」の3部にわかれ、それぞれに数編の論文がおさめられている。
 「文明」の最初には「未来の日本語のために」という論文がある。文語訳と口語訳の聖書の比較からはじまる。

 空の鳥を見よ、播かず、刈らず、倉に収めず、然るに天の父は、これを養ひたまふ。汝らは之より遥かに優るる者ならずや。汝らの中たれか思ひ煩ひて身の丈一尺を加へ得んや。又なにゆゑ衣のことを思ひ煩ふや。野の百合は如何にして育つかを思へ、労せず、紡がざるなり。然れど我なんぢらに告ぐ。栄華を極めたるソロモンだに、そのよそほひこの花の一つにも如かざりき。(大正6年聖書協会文語訳)

 空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも伸ばすことができようか。また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがいい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。(昭和29年聖書協会口語訳)

 後者を論じて、こんな間の抜けた文を読んで信仰に入るものなどはたしているだろうか、と丸谷氏は罵る。確かにひどい訳である。さすがに反省したのか、わたくしの持っている日本聖書協会の新共同訳の聖書では、ここは現在は以下のようになっている。

 空の鳥をよく見なさい。種も播かず、刈り入れもせず、倉に収めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花一つほどにも着飾ってはいなかった。

 だいぶ増しである。「よく見なさい」「注意して見なさい」あたりがまだまだゆるい感じがするし、「あなたがた」も煩わしいが。かなり文語訳のほうに戻っている。わかることは、昭和29年の訳には文体という意識がないのに対して、1987年刊である「共同訳」にはそれがあることである。その序文には「聖書にふさわしい権威、品位を保持した文体であること」をめざしたとある。存外、この翻訳の成立に丸谷氏の批判が何がしか影響しているのかもしれない。
 丸谷氏はいう。口語体というのがいけない。現代文体とでもいえばいいのだ、と。29年訳の文体?があれほどひどいものになったのは、現代日本文明が型とか形を軽蔑する文明であったからである。それはヨーロッパ文明の型や形の整いを無視して、その実質だけをとりいれようとしたことに、起因する。つまり現代日本文明には古典主義が欠如している。
 ということで、つぎの「津田左右吉に逆らって」がくる。その「文學に現はれたる国民思想の研究」が俎上に乗せられることになる。わたくしはこの「国民思想の研究」を読んでいないけれど、そのキーワードは「因襲」なのだろうである。「伝統」という言葉が用いられてもいいようなところにも「因襲」が用いられている、と。古今集の技巧が「ことばの上だけのもの」「虚偽をいったもの」「意味のないもの」と非難され、万葉集さえその技巧に否定的なのだそうである。新古今の本歌取りも「自己に独自の創造性が無く、他にすがって事をしようとする当時の気風」の反映とされている。津田左右吉がそのようであったのは、津田が典型的な明治人であったためで、明治はヨーロッパ19世紀の「進歩」のみを取り入れようとした時代なのである。ヨーロッパ19世紀は反伝統的な傾向をもった。ホイジンガは「十九世紀は労働服を着こんだ」といったのだそうである。このあたり吉田健一「ヨオロツパの世紀末」の先取りであったと、今となっては感じる。
 つぎの「日本文学のなかの世界文学」で面白いのは、その当時でていた大久保康雄訳の「ロリータ」の批判である。「優秀な翻訳者だという名声をいささかも持っていない、しかし高名な翻訳者」などという何とも厭味な書き方をしていて名指しはしていないのだが(わたくしの中学時代の愛読書「風と共に去りぬ」も大久保氏の翻訳だったような気がする)。丸谷氏が批判するのは、ナボコフの「ロリータ」が文学趣味に淫した作品であり、この中にでてくる模倣詩が直ちに初期のエリオットの詩のパロディーであることがすぐにわかる人を読者として想定しているのだが、それを大久保氏は全然わかっていないということである。という批判をする以上、丸谷氏は「ロリータ」のその部分を読んで、すぐにエリオットの詩のパロディーとわかるひとなのであり、つまりは文学に淫したひとなのである。
 文学に淫した氏の面目が躍如であるのが、「西洋」の部におさめられた「西の国の伊達男たち」である。エリオットの「荒地」の末尾の「Shantih shantih shantih 」が「 Shanaty, shanty, shanty, 」を呼び起こし、さらにフランス語で「 Chantez, chantez, chantez, 」を呼び起こすなどと実にうれしそうであるし、さらに註では、「荒地」のなかで鶏が「Co co rico co co rico 」とフランス語の童謡の口調で鳴くと指摘したあと、それが本来の綴りである「Cocorico cocorico 」ではないのは、それが「Go, go, wrecker! Go, go, wrecker 」という英語が想起されることを期待しているのであり、さらにはそれが、「Go, go, roc! Go, go, roc! 」ともなり、 ついには、「Go, go, Roque! Go, go, Roque! 」などにも結びつくなどと舌なめずりするように述べている。そんなことどうでもいいではないか、ということはないので、そういうことにこだわるのが文学に淫した人間なのである。
 「日本」の「家隆伝説」では、後鳥羽院の「我こそは新しま守よ沖の海のあらき浪風心してふけ」を論じている。これは後年の氏の著作「後鳥羽院」につながるのであるが、「増鏡」以来の解釈の「心して」を「自分をいたわって」とする路線の否定で、帝王ぶりというのか、自然をも支配する帝王という像が提示される。
 本書を読んで気づくのは、現代仮名遣いで書かれていることである。現在、氏は歴史的仮名遣いで書いている。これが現代仮名遣いとなっているのは、氏が歴史的仮名遣いで書いたものを出版社が現代仮名遣いになおしてしまったのではなく、氏が当時は現代仮名遣いで書いていたのではないかと思う。当時はまだ氏は出版社に対して強く主張できる立場ではなく、現代仮名遣いで原稿を書かないと受けとってもらえなかったのではないだろうか?
 氏の最初の公刊された著作であり、最初の小説である「エホバの顔を避けて」は歴史的仮名遣いで書かれている。これは当初、「秩序」という高踏的な同人雑誌に連載されたものであるはずで、もともと多くの読者を期待していないというか、まさに文学に淫した一部の人だけを読者に想定したものである。この小説は歴史的仮名遣いもふくめて、わかってくれる読者だけに読んでもらえばいいという姿勢に徹している。なくしてしまったけれども、その腰巻に石川淳が推薦文を書いていたような気がする。注目せよ! そうしないとこの作は自ずからまた身を隠してしまうぞ! というような内容であったように記憶している。
 「エホバよ、わたしはあなたの顔を避ける。」というのがその書き出しである。ここに丸谷氏のすべてがある。「エホバよ、あなたはわたしの幸福を、さう、たとひそれがどのやうに小さいものであつたにせよ、やはり確かに存在してゐたわたしの幸福を、憎んだのであらうか。」 これなのである。「たとひそれがどのやうに小さいものであつたにせよ、やはり確かに存在してゐたわたしの幸福」というのは、氏の文学に淫した生き方のことなのであり、エホバとはそれに対立するすべてなのであり、氏が文学に淫した生活に閉じこもろうとするのを許さないもの、そこから引きずり出そうとするもの、総じて政治的なもの、非文学的なもの、非文明的なもの、がさつなもの、すべての謂いである。
 氏の第二作の長編小説であり、おそらく氏の書いた長編のなかでもっとも優れたものであると思われる「笹まくら」は、徴兵忌避者を主人公に据えている。戦争という究極の政治から逃げる話である。つまり氏にとって本当に切実な主題は「逃げる」あるいは「避ける」というものであり、自分のような文学に淫した人間でもどうにか世間の片隅で生きていくことを許してほしいというものである。
 氏の著作目録をみていると、第三長編である「たった一人の反乱」まで、「深夜の散歩」をいれても12年で8冊しかない。その間に、たしか「年の残り」で芥川賞をとり、それでようやく小説家として一人前とみとめられ、名前も認知されるようになったのであろう、「たった一人の反乱」から次の「裏声で歌へ君が代」までの10年で20冊近くの著書が公刊されている。そして、名を知られ、それなりに世間に認知されるようになることで、何かが変わっていった。
 「たった一人の反乱」がその微妙な変化をよく表しているのではないかと思う。つまり自分の生き方を肯定するようになったのである。もちろん、それまでも自分が西欧正統の文学理念(それはまた日本の正統な文学理念でもあると氏は信じているのだが)につながるものであるという自負はもっていたが、実際の日本の文学の世界では、明治の津田左右吉のころからのがさつで、優雅とは縁遠い文学が主流であり、自分の書くものは非主流であり傍流とみなされているとも感じていたのだが、いつからか自分が日本の文学の中心に位置するようになったと自負するようになった。「逃げる」という消極から「反乱」という積極に変わった。しかし、それで緊張がゆるんでしまったのではないかと思う。「笹まくら」の主人公は、しがない大学事務員であるが、「たった一人の反乱」ではエリート官僚が主人公となる。「反乱」以後「裏声で歌へ君が代」「女ざかり」「輝く日の宮」と長編がどんどんとつまらなくなってきているようにわたくしには思えるのだが(「女ざかり」が一番つまらないかもしれない)、それは、主人公が自足していて、でれっと自己を肯定していているようみえて、魅力がないためである。
 今でも、氏がいろいろなところで書いたり論じたりしていることから教えられることは多い。だが、同時に何だか偉そうな物言いだなあと感じることも多い。この「梨のつぶて」だって偉そうでないことはないのだが、自分の発言が「梨のつぶて」であることも感じているわけで、何よりも自分が文学に淫した人間であり、世間の役には立たない人間であるという自覚があって、それでバランスがとれている。
 丸谷氏の文学の理念をつきつめていくと、理想は詩になることになるのではないかと思うが、現代詩にはたしてどのくらいの読者がいるのだろうかということがある。小説は詩よりもずっと俗なもので、俗であるだけ小説は詩よりも多くの読者を期待できるが、一方では、文学に淫した小説を書いているのだから(本書にもあるようにナボコフの「ロリータ」がベストセラーになったのは何かの間違いなのである)、氏の小説は本当はごく少数の読者のためのものであることになる。
 ある程度の数の読者を獲得できるが、本当の本読み、文学に淫した読者にはさらに隠れた楽しみもある小説というようなものが氏の理想とするものなのかもしれないが、しかし氏の書いた小説では、やはり「笹まくら」が一番楽しめるのではないかと思う。特に第4章の西正雄の独白。「浜田庄吉、御用だ、出て来い。まわりの道路はぎっしり、御用提灯をかざした捕り手で埋まっている。・・と、見よ、怪盗・浜田の庄吉は御用御用の声をしりめに、ビルからビルへと伝わって逃げてゆくのであった。」「インポは泊めぬ吉原の、京は江戸一、明日、揚屋、次は洲崎の埋立て地、二階の窓から見渡せば、七つの海に勇みゆく、船もいささか未練さう、南に真金、安部川町、岡崎女郎衆はよい女郎衆、黄色い旭にゲンナリし、祇園は高くて、宮川町、腹が空いたと空襲の、サイレン鳴れば今はとて、飛田の楼に入り給ふ。」 この辺り、氏は本当に楽しんで書いているように思う。
 「エホバの顔を避けて」も、「終章」冒頭の「いちまいの瓢の葉が右手におもい なげすてよう いちまいのかれしなびたひさごの葉が左手におもい なげすてよう」から「おれはこのおもいかわききつたくろいきいろいかたいきたならしいなんのやくにもたたぬものをにぎりしめこれがおれのせかいそしてなげすてなばならぬすてるしかないとしかしかんがへるかんがへかんが しかし/ だめだらめておれはとけてゆくちひさな」までなんとなく覚えている。「だめだ」「らめて」の頭韻、「だ」と「め」の繰り返し。「おれは」「とけて」の頭韻、などなど。この章は句読点がなく、段々と漢字が減っていって、最後は仮名だけになるという、実験的というか前衛的なものである。散文詩ではないにしても、情報の伝達よりも言葉に大きな比重がかけられている。「いちまいの瓢の葉」が文学なのである。なんのやくにもたたないが、でも棄てられないもの。しかし、「おれはだめ」なのであって、「とけてゆくちいさな」ものなのである。
 大分以前に、わたくしの勤める病院で、丸谷氏の顔をみたことがある。当時、勤めていた医師と同郷という縁から来院したものらしい。サインでもしてもらえばよかったかなと思う。
 

エホバの顔を避けて (1960年)

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ヨオロッパの世紀末 (岩波文庫)

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