養老孟司「遺言。」(2)

 
 4章は「乱暴なものいいはなぜ増えるのか」というタイトルであるが、これは最近の日本人は言葉遣いが乱暴になったといったことを論じているのではなく、「ものごとを単純にいうためには、乱暴にいうしかないといったをいっている。ちょっとミスリーディングなタイトルである。
 まず定冠詞と不定冠詞の話から。「ここにある特定のりんご」と「りんご一般」が区別され、りんご一般が不定冠詞、特定のりんごが定冠詞ということがいわれる。そして、定冠詞は感覚所与とかかわる。「昔々、あるところに、おじいさんとおばあさんがおりました。おじいさんは山に芝刈りに、おばあさんは川に洗濯に」  おじいさんとおばあさんが、の「が」が不定冠詞、おじいさんはの「は」が定冠詞。この「昔々」の文そのものを、定冠詞、不定冠詞とはどういうものかということを説明した本で読んだ記憶があって、岩波新書の外国人が書いた本だったように記憶している。とにかく、それを読んではじめて定冠詞と不定冠詞の区別が腑におちたように思ったので、その記憶は鮮明である。本書の70ページに「昔々」の話とは別にマーク・ピーターセンの「日本人の英語」(1996年)のことがでてくる。この本だったのだろうか? 著者の名前が違うように思うのだが・・。要するに、養老さんが言っているのは、人間以外の動物は不定冠詞(つまり一般概念)をもたない、あるいは助詞の「が」を持たないということである。(縞馬は個々のライオンを識別しても、ライオン一般という概念は持たないのだろうか?)
 ところが中国語には冠詞も助詞もない。動詞の活用もない。ただ単語(漢字)が並んでいるだけ。「有朋自遠方来不亦楽乎」 「朋」はa「朋」と、the「朋」を区別しない。ではあっても「白馬は馬にあらず」という言葉があるということは、白馬はthe「馬」、馬はa「馬」であるかもしれないのだが。
 さらにここからプラトンイデアのほうに話が飛ぶ。理想的なa「馬」が馬のイデアプラトンは史上最初の唯脳論者だった、と養老氏はいう。プラトン哲学は冠詞を使う世界では当然出てくる議論である。
 カントの物自体とは、われわれには感覚所与しか与えられていないということである。
 さらに議論はミラー・ニューロンへと移る。これは1996年に発見されている。これは「同じ」ということ理解するうえで重要である。
 そして「同じ」の追求の究極に数学があるという。
 
 中国語が実に奇妙は言語であることは岡田英弘さんの本などで教えられてきた。表音文字だけで文章を書くこと、あるいはそれで話言葉を写すことの難しさである。それを考えると、日本があるときに仮名という表音文字を漢字という表意文字から発明したことがどれほど画期的なことであったのかがよく理解できる。西欧は表音文字のみである。表音文字表意文字をまぜて使うということをしている国は日本以外にどこくらいあるのだろうか?
 表意文字であるとすると、養老さんがいう、目と耳の一致がおきにくいはずである。花という言葉で、目でみても「はな」、耳できいても「はな」という一致がおきにくい。したがって漢文というのはというのは日常の言語とはかけ離れたことろにある。しかしそれには利点があって、それをどのように読もうとも、その表記によって意思疎通が可能である人たちを一つに統合できる。つまり中国というものの統一を可能にしたのは漢字である、ということになる。だからわれわれが中学や高校で習った漢文などというものも可能になる。
 「有朋自遠方来不亦楽乎」、「友あり、遠方より来る。また楽しからずや」 目で 「有朋自遠方来不亦楽乎」という文字列を見て、「友あり、遠方より来る。また楽しからずや」という音が耳に生じ、それが目にフィードバックして、「友あり、遠方より来る。また楽しからずや」という文があたかもそこにあるような気にさせているというのが日本人が漢文でしていることなのではないだろうか? 中国語というのは人と人の間の微妙な感情のやりとりといったことを書き写すことはきわめて苦手としているはずである。
 だから中国語で恋愛小説を書くことは難しく、恋愛小説がなければ教科書がないようなものだから恋愛だってまた中国では低調なはずである。
 国破山河在
 城春草木深
 感時花濺涙
 恨別鳥驚心
 これを我々は「国破れて山河在り 城春にして草木深し 時に感じては花にも涙を濺ぎ 別れを恨んでは鳥にも心を驚かす」と読んできた。これを叙景の詩とはいえないにしても、対人関係の詩ではなく、対自然の詩である。そしてわれわれは自然の見方というのを杜甫などから教えられてきた。
 わたくしがまだ若い頃、「医事新報」などという雑誌に投稿欄があり、おそらくその当時すでに高齢であったと思われる先生方が漢詩を投稿していた。いつの間にか漢詩の投稿欄はなくなっていた。おそらく平安鎌倉から連綿と続いてきた一つの文化がそこで消滅したのである。これが養老さんのいう「都市化」によるものなのか、それはわからない。
 プラトンイデア説というは最初に知ったとき(中学の終わり? 高校の初め)に、そのあまりの馬鹿馬鹿しさに驚倒して、なんでこんなあほらしい考えが現在にいたるまで西洋のものの見方に大きな影響をあたえ続けてきたのかということがまったく理解できなかった。だから、わたくしは筋金入りの唯物(ただもの)論者なのだが、プラトンの世界観というのはきわめて静的なもので進化論とはまったく相いれないということはあるのだろうなと思う。
 ミラー・ニューロンが発見されてまだ20年である。わたくしが50歳の年にはそれはまだ知られていなかったわけである。
 数学というのは、自然の中にあるものをわれわれが発見するのか、それともわれわれの脳の中にあるのか、どちらなのだろう? 聴神経の説明の中にも対数がでてくる。貝殻の構造にもフィナボッチ数列(だったかな)が認められる。それは物理法則がそのような構造を要請するということであって、貝が数学を知っているからではない。
 数学というのはトートロジーをどこまで拡張できるかという試みなのではないかという気がしているのだが、だから一部のひとにとってはゲーデル不完全性定理などというのが大問題になるらしい。トートロジーであれば、確かに「同じ」をあつかう。問題は人間の脳の中で完結するはずの数学で、外部の世界を記述できてしまうということである。
 
 ということで、5章は「「同じ」はどこから来たか」
 ヒトの意識の特徴は「同じだとする働き」であると養老氏は主張し、それで言葉が説明でき、お金が説明でき、民主主義の平等が説明できる、とする。そして同じとするというヒトの意識の特徴を人間の脳の特徴である大脳皮質の肥大から説明しようとする。
 視覚と聴覚の情報処理がぶつかるとことから言語が発生する。
 「同じ」を繰り返すことで、感覚所与の世界から離脱し一神教に至ることが可能となる。耳と目が重ならない部分から音楽と絵画が生まれる。詩も歌詞も耳の領域に近い。左脳は言語脳で、右脳は音楽・芸術脳である。
 以上から、言語は「目と耳を同じだとするはたらき」であると言えるはずである。動物は目で見たものと、耳で聞いたものが同じだなどとか考えもしないだろう。だから動物には言葉がない。
 養老さんの初期の文に「ヒトの見方」に所収されている「剰余とアナロジー」がある。1983年に発表されたものであるから、氏が46歳くらいの著述である。そこで「ヒトと動物はどう違うか」という問いを発し、カッシラーのヒトを「シンボルを操るもの」とする定義を紹介する。この文でのアナロジーと本書での「同じ」はおそらく同じものであろう。
 養老氏の、言語は「目と耳を同じだとするはたらき」であるとする議論は文字の存在を前提にしているはずである。しかし、人類の歴史の中では、話言葉だけのつまり耳の言語だけの時代が圧倒的に長かったはずで(言語は10万年?、文字は5千年?)、文字以降の歴史はそれほど長くはないはずである。とすると脳はまず耳からの言語に適応したはずで、オーラル言語にすでに適応した後から文字を視覚的に認識する部分が接続することになるというのはいささかイメージしにくい。
 もっとも聴覚言語があれば、それは視覚が認識したものとの対応がつねにあるはずで、りんごという聴覚言語はある種の赤い果物と対応する。とすると、その果物が「りんご」という文字と同じであるとする置換だけが文字が発明された後でおきればいいのだろうか? とすれば、はやり「同じ」とみなすというはたらきが大事ということになる。
 ヒト以外の動物は具体的なものだけにかかわるが、ヒトだけは抽象的なものをもあつかうことができるということなのだろうか? 具体的なものは今の世界にあるが、抽象的な思考は容易に現在を離れて、過去と未来にむかう。
 
 6章は「意識はそんなに偉いのか」
 ここで「同じだとする」能力を抽象化と呼ぶことがあるといわれる。
 さて本章での意識とは要するに目が覚めているということなので、だから意識の反対は睡眠となる。
 文明とは秩序である。
 
 7章「ヒトはなぜアートを求めるのか」
 文明社会は「同じ」の追求から生まれるが、「同じ」の追求は解毒を必要とするそこから生まれるのがアートである。通常アートとされる音楽や絵画は感覚とかかわるが、感覚から離れた美の典型が数学となる。数学とアートは対極にある。
 芸術は宗教ともかかわる。「同じ」を中心にする一神教と「違う」を容認する多神教
 わたしがみている「赤」とあなたが見ている「赤」は同じか?➡クオリアクオリア言語化できない。
 最終的には《現実》と《理念》という言葉に議論は集約されていく。
 
 このあたりになると、どの一つをとっても優に一冊の本が書けるテーマが並んでいて、かなりこなれが悪くなる。
 りんごもみかんも果物で、果物も野菜も食べ物でという操作はりんごもみかんもある観点からは同じという操作によって抽象度を増しながら、現実から理念へと階層をあげていく。われわれの祖先は長く狩猟採集の世界にいて、そこでは外界は食べられれるものと食べられないものにまず区分されていたはずで、それはヒト以外の動物においても同じであるはずである。ただヒトは視覚優位であるが、嗅覚に依存する生き物も多いということはあるかもしれないが。外界に存在する自分に関係ある現実を、生き残るために見分けていくということはどの生き物でもしているはずのことである。しかし農業をはじめると、生き残りに必要な食べ物を自分で作り出すことをはじめるわけで、ここに理念の萌芽が萌してくる。
 養老氏はこれだけたくさんの本を書くのであるから、なにより「考える人」であるが、同時に、昆虫少年から昆虫青年、昆虫中年、昆虫老人になったようなひとで、内部に矛盾するものを抱えているのであろう。都市主義に反発するのは昆虫少年である。しかしクオリアなどということを考えるのはまあ閑人であって、閑人を作り出したのは都市化なのである。農業は余剰あるいは剰余をうみ、剰余が都市を生み、都市が文明を生む。遊びもまた余裕の産物である。海辺で波と戯れているいる犬はその時は飢えていないはずである。そして戯れている犬は今はよくても明日の食べ物は大丈夫だろうかなどとは考えない。
 ヒト以外の動物は現在にいるのである。定年の時に最低5千万の貯えがないと30年後に飢え死にするかもしれないなどとくよくよする動物は人間だけである。
 この本は奥さん孝行かなにかでいった半月ほどの船旅の無聊のなかで書かれたらしい。日がな一日波面でもながめていればいいのに、どうもその退屈には耐えられないらしい。氏は、都市空間が苦手であるというが、船室などというのは都市空間そのものではないかと思う。そして荒れていない海というのは自然のなかではもっとも秩序だったものなのではないかと思う。
 宗教とか芸術というのは、それについて論じても永遠に結論がでるはずのないテーマであると思う。絵画と音楽をまとめて芸術と呼ぶとする操作がそもそも「同じもの」とするという人間の抽象化の操作である。しかし、個々の作品は具体的なものである。
 芸術は人間の抽象化への志向の解毒のためのものだろうか? わたくしは、音楽と絵画はかなり方向が違ったものであると思っている。数学と音楽は相当に近親の関係にあるのはないかと思う。著名な数学者と作曲家はほとんど男だけである。ある種の抽象的な人工的な構成力の極致ではないかと思う。一方、演奏家には女性がたくさんいる。画家も同様である。演奏することも絵を描くことももっと具体に近づくものだと思う。絵画より音楽のほうがより抽象度が高いはずである。そして絵画も音楽も数学も都市の産物であると思う。虚数に情緒を感じるひともいるのだが・・。
 オイラーの公式 eのiπ乗は−1に等しいというのも、音楽作品、何でもいいけれども例えば、モツアルトのピアノ協奏曲20番、あるいはベートーベンの英雄交響曲というのも、犬が浜辺で戯れるのと同様の、人間のする遊びなのである。
 養老さんは「唯脳論」を書く一方で、昆虫採集をするひとである。
 「「都市主義」の限界」で養老氏は以下のようにいう。「(大学紛争は)都会と田舎の対立だった。・・・だから全共闘はどう見ても田舎臭かったのである。ゲバ棒に覆面、ヘルメットという姿をいまの学生に見せたら、ただ一言、ダサイというのではないか。・・・あの紛争の背景にあったのは、急速に進む都市化だった。・・・この場合の「田舎」とは、「かならずしも意識的でないもの」を大きく含んでいる。」
 庄司薫氏の「赤頭巾ちゃん気をつけて」にこんなところがある。「いまや一つには中島みたいなやつの時代らしいだよ。つまり田舎から東京に出てきて、いろんなことにことごとくびっくりして深刻に悩んで、おれたちに対する被害妄想でノイローゼになって、そしてあれこれ暴れては挫折し暴れては失敗し、そして東京というか現代文明の病弊のなかで傷ついた純粋な魂の孤独なうめき声かなんかをあげるんだ。・・・つまり知性じゃなくて感性とかなんとかなんだ。・・・」
 なんでこんなところを引用しているのかというと、さすがに70歳を過ぎて自分のことを少しは振り返ってみるようになると、自分が東京生まれの東京育ちであることがかなり決定的なことだったのではないかと思うようになったからである。そして自分が二代目である(父の代から東京にいて、勤務医という父の職業をわたくしもまた踏襲しているというような意味で)ことも大きいのではないかとも考えるようになった。鎌倉という都会と田舎の中間のようなことろで育った二代目(母が小児科医)である養老氏の出自が氏の書くものにどのように影響しているかということである。
 ここら辺の元ネタは鹿島茂さんの「吉本隆明1968」で、その「少し長めのあとがき」に「団塊の世代は、たんにユース・バルジで数が多いだけではなく、生存競争を勝ち抜く手段として、学歴を手にいれようとして、いっせいに大学の門に殺到した世代でもあるということです。すなわち、高度成長による戦後日本社会全体の相対的な富裕化により、農業、漁業、林業や商業などに従事していた下層中産階級の親の世代には不可能だった高等教育へのアクセスが可能になり、それまで黙って親の職業を継いでいた子供たちが、都会に出て大学に入り、サラリーマンとして生活することを志向するようになったのです。/ いいかえると、団塊の世代で大学生になった者たちの多くは、一族の中での「最初の大学生」だったということになります。(鹿島氏もまた、一族の中での「最初の大学生」であったらしい。)」とあり、この辺りを読んで、ああ、自分は違うなと思ったということがある。「一族の中での「最初の大学生」」どころか、家族や親戚のなかで目に入る限り、少なくとも男はみな大学をでているという環境でわたくしは育った。鹿島氏はそういう《一族の中での「最初の大学生」》が大学に対して抱いていた過剰な期待と実際の大学の現実との間の落差への失望が全共闘運動の大きな点火剤の一つになったという。自分が大学にはいった時に鹿島氏がいうような大学への期待というようなものを持っていたかといえば、まったくそのようなものはなくて、あったのは「ああ、これでもう受験勉強をしなくてもよくなった」という安堵感というか解放感だけだったような気がする。
 庄司薫(福田章二)氏もまた都会派の二代目であろう(今、調べてみたら、やはり東京育ちで、父は三省堂の重役とあった)。小さい頃から本の虫だったらしい。
 「東京人は、深刻になることを好まないのです。」(曽野綾子 「山川方夫全集 第4巻「解説」) 養老氏は結構ムキになるなるところもあるひとだと思う。養老氏は「こうすればああなる」という、すべてが操作可能であるとする都会風の思考法を批判する。批判の根っこは氏のなかにずっと生き残ってきた昆虫少年であろう。しかし学問というのがもともと都会のものであるのだから、氏のなかには矛盾が生じる。その矛盾が養老氏の書くものを面白くしているのと同時に、わかりにくくもしている。
 どうも養老氏は数学というものに何か釈然としないものを感じるらしい。それは無時間的なものである。一方、進化論はある生き物が現在のようになっていることは説明できるが、こうでなければならなかったということは決していえない、地球にただ一回限りおきたことの後付けの説明である。宇宙のどこかに何らかの生命体が発見されたとして、それがどのように今後進化するかしないかについては、われわれの持つ進化論は一切説明力を持たない。
 話がどんどんと脇道にそれてしまった。「社会はなぜデジタル化するのか」「変わるものと変わらないものをどう考えるか」「デジタルは死なない」の3章がまだ残っているが、それは稿を改めて。
 

遺言。 (新潮新書)

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ヒトの見方 (ちくま文庫)

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虚数の情緒―中学生からの全方位独学法

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新装版 オイラーの贈物ー人類の至宝e^iπ=−1を学ぶ

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赤頭巾ちゃん気をつけて (新潮文庫)

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新書459吉本隆明1968 (平凡社新書)

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