養老孟司 テリー伊藤 「オバサンとサムライ」

   [宝島社 2004年8月13日初版]


 まあどうでもいい本なのだけれど。
 テリー伊藤が「お笑い! 大蔵省極秘情報」のノリで、養老をヨイショしていい気にさせて、はんぶん養老をからかっているような本。なにしろ養老さん、いい気になって、日本かくあるべしとの大演説をぶっている。
 一方、テリー氏といえば、養老先生からむかし教わった「人間の脳や体のためには、人間が作ったものでないものを毎日10分でもみつめるといい」を女性を口説くのに応用し、「月や星とか、木や草や花とか、海と川とか、そういう自然のものを毎日10分でもいいから見つめてごらん・・・」というとぐっと成功率はアップするなどと書き、あとのほうでは、養老先生の本が320万部も売れた。俺もこの際、勝ち馬にのって、養老先生との対談本をだすことにしたなどと、シャーシャーと書く。大したものである。役者が上。

 それで一点、養老さんの死はこわくない説。
 養老さんによれば、人間は刻々変わる。今日はわたしは昨日のわたしではない。とすれば一貫したわたしなどというものはない。それにもかかわらず一貫したわたしというものがあると思い込んでいるから死がこわくなる。わたしが変わるとうことは昨日の自分が死んで、あたらしく今日の自分が生まれるということである。本当に生きている人間は何回でも死ぬ。だから死を恐れない。しかし、生きていない人ほど、自分が変われない人間ほど死を恐れる。以上、養老説。
 なにか、それは理屈というもの、という感じがする。養老氏は自分の考えは刻々変化しているとうことをあちこちで書いている。それでも氏の本はすべて「養老孟司」の書いた本である。ある
いは、夏目漱石も「坊っちゃん」「虞美人草」「草枕」「こころ」、まったく作風がことなる。それにもかかわらず、それはすべて漱石の著作である。
 西洋哲学の伝統では「思う自分」こそが実在である。なにを思っているにしても、その思いが変化するとしても、それでもそれを思っているのは自分である。どうも養老さんはそれを否定したいわけである。養老さんはそれを発達心理学に帰する。
 西洋人の最初の記憶というのは、自分が自分であるということを発見した強烈な幸福感というのが多いという。(「カミとヒトの解剖学」(法蔵館 1992年) しかし日本人の記憶ではそのそばに母親が一体のものとしているのではないかという。
 ということで、最終的には例によって脳の働きということになってしまう。日本人と西洋人は成育の過程で、異なる脳の働きをするようになってしまう。われわれは西洋人ではないのだから、身につまされない「一貫した自我」なんてものを後生大事にすることはないのではないか、と養老氏はいうのだが・・・。

 ところで、この本は本来元気のない日本の男と元気な女性を論じたものである。その日本の元気なオバサンの代表として、扇千景があげられている。巻末にテリーと扇の短い対談と、テリーのまとめた<扇千景に学ぶ最強の「オバサン道」10か条>というのがある。
 その反対が元気のない日本のおじさんである。好奇心がなく、人間嫌い、自信がないが、背伸びをして100点をめざす。気分の切り替えが悪く、見栄張りでヤキモチ焼き、雑役をこなさないから潰しがきかず、死ぬことがこわい。その正反対が扇さんなんだそうである。
 わたしはこのオバサン道10か条の内、8つくらいはあてはまりそうである。自分はオバサンなのだった。