養老孟司 「無思想の発見」

  [ちくま新書 2005年12月10日初版]


 養老孟司の書き下ろしである。最近、多く刊行される雑誌連載の単行本化とか、聞き書きではない。それだけ力が入っている。しかし何だか変である。不機嫌である。内容が分裂していて何がいいたいかよくわからない。どういう読者を想定しているのかも見えない。今までの養老さんの本の面白さというのは、なんかこれは変ではないですかということを指摘する鋭さと、かなり単純化されたいくつかの見解から事象を強引に説明してしまう力技にあった。それを担保していたのは“変人”というポジションであって、また“変な人”が“変なこと”をいっている立ち位置であった。ところが「バカの壁」が百万部だかニ百万部だか売れてしまって、微妙に何かが変わってしまった。それだけ売れたら辺境にいるともいえなくなるからである。ここから先は邪推であるが、これだけ売れた以上は日本の何かが少しは変わると思ったのではないか? しかし、何にも変わらないではないか? お前ら本当に読んでいるのか? それで不機嫌になっているのではないだろうか? しかし「バカの壁」の定義によって「話せばわかるなんて嘘」なのであるから、売れたって「読んでももらえばわかる」なんてことは嘘なのである。だから変わらなくて当たり前なのだが、養老さんは、なぜ変わらないかを分析したくなったようなのである。それで養老さんが出した結論は、「日本では現実を変えうるような思想は棚上げされてしまう。思想は神棚に祭り上げられてしまう」というものである。それでは日本に思想はないし必要でもないということになってしまう。事実、日本は無思想であるとしばしば言われる。しかし、と養老さんはいう。それでは現実はなぜ変化していくのか、それは現実を動かすなんらかの力があるからである。それは西欧的な観点からは思想とよばれるようなものではないが、それでも思想なのである。無思想は思想なのである。それは仏教に繋がるような何かである。
 というようにまとめてみてもまったくの抽象的な議論であり、なんのことやら全然わからないから、以下、もう少しくわしくみていかなくてはならない。論点に番号をふる。
 1)『寝ている間は意識は切れる。しかし身体はつながっている。よって自分とは肉体であって意識ではない。』
 これを論じるだけで大部の本が書けてしまうはずである。さて、われわれがある人に興味をもつのは、そのひとが示すアウトプットによってである。通常、寝ている人はアウトプットを示さない。自分が自分であるのは自分が示すアウトプットによって、あるいは自分が受け入れるインプットによってである。よって寝ている間の自分は自分ではない(あるいは自分性を相当程度に欠く)。もちろん、おんなの人が寝ていて、その姿がアオウトプットとしてある男の人にインプットされるということはあるかもしれない。だから寝ていても自分である(別の寝ている女性はその男の人に情報=アウトプットとして機能しないかもしれない。あらゆる女性にアウトプットを見る男性もいるけれど)。要するに自分というのは人間関係から生じるものであり、寝ている間は通常は人間関係は生じないというだけのことなのではないだろうか? 養老氏もこの本のどこかで書いているけれども、無人島に一人でいたら、“自分”というものは完全になくなることはないにしても、人の間にいる時とは随分と違ったものとなる。
 2)『日本語では、自分を表現する言葉が多く(ワタシ、オレ、ボクなど)、さらに通常の一人称が場合によっては二人称に用いられることがある(例:「自分、人参嫌いやろ」「いい度胸しているやないか! ワレ」など)。日本語では一人称と二人称がしばしば行き来する。こんな言語はほかにあるか?』
 これまた、本が一冊書けそうな話題である。事実、金谷武洋氏は「日本語に主語はいらない」という一冊の本を書いた。金谷氏によれば、日本語のワタシ、オレ、ボクは人称代名詞ではない。それは一般名詞なのである。なぜなら日本語は動詞が人称変化しないので、構文上主語が必要とされないからである。「好きだ」という日本語は不完全な文ではない。そこに主語を補い目的語を補わなければいけない文ではない。通常それが意味するのは、それを言っている人が誰かを「好き」ということである。時には目の前にいる誰かが言っていることに驚いての発言であるかもしれないし(お前も好きだなあ!)、そこで話題になっている第三者への批評であることもあるかもしれない(あいつも好きだなあ!)が、この文自体は完全な文であり、その意味は文脈が決める。この文の構造が養老氏のいうように「定まった自分」がないことを示すとはいえないであろう。母親が子供に、「ボクちゃん、そんなことしちゃ駄目!」といったとしても、それだから母子が一体化しているとはいえないであろう。
 3)『日本人は実体、あるいは本心への深い確信がある。それだから言葉などはどうでもいいのである。』
 ここで言われているのは、小林秀雄流の「親が子供をあいつはああいう奴なんだという場合に示す理解は、第三者の分析的批評すべてを越えて正確である」といった類のものである。それは実は自分と他人が未分化の世界なのである、と養老氏はいう。そこから話が核心に移っていく。
 4)『俺もお前も一緒くたの世界に、ある日突然、実存的主体としての自己が侵入してきた。これを近代的自我という。』
 大変である。こうなったら本一冊では到底すまない。明治以降の日本の「考える人」の栄光と悲惨のすべてがここにかかわってくる。だから、当然、漱石のことが言われる。則天去私である。しかし、あっという間にそこを通りすぎて滅私奉公、一億玉砕に話題が移るってしまう。私を去るのだから行き着くところは、滅私奉公だというのである。それで今度は敗戦でこりて滅私奉公を全否定して、近代的自我一辺倒になった。でも西欧の個にはそれなりの歴史も必然もあるのに、それがない日本に「自我」だけ入れたらどうなるか? 日本は、壊れるよ! 事実、見てごらん、壊れてきているではないか! という。
 なんだか、この辺り、昔読んだ中村光夫などの私小説批判、自然主義小説批判を思い出した。「社会化した私」とか。おそらく養老氏のいいたいことは、中村氏の時代にはインテリの病気にすぎなかったものが、昨今では、ほとんどすべての日本人の病気になってきているということなのであろう。自分探しとか、自分らしさとか。
 5)『日本語では、「私」は自分個人の self と、「公私の別」の私 private の両方の意味を含むので混乱がおきる。日本では過去においては、公私の私は self ではなく「家」であった。その証拠に、欧米と違って日本では相当小さな家にでもちゃんと塀があるではないか。家のそとにでれば公の世界であるが、家の中は private の世界なのである。新しい憲法は「家」を否定した。だから核家族ができた。核家族は自然にできたのではなく、憲法が作った。一方、西洋では個人が集まって家族を作る。日本と西洋では同じ家族でもベクトルが正反対なのである。憲法の一番の問題は第九条ではない。家にかんする部分である。』
 岡田英弘氏の「この厄介な国、中国」によれば、中国では家に帰ってからさえも private ではなく、妻さえも敵なのだそうであるから、self と private が一致するのであろう。小室直樹の「中国原論」によれば、中国の基本単位は「宗族」であり、父系社会として父の姓は一生ついてまわる。だから当然夫婦別姓である。岡田氏によれば、妻は宗族を異にするのであるから、身内ではない、敵である、ただ自分の子(それも男の子)を作るための道具にすぎないことになる。同じく小室氏によれば、当然中国では宗族の異なる血縁でないものを養子にすることはできない。欧米では日本と同じに他人を養子にすることはできる。しかしその養子には相続権はない。その点で日本と異なる。
 要するに、養老氏は「家」にもいいところはあるよ、それをどんどんこわしちゃっていいの?、ということがいいたいらしい。日本には中国とちがって自分をまもってくれる宗族があるわけではなし、西欧とちがって「個」に耐える訓練もできていないのに、と。
 さて「家」といっても、家族だけではない。擬制のものも含まれる。というか、日本の共同体はほとんどすべてが「家」の擬制である。「文明としての家社会」ということもある。ここらへんは山本七平氏の一連の著作とも深くかかわる。事実、山本氏の論は本書のあとのほうで論じられるの。この養老氏の本の捩れは、「自我」の問題と「共同体」の問題が平行して論じられてしまう点に起因する。「近代的自我」の不幸をいいたいばかりに、「共同体」の問題点の評価が甘くなるのである。それでまず「自我」の問題である。
 6)『自分は身体を実存だと思う。それは30年解剖をやったためであろう。数学者は数学の世界を現実と思い、ある人はお金を、ある人は社会的地位を現実だと思う。それは脳の癖である。それぞれの脳がどういう現実に長く浸かってきたかである。さて、そうであるならば、どのような人も自分という意識のもとで生まれてからずっと生きてきているわけである。意識というものが現実であり、実在であると思うのは当然である。西洋社会はキリスト教社会であり、そこでは霊魂不滅なのであるから、「変わらない私」「自己同一性」が当然の前提とされる。西欧の「近代的自我」とは「不滅の霊魂」の近代的な言い換えである。』
 このことを論理的にたどっていくとどうなるだろうか? どうやら養老氏は「近代的自我」は不幸なものと思っているようである。しかしそれが一神教的伝統と不可分なものであるなら、西欧ではその不幸のもとで生きていくしかないであろう。しかし一神教的伝統のない日本で、なぜ「近代的自我」なんてものをいれなければいけないのか? どうも若者にいたるまで日本人は「近代的自我」に毒されてしまっているようである。それがすでに脳の癖になっているようである。そうであるなら、全員が養老氏と同じように30年解剖をやればいいのである。論理的にはそうなる。しかし、いくらなんでもそれはできないでしょ。だから参勤交代!、ということになる。もうこれ以上都会化することをやめ、脳が人工に浸かってしまう生活をやめて、自然に(それも里山のような管理された自然でもいいから)接触するようにしろ! ということになる。
 たぶん、ここにないのが、どうしようもないのではないですか?、という視点である。今からほんの数十年前までは、人口が増えてどうなるかという議論ばかりがあった。人口が増えて人があふれて海に落ちたらどうしようとみんな心配していた。今はそのような議論はない。人口が減る心配のほうである。生態系というのはそういう風に動くものなのであろう。ある許容範囲以上に繁殖したものはまた減少に向かうのである。これ以上都会化が進み、環境破壊が進めば、生態系が破壊され人類は滅びる。そうなのかもしれない。しかし地球の上にいる生物は人間だけではない。あらゆる生物が滅びるわけではない。そのあとに繁殖するのがごきぶりであるのか、おばさんであるのかはわからないが、そんなことは考えてもしかたがないと思う。養老氏がかって言っていたように「見るべきほどのものは見つ」といえるように、日々生きるしかないのである。
 7)『意識とは「同じ」ということである。自分が連続しているという感覚である。意識とは機能であって、実体ではない。であるとすれば、自我もまた機能であって、実体ではない。』
 こういうことを議論して何か意味があるのかなあ、という気がする。みみずは意識をもっているのか? 蟹は? 蛇は? 鳥は? 犬は? 猿は? 現代の脳科学においても、意識とは何かということはほとんど何もわかっていないわけである。そのときにこういうことを議論することに意味があるのだろうか? お金が機能であるのか実体であるのかというような議論と同じである。事実、養老氏も岩井克人さんの議論を援用して、そういう議論をする。お金は使えるとみんな思っているからお金なんだよ、そういう思い込みがなくなれば、実体はないのだよ、それと同じで、意識はみんなあると思っているから実体にみえてしまうので、本当は働きがあるだけなんだよ、という。そうなのかもしれない。しかし、大事なのは意識がどういう役割を人間において演じているかということであって、それが実体か機能かというような点にはないのではないだろうか? どうも議論のための議論という気がして仕方がない。
 8)『日本が封建的とかいろいろいって今までの世界を壊してきたために、何が失われたか? 「自分という実体」に対する確信が失われたのである。だから「自分探し」が始まる。それは「感覚世界」の不在つまり経験の不足とペアである。自分とは「創る」ものであって、「探す」ものではない。大切なことは具体的な世界を身をもって知ることである。』
 たぶん、しばらく前の会社では、新入社員がどんな生意気なことを言っていても、3ヶ月も仕事をさせれば立派な会社人間にしてみせる、と嘯いていたはずである。頭でっかちな理屈などというのがいかに実社会では役にたたないかを叩き込み、社会人として必要なことは何かを教え込むわけである。なんだか、養老氏がいっているのも同じことであるような気がする。そして、これが日本の無思想の根源なのである。大事なのは人間関係であり、やる気であり、根性であって、理屈ではないのだから、サラリーマンは本を読まなくなる。養老氏は本なんか読むな、具体的な経験をしろ!という本を、ここで書いている。なんだか変なのである。
 9)『「俺には思想なんてない」 これがもっとも普遍的な日本人の思想である。「哲学や思想って抽象的なものだろ。そんなもの現実とは関係ない」 これ以上の「日本の思想」はない。ここには抽象的な言葉ばかりで、具体的な言葉は一つもない。それならこれは思想であり、哲学ではないか? 多くの人はこの言明を胡散くさいトリックと思うであろう。それはこの言い方の裏に「あなたのいう現実とは、一つの思想ではないか」という疑問が隠れているからである。「日本人の現実」とは「世間」のことである。それなら「世間は思想か?」 思想である。世間にはさまざなルールがある。それならその基礎にきまった考え方、思想があるはずである。しかし日本人の多くは、「自分に関係あることが現実、無いものが思想」と思っているのである。しかし、世間も思想もどちらも脳の中にあるものである。それなら両者は補完的である。日本では世間が大きく、思想が小さい。西欧では世間が小さく、思想が大きい。要するに、あちらでは世の中の出来が悪いから、大思想がでてこざるをえないのである。』
 ここら、ほとんど山本七平の「日本教」の世界なのであるが、脳がでてくるところが養老氏である。でも「世間」は脳の中にあるのであろうか? ここでいわれていることは、世の中うまくいっているなら思想などいらない、という話である。
 竹内靖雄氏が「「日本人らしさ」とは何か」でいっているように、「日本人が工夫して使いこなしてきた「共生」型のシステムはそれなりに合理性があり、自分たちだけならば満足すべき結果をもたらす。しかし、「だからこれを堅持すべきだ」という立場をとれば、最後は「鎖国」して「よそ者」を排除し、自分たちだけでやっていばかなくてはならなくなる。」 案外、養老氏は鎖国せよ、といっているではないかと思う。何しろ東大教授時代、英語で論文を書くことを拒否して日本語で書いていた人なのである。
 山本七平氏によれば、日本教徒の信仰するのは「ナツウラの教え」で、信じるものは「自然」である。日本人はそれを無神論であり、科学的であると感じている。人間は「自然」の前で「無心」でいればいい。人間は一皮むけば、裸になってつきあえば、みんな同じ「自然」の支配下にあり、「ナツウラの教え」に従っている人間なのであり、思想などといういうものは、その相互理解をさまたげる賢しらな邪魔者なのである。だから日本人は自分の住む世界のしきたりを伝統による特殊なものとは感じておらず、普遍的なものと思っている。
 あとで養老氏も述べているように、日本人が「自然」に帰依するようになったのは、日本の自然の驚異的な繁殖力によるのかもしれない。不毛な砂漠から生まれる思想とは違って当たり前なのである。いずれにしても地域相対的なものであって普遍的なものではない。 「俺には思想なんてない」というのは、抛っておいてもうまくいく、という信念である。抛っておいてもまた自然は繁殖してくる。抛っておけばいいものを、あれこれ考えていじると反って変なことになるよ、自然にまかせて駄目になったら仕方がない。だから上でわたくしが述べた人間が滅びても仕方がないという考えも、きわめて日本人的なのであり、それをなんとかせねばという養老氏のほうが非日本人的なのではないかとも思うのである。
 竹内氏によれば、日本人の行動原理は利益の最大化ではなく、不利益の最小化なのだそうである。確かに後者の原理のほうが前者よりも軋轢がすくない。しかし、前者と後者が争った場合、ゲームの理論とかによればどういう結果になるのだろうか? 養老氏が恐れているのは、不利益を最小化し、乏しきをみんなで分け合う世界から、利益の最大化の追求の結果、ごく少数の人間にほとんどの富が集中してしまう人が相互に反発しあう世界への移行なのかもしれない。
 10)『日本人はたいてい無宗教、無思想、無哲学であるという。それが日本人の宗教、思想、哲学なのである。昭和30年に大宅壮一が「無思想人宣言」を書いた。丸山真男は「日本の思想」で「日本に思想はない」と書いた。山本七平は「日本の中心には「真空がある」」といった。最近では加藤典洋氏が「日本の無思想」を書いた。無宗教については阿満利麿氏の「日本人はなぜ無宗教なのか」がある。その論旨は日本人は宗教をもっているが、それを宗教とは思っていない、というものであるが。
 「ひとりでにそうなった」というのが日本の思想である。丸山真男の「歴史意識の古層」の「なる」である。なぜなら日本の草木はものすごい勢いで繁茂するから。さらに今西進化論では「なるべくしてなる」という。ところが近世では「なせばなる、なさねばならぬ、なにごとも、ならぬはひとのなさぬなりけり」などというようになった。少しは都会人になってきたのである。日本にはきわめて自然災害が多い(日本は地球の陸地の400分の一なのに、人類史上のM6以上の地震の2割が日本でおきている。噴火の一割も日本)。自然災害を誰のためなどといっても仕方がない。だから日本人は仕方がないという言葉を連発する。』
 わたくしも上のどこかで、あることについて「仕方がないのでは」とか書いたような気がする。日本人なのである。ここで養老氏が述べている人為を排する自然の尊重ということについては山本七平が徹底して分析している。であるからここには養老氏の創見というものは特にはないわけであるが、山本氏が「日本教」といい、それを宗教として、日本人の倫理観の根源を考察したのに対して、養老氏はもっと一般的な思想、哲学にまで考察の範囲をひろげているということはいえるのかもしれない。
 日本人は織田信長の宗教政策から徳川政権による檀家制度によって脱宗教化したというのが一般的な見方であろう。わたくしは文明化と脱宗教化はほとんど同じものと考えているけれども、いずれにしても、江戸時代が大文明を築いたということと脱宗教化は密接に関係しているであろう。さて、それならば思想というのは宗教の圧力のないところでは栄えないのであろうか? わたくしは江戸時代の思想家についてはまったく不案内であり、何もいうことができないけれども、文明社会は大思想を生まないのではないかという気がする。養老氏がいうように、自由・平等・博愛などということがいわれるのは、それらが欠乏しているからであることは間違いない。たぶん江戸時代には、ある範囲において自由・平等・博愛が実現していたのである。己の則を越えない限りは。
 11)『自分は「俺には思想なんかない」という状態を維持できるにはどうしたらいいのかを考えている。これまでは世間という「実情」があった。明治の人がいった和魂とは世間の習慣のことである。その和魂が危なくなってきている。もともと「思想がない」のに「世間という現実」がなくなったら、すべてが崩壊してしまう。
 日本で思想が世間に呑みこまれてしまわないためには、テロに走るしかない。三島由紀夫である。危険な思想でなければ思想でなく、思想であろうとすればさらに危険になるしかないという悪循環である。大事なのは、「思想がないという思想」は思想の一つのありかたであって、ただ一つの思想ではないということである。今次大戦、アメリカは戦争は現実であると思っていた。それなのに日本は戦争は思想だとした。だから神風特攻隊である。その後は懲りて、思想じゃない、現実だ、というようになったのだが。』
 ここで養老さんがいっていることは、「思想」は騒ぎをおこさなければ相手にしてもらえないということである。養老氏は、全共闘運動という「思想」にまきこまれてエライ目にあった。そういう騒ぎをおこす「思想」はこりごりということなのだろうか? しかし、ここにも世間が関係してくると思う。非国民という奴である。《「思想」もみんな一緒に!》になってしまうのである。この非常時に化粧するとはとか、その格好は何だとかいうやつである。養老さんだって、俺が研究を放棄して身を捨てて運動に参加しているのに、お前だけ研究を続けるなんて許せない、という論理にやられたはずである。
 「思想」が騒ぎを起こすことでようやく承認されるのは、騒ぎをおこすという損なことをやっていますということをみんなにみせることによってなのである。一番の損とは自分の命をなくすことだから、とにかく三島由紀夫は自分の思想を残すことができた。ただ書物として刊行しているだけなら、口舌の徒なのである。わからないのは養老さんは大学紛争?闘争?時代に世間に痛い目にあっているはずなのに、なぜ世間を擁護する方向にいくのだろうか、ということである。東京大学という世間の中にいて散々いやな思いをしたはずなのである。東大を定年前にやめるという損をしてみせることによって、ようやく何がしかの承認を得ることができたはずなのである。もちろん、あいつは食っていけるからあんなことができるんだよな、という悪口を込みにしてである。
 阿部謹也氏の「「世間」とは何か」は、ある女子学生から「先生、中年の男性ってどうしてあんなに汚らしいのですか」という質問をうけたことから、巻をおこしている。阿部氏によれば、それは《わが国の男社会=世間》の問題なのである。わが国の男性達はわが国独特の人間関係の中にあって必ずしも個性的に生きることができないのである、と氏はいう。養老氏が以前よくいっていた、外人からみると、日本人は生きていないように見えるというのも、このことをいっているはずである。阿部氏の本は最後に金子光晴の「寂しさの歌」という詩を引いている。そして日本人の寂しさは世間から来るということを言っている。東大をやめた翌日、世界が倍明るくなったといっている養老氏がそのことを身に沁みて感じていないはずはないのだが。
 11)『現実とは五官で捉えられるが、思想はそうではない。中枢神経系とは入力に対して出力を返す装置だが、入力に対する出力が中枢神経系にふたたび返される状態、すなわち入出力の自己回転状態が考えるということである。』
 ここらへんで理科系の人である部分がでてくる。しかし、前にも養老氏自身が書いているように数学者にとっては数学の世界は実在する(数学の世界などというものが五官で捉えられるだろうか?)。そうであるなら、思想の人にとっては思想の世界は現実として実在するのではないだろうか? わたくしはほとんど哲学の本など読んだことがないが、前にアーレントの本を読んでいて、この人にとって「仕事」というような概念がありありと手にとれるものとしてあるのだなあということに驚嘆した。カントにとってはなんとかアンチノミーとかいうのもありありと手にとれるようなものとしてあったのではないだろうか? マルクスにとって剰余価値とはそういうものだったのではなかったろうか? 作曲家にとって作品とは目にも見えるものなのではないだろうか?
 養老氏は長年、死体というモノを相手にしてきただけでなく、同時に《解剖とは何か》といった五官では捉えられない問題もまた現実であるような、とても変わった人だったのではないだろうか? だから氏は文科系の人間に対しては、モノという現実を尊重しないことに苛立ち、理科系の人に対しては、モノという現実だけしか目になくて思想に関心をもたないことに苛立つのである。そして、理科からも文化からも胡散臭い目でみられるという可哀想なことになってしまう。何だか気の毒である。
 12)『無思想の思想とは丸山真男のいう実感信仰である。しかし、それが駄目なのではない、有思想がとんでもないことは、アメリカの中東戦争がよく示しているではないか?』
 ここでの有思想というのがいつの間には一神教になってしまっているのである。西欧にだって反・一神教の思想も大きな潮流としてあるはずである。もちろん、一神教に対抗するという意味で大きな影響を一神教から受けているのであるから、同じ穴の狢ではあるかもしれないけれども。ここでの養老さんの議論はいくらなんでも乱暴である。無思想の思想を擁護するために、有思想として一番叩き易い相手を前面に出しているという嫌疑なしとしない。
 さて、ここからが大問題の部分である。
 13)『無思想の思想は仏教由来であろう。自分は「唯脳論」を書いたあと、「阿含経」を読んで、自分の書きたかったことと同じことがそこにあってびっくりした。お経では感覚世界を「色」という。概念世界は「想」「識」「意識」などといわれる。仏教思想とは「脳から見た世界」である。「日本の無思想」とはじつは般若心経みたいなものである。』
 仏教のことは全然しらないけれども、徹底した認識論の世界であって、認識の危うさについてきわめて自覚的であるというは事実であると思う。三島由紀夫の「暁の寺」を読んでいて、延々と続く唯識論談義に閉口した記憶があるけれども、大乗仏教というのはカソリックの三位一体論に勝るとも劣らない議論のための議論の世界、ほとんど言葉の遊戯の世界という部分をもっていると思う。われわれの必要とどこでつながっているのかが見えないのである。かってニューエイジサイエンスは、量子力学の世界が中国の陰陽の思想、曼荼羅の思想に先取りされていたなどということをさかんにいっていた。養老さんがいっていることもそれに近いと思う。仏教は認識論である。認識は脳でする。ただそれだけのことではないだろうか? ちょっと養老さんはアブナイように思う。
 14)『世間の人の多くは今ではサラリーマンとなった。それが困る。仕事という現実より会社という概念世界のほうが大事になってしまうからである。自営業が減ったことで世間が危うくなった。仕事は感覚世界=現実に根付いていなくてはいけない。概念の世界は危ういが、感覚の世界は危うくない。』
 しかし、それをいっても仕方がないでしょうが、という気がする。自営業が減り、サラリーマンが増えてくることを逆転できるだろうか? 第一、サラリーマンはこんな本読まない、まさに思想と関係ない人たちなのである。養老氏は根っからの思想の人である。抽象への志向をもつひとである。「あとがき」で養老氏は70歳近くなって、日本が心配になってきた、と書いている。しかしその日本の大衆の大部分は抽象への志向などまったくもたない人、思想への渇きを持たないひとである。そういう具体の世界に生きる人をとりまく現実がヴァーチャルなものになってしまったら、日本は一体どうなるのだ、もっと具体的な手触りのある仕事を取り戻せ、と養老氏はいう。でも大衆は答えるであろう。そんなことを言って、どうやって食べていけばいいのですか? 養老氏がやっている虫取りは一文にもならないであろう。そういうことができているのは、本がそこそこ売れているからである。その本を買っているのは大部分が思想の人、抽象の人であるはずである。「バカの壁」が売れたのは、何かの間違いだったのである。
 届けたいところに声が届かないのだから養老氏があせるのはよくわかる。だからなのか最後の数十ページは内容がほとんど支離滅裂である。何をいいたいのかよくわからなかった。なんだか三島由紀夫自衛隊での最後の演説みたいな気がしないでもない。「このままでいくと日本は滅びるぞ! お前たちそれがわかっているのか!」 「なにわけわからんこと言っているんだ馬鹿!」
 養老氏が自ら書いているように、この本は売れないであろう。
 この本の内容自体は以前刊行の「運のつき」とあまり変わらないように思う。しかし、そこでとりあげられた事実をどう見るかが随分と変わってきている。以前が自省的であったとすれば、ここでは他責的である。「世間」に対するスタンスもほとんど正反対といっていいほど変わってきてる。確かに「人は変わる。それだから生きることは甲斐がある」のではあろうが、以前に「運のつき」を書いたのも同じ養老氏なのであるから、以前はこのように書いたが、この点について自分はこのように考えを変えたので、以前自分が主張した××については撤回する、というような書き方をするのが普通ではないかと思う。
 君子は豹変してかまわないのであるが、納得できる豹変となんだか理解しがたい豹変がある。どうも本書での養老氏の変貌にはよくわからないところがある。
 ところで、今、ぱらぱらと読んでいる入江昭氏の「歴史を学ぶということ」に教科書に墨を塗ったという話がでてくる。入江氏は養老氏よりも2〜3歳年上であるが、それについてこう書く。「(この墨塗りは)私たちの世代がもっともよく覚えていることであるが、この点について私の日記が唯一触れているのは、一九四六年3月二十六日になってのことで・・・」「やはり記憶と「作り話」とが混乱している例である。」
 養老氏はこの墨塗りが世の中が信用できないものであることを自分に実感させ、自分のものの見方に決定的な影響をあたえたとあちこちで書いている。入江氏はそんなに意地悪な人ではないようだから、この記載が養老氏への嫌味であるとは思えないけれども、養老氏の書いていることは後智恵ではないかなあという気がしないでもない。人が変わるとすれば、記憶もそれにつれて変わるかもしれないのである。
 
 金谷武洋「日本語に主語はいらない」 [講談社選書メチエ 2002年]
 岡田英弘「この厄介な国、中国」 [WAC 2001年]
 小室直樹「中国原論」 [徳間書店 1996年]
 山本七平日本教徒」(山本七平ライブラリー14 文藝春秋 1997年)
 竹内靖雄「「日本人らしら」とは何か」 [PHP文庫 2003年]
 阿部謹也「「世間」とは何か」 [講談社現代新書 1995年]
 入江昭 「歴史を学ぶということ」 [講談社新書 2005年10月]


(2006年3月29日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)

無思想の発見 (ちくま新書)

無思想の発見 (ちくま新書)