(13)2011・4・3「原理主義」

 
 今週号の「週刊文春」に養老孟司さんと阿川佐和子さんの対談が掲載されている。
 今度の地震原発事故の問題について、養老さんは、地震は自然の問題、原発は技術の問題といっている。地震津波は自然現象で仕方がない。問題は原発は技術の問題であるのに政治の問題となってしまったことである、と。政治の問題は原理論となってしまう。白か黒か、1か0か、all or nothing のどちらか。反対派は原発は原理的に危険、だから全廃という。反対派は原発をもっと安全にするという議論を提示することはないし、そういう議論の土俵には絶対にあがってこない。(それをいいことに?)推進派は、原発なしにエネルギーをどう手当てしていくのか? もう50基もつくってしまった、いまさらどうしようというのだという、これまた原理論になってしまって、そのやむをえない原発であるのなら、その危険性をいかにして少しでも少なくしていくのかという技術の問題がどこかにとんでいってしまう。
 反対派からすれば、現状を改善していくという議論がすでに現状肯定になってしまう。一方、肯定派は(本当はそうは思っていなくても)現状にはいかなる問題もないといいはることになってしまう。なぜなら、少しでも問題があるとみとめると、反対派はそれを改善せよというのではなく、全廃せよといいだすのであるから。
 こういう議論でわたくしが思い出すのは、かつての日本社会党江田三郎氏が提唱した「構造改革」論である。といってもすでにわからない方が多いだろうが、ある時期、最大野党であった社会党は実はマルクス主義の政党であったわけで(日本には、日本社会党日本共産党と二つのマルクス主義の政党があり、主導権争いをしていた)、その日本社会党右派の江田三郎氏(江田五月のお父さん)が構造改革論ということを言い出した。革命により資本主義を転覆し「原理的に」まったく資本主義と異なる共産主義社会を実現しようとするのではなく、現在の資本主義社会を少しづつ改善していくことにより社会主義社会を実現していこうという主張であった。
 それはたちまち多方面から集中攻撃を受けて、あっという間に沈没してしまった。そういう主張は資本主義を肯定するものであり、その延命に手をかす悪魔の議論であり、人民の敵であるというようなことであった。「修正主義」というが江田氏へのレッテルであった。
 社会党左派の背後にいてその理論的バックボーンであった社会主義協会の代表向坂逸郎氏などはもう「マルクス恋人、マルクス命」みたいなひとで、自宅に5万冊にも及ぶマルクス・エンゲルスレーニン関係の文献を蒐集し、それをまもるために防火づくりの大書庫をつくっていたというようなひとで、このひととマルクス主義について議論したら勝てるひとはあまりいなかった。江田三郎氏などは手もなくひねられてしまった。
 なにしろ構造改革論などというのはマルクスの論には完全ではないところもあると認めるものなのであるから、マルクス原理主義」の立場からは、最大の敵となってしまう。向坂氏の議論は「マルクス様絶対」なのであるから、江田氏の論はマルクスの本のどこどこに反するかを言えば勝ちになった。日本にある具体的な問題をどのように解決しようかという議論ではなく(そのような議論は資本主義を肯定するものとなる)、日本の現状をマルクスの著作によって分析すればこのようであるということを提示するものであり、資本主義がいづれ崩壊することは歴史の必然なのであるから(そのことをマルクスが科学的に示したことになっていた)、今の日本はその崩壊過程のどこにあるのかを明らかにすることが最大の仕事であり、日本をどうするかなどということは議論してはいけないのであった。
 この対談での養老氏の議論は原発反対派からみれば、原発肯定の「修正主義」ということになるのだと思う。要するに技術などというのは背景に思想をもたなければ体制維持の側に自動的に立ってしまうことになってしまうことになる。
 しばらく前に読んだ東浩紀氏の本に、、もはや人文学は社会を動かす力を失っているのであり、これから世界を動かしていくのは工学であるとあった。まことにそうであろうと思ったのだが、これもまた一部の人にとっては単なる体制擁護論と見えるのであろう。
 そしてこの対談では言われてはいないが、養老氏の年来の主張によれば、原理主義をもたらしたものは一神教なのであり、それこそが諸悪の根源なのであるということになる。これまた同感なのであるが、この対談ではそれに対抗するものとしての仏教の縁起論がでてくる。これが困る。仏教は宗教ではなく認識論なのかもしれないが、それは一つの見方であって、「正しい」見方ではない。もしそれを「正しい」と主張しだせば、それはまた原理主義になってしまう。
 西欧を覆っていた原理主義を覆していったのが啓蒙主義なのだと思う。啓蒙主義がいっていることは「何が正しいかはわからない」ということであり、「だから互いに許しあおう」ということなのだと思う。そして「何が正しいかはわからない」が、それでもわえわれの暮らしを少しづつ暮らしやすいものにしていくことは可能であるという信念である。その啓蒙主義とワンセットでてきてしまうのが「近代的自我」である。養老氏はこの「近代的自我」こそが世界を自分と切り離されたものとして認識する諸悪の根源であるとする。「近代的自我」は一神教的な世界観を倒立しただけのものであり、自分が神になったというだけのことかもしれないが、しかしわれわれはいまある世界に生きていて、それは西洋が世界を席巻した世界なのであり、われわれは150年ほど前に西欧を受容する選択をした歴史を生きてきたのであるから、それをなかったことにすることはできない。それがわれわれが飲んでしまった毒であるとしても、それを少しづつ解毒していくしか道はないわけで、「近代的自我」を捨てて仏教的な縁起の見方を受け入れよなどといっても、何の効用もないだろうと思う。
 多くのひとが「昔の生活には戻れない」というが、なに「戻りたくないだけさ」と養老氏はいう。しかし「昔の生活に戻れ」というのは「原理主義」であると思う。わたくしはピース・ボートとかいった環境運動に強い「原理主義」の匂いを感じるのだが、養老氏の論にもそれに近い何かを感じる。
 とにかくも原発事故は事実としておきてしまったのであり、それは技術によって泥臭く地道に少しづつ繕っていくしかない。その事故の根っこにあるものとしての日本人論などをするのは(わたくしもしているが)、当面の事態の改善のためにはあまり意味がないのではないかと思う。