その3 読んできた本(日本人の書いた本)

 
 HPをはじめた2001年ごろの記事を見ると、英語のお勉強をさかんにしている(といってもやさしい英語の本を読んでいるだけだが)。数えきれないくらいの劣等感があるなかで、英語はその中で筆頭で、つくづくと若いころもっと勉強しておくのだったと思う。しかし、語学は習得するのに努力と忍耐が必要なわけで、わたくしのような怠惰と無精のひとは言っても仕方がないことではある。翻訳されていない本を原語で読めればいいのにと思うことは多いが、日本語で読むのの10倍くらい時間がかかって、しかもちんぷんかんぷんなのだからどうしようもない。本はある速度で読まないと頭にはいってこない。日本が翻訳大国であることに感謝するしかない。日本の翻訳のレベルも随分と向上してきているのも有難い。
 それなので、この10年読んだものといえば、勉強用のものをのぞけば日本語の本ばかりである。
 日本人の書いたものでは、養老孟司橋本治内田樹の三氏が主で、それに次いで中井久夫氏と小谷野敦氏のものが多い。
 養老氏、橋本氏、内田氏はお友達同士のようである。三氏に共通するところといえば、日本以外では通じないところかもしれない。これは悪い意味でいっているのではない。それぞれ現在の日本の問題に対して発言しているであり、万古不易の真理を追究しようなどとはしてないのだから、当然そうなる。
 自然科学は、一応どのような時においても成り立つことを論じるものである。それに対する人文学は人間に文明が生じてから後におきたことについて議論するのだから、たかだかここ2〜3千年のことしか対象にしていない。人間の歴史は少なくとも100〜200万年はあるらしいから、人文学は生物としての人間を論じているのではなくて、文明化した人間を論じる。それならば文明化した後の人間には共通の問題が生じるのかといえば、それを肯定する立場もあれば、それぞれの文化によって問題が異なるという立場もある。もしも文化によって生じる問題が異なるのであれば、日本の問題と欧米の問題は異なることは当然となる。
 養老・橋本・内田の各氏は、日本には日本の固有の問題があるという立場をとっている。このかたたちの関心は日本の現在にある。であれば、その著作を翻訳しても、その問題を共有しない日本以外の国ではまず関心をひかないだろう(ある時代にはその時代に共有する問題があるが、その問題が具体的にあらわれる形態は個々の文化によってさまざまであるという見方もあると思う。その場合、日本での具体的な問題からもっとその根にある時代に共有する問題を考えることは可能であることになる。たとえば村上春樹の小説が世界中で読まれているというようなこと)。
 養老氏の問題意識の出発点はなぜ日本人が学術論文を西洋で決められたスタイルでかかなければならないのだろうかということにあったのだと思う。Introduction Metearials and methods Results Discussion といったスタイルである。なぜその流儀で不得意な英語で書かなければならいのか? 英語帝国主義への疑問、自然科学は西洋のものか?という疑問である。
 橋本氏は氏が若いころ、周囲の若者たちがしゃべっていた言葉がぜんぜん理解できなかったということが原点であろう。自己だとか自我だとかとにかく明治の「近代化」以降翻訳語として日本で広まった言葉を体が受けつけないという不思議なひとであり、自称「近世」のひとなのである。
 内田氏の原点というのがよくわからないのだが、「わたしの詩歌」に所収された「二度と再現できない歌 ―ワルシャワ労働歌―」という文で「起て 同胞よ ゆけ闘いに/ 聖なる血にまみれよ/ 砦の上に我らが世界 築き固めよ勇ましく」という歌詞のこの歌について「私の記憶に甦るのは、メロディでも歌詞でもなく、それをユニゾンで歌っていた巨大な「マッス」の自分が一部分であったという感覚である。この歌詞の中の「同胞」とか「我ら」という言葉を口にしたときに、私自身が私のかたわらで腕を組んでいた見知らぬ学生に感じていた幻想的な一体感である。/ もし、むかし多細胞生物であったものの断片が、その後、ひとり剥離して、単細胞生物になって、「私がかつて多細胞生物であったころ」を回想したときの感じ、と言ったら(分かりにくい比喩だけれど)意のあるところは汲んでもらえるかも知れない」と書いている。内田氏によれば人間が孤独であるのは間違っているのであって、仲間とともに生きているという感覚をもてず「我ら」というように感じられないとすれば不幸なのである。氏の初期の著書「「おじさん」的思考」の「あとがき」で「それでも、なんと言われようと、「正しいおじさん」たちは、仲間たちと手に手を取って額に汗して仕事をするのはそれ自体「よいこと」だという職業倫理からは逃れられないし、「強いお父さんと優しいお母さんとかわいい子供たち」で構成される理想の家族像を手ばなせないし、「強きをくじき、弱きを助ける」ことこそとりあえず人倫の基礎だと信じているし、争っているひとびとを見れば、ことの理非はともかく割って入って、つい「話せば、分かる」と言ってしまう。/ だが、いまはそういう「正しいおじさんの常識」が受け容れられる時代ではない」と書いている。おそらく、この「正しいおじさん」が日本なのであり、そのおじさんを意気あがらなくさせているものが西洋(近代)なのである。
 しかしわたくしは「ワルシャワ労働歌」的なものが駄目なのである。吉行淳之介に「戦中派少数派の発言」という文章がある。「昭和十六年十二月八日、私は中学五年生であった。その日の休憩時間に事務室のラウド・スピーカーが、真珠湾の大戦果を報告した。生徒たちは一斉に歓声をあげて、教室から飛び出していった。三階の教室の窓から見下ろしていると、スピーカーの前はみるみる黒山の人だかりとなった。私はその光景を暗然としてながめていた。あたりを見まわすと教室の中はガランとして、残っているのは私一人しかいない。そのときの孤独の気持と、同時に孤塁を守るといった自負への気持ちを、私はどうしても忘れることができない。・・中学生の私を暗然とさせ、多くの中学生に歓声をあげさせたものは思想と名付け得るに足るものとはおもわれない。それは、生理(遺伝と環境によって決定されているその時の心の肌の具合といったものともいえよう)と、私はおもう。」といったものである。
 わたくしもまたその生理をもっていて、中学から高校、大学の教養学部まではそれでやってきた。だいたい文学青年になるような人間はそういう生理を持っているのではないかと思う。もしもわたくしが医学部に進学した時点で大学紛争(闘争)に行き当たることがなければ、一生をその生理でやりすごすことをしようとしたのではないかと思う。一生を思想ではなく、その生理で乗り切った吉行氏のような強さをもたないわたくしは、紛争(闘争)に遭遇して、論理をあるいは思想を必要とした。最初に神輿にしたのが福田恆存の論である。福田氏はD・H・ロレンスに由来する見方として「個人のための宗教と集団のための宗教」ということを教えてくれた。キリスト教は個人のための教えとしては愛の宗教であるが、集団のための教えとしては憎悪の宗教となるといったことである。それはとりあえずわたくしの集団への嫌悪に理論的な支柱をあたえてくれた。(わたくしは今でも同窓会的なものが駄目である。肩を組んで校歌を歌うなどというのには鳥肌が立つ。生理なのだと思う。)
 橋本治氏は「宗教なんかこわくない!」で「“自分の頭で考えられるようになること”―日本に近代化の必要が叫ばれるようになってから、日本人に終始一貫求められているものは、これである。これだけが求められていて、これだけが達成されていなくて、これだけが理解されていない」といっている。また「自分の頭でものを考えると、当然のことながら、“孤独”というものがやって来る。そうなると、日本人の多くはすぐに心細くなって、「この心細い自分をなんとかしてもらいたい」ということになって“救済”の方へ行ってしまう。「自分の頭でものを考えて、それで孤独になるのなんか当たり前のことじゃないか。“自分の頭でものを考える”ということは、“一人で考える”ということなんだから」という、いたって単純な発想がないからそうなる」ともいう。
 内田氏の論と真逆に思える。内田氏が「日本の正しいおじさん」といっているものは、福田恆存の論で「スラブ」といわれているものなのだと思う。要するに人間は本来「善」なるものであるのだが、西洋からいろいろな変な理説が輸入されそれに汚染されてしまっっていて「善き」ものが失われているというような見方である。
 小谷野敦氏が「江戸幻想」として批判しているものは、福田氏の「スラブ」であり内田氏の「日本の正しいおじさん」なのだろうと思う。小谷野氏は普遍を信じるひとで、日本人のみがもつ美点といった論(あるいは日本人が過去にはもっていた美点といった論)を許すことができないのだと思う。
 わたくしはキリスト教(あるいはユダヤキリスト教的な「一神教」。同じ「一神教」でも、イスラム教というのをどう考えたらいいのかはよくわからない。おそらくイスラム教は普通の宗教であって、ユダヤキリスト教がきわめて特殊な宗教なのではないかと思っている。しかし、その特殊な宗教が世界でもっとも普及した宗教の一つとなっており、われわれ日本人が宗教というとまず思い浮かべる宗教ともなっている)こそが諸悪の根源ではないかという抜きがたい偏見を持っていて、西洋こそが特殊なのであって、それ以外の地域のほうが普通なのではないかと思っている。であるので、日本特殊論ではなくて、西洋特殊論の信者である。そしてその観点からみれば、養老氏にも橋本氏にも内田氏にも共通な何かがあるように思える。内田氏が神輿としているレヴィナスユダヤ教のひとらしい。わたくしからみるとレヴィナスというひとは(内田氏の紹介からみるかぎり)きわめてカトリック的な人にみえるのだが、内田氏にはユダヤ教キリスト教はまったく違ったものと見えるのであろう。
 しかし、西洋特殊論者であるわたくしはまた自然科学を基本的に信じているということがあって、これが実に困る。自然科学というのは西洋由来のものであり、キリスト教に根をもつ。西洋が特殊であって、そこからでた自然科学が普遍であるなどということが整合性をもつだろうか? わたくしがあちらの本(ピンカーやデネット、ハンフリー、カワチやマーモット、ダマシオ、さらにはタレブといった人たちの本)をここ10年ほど読んできているのはそれを考えるためなのだと思う。だが、それはまた「あちらの本」として稿をあらためて考える。中井久夫氏についても、そこで考えることにしたい。
 それからまた、西洋の特殊と普遍ということを考えると「クラシック音楽」という問題を避けて通れないと思う。クラシック音楽は西洋に特殊な音楽であるか、それがこれほど普及している(ポピュラー音楽というものをクラシック音楽の後裔であるとみれば)のはそれが普遍的なものであるからかという問題である。これもまた「音楽の本」として、別に論じたい。
 

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