浅羽通明 「アナーキズム 名著でたどる日本思想入門」

   〔ちくま新書 2004年5月10日初版〕


 浅羽氏というのは思想について面白い見方をするひとで、思想というのはそれを読む人の状況によって必要になったり、関係のないものであったりするものだという。だから思想だけをとりだしてそれの価値を論じることはできず、それがどのようなひとにとっては大事な思想か、とうことがいえるだけであるという。
 本書は日本のアナーキズム思想の紹介であるが、大杉栄から日本におけるベルグソン哲学、権藤成卿埴谷雄高鶴見俊輔笠井潔から松本零士までがとりあげられている。
 最初に「アナーキー・イン・ザ・UK」と「イマジン」の歌詞が紹介される。面白いのはこの両方の歌詞が明白に反キリスト教である点である。西欧においては自由を抑圧すると思われているのはなによりも宗教だからなのであろう。
 「イマジン」で目につくのは、天国や地獄を否定することが、自由の希求と結びついていることである。橋本治の「宗教なんかこわくない」の<解脱とは輪廻転生の否定>なのだという説とどこかで結びつくのだろうか?
 浅羽によれば、アナーキズムとは、自由の原理主義である。
 浅羽の問題意識は、日本においては「自由な個人」それ自体が輸入概念であるから、日本では「共同体」をでて「個人」になること自体がすでに、アナーキズムに加担せざるをえないことなのではないかというものである。
 ここで紹介されている大杉栄はなかなか魅力的な人物である。大杉栄国定忠治論。気まぐれであることの魅力。ファーブル「昆虫記」初訳者としての大杉。「生」の肯定者としての大杉。
 さらに東映やくざ映画アナーキズム論。
 さて、大正期の日本の大きな思潮として生命主義があったという。「個人」と対立するものとしての「生命」。ニューエイジ科学はその再来である。
 権藤成卿の「社稷」:社は土地の神、稷は穀物の神で古代国家の守護神であるが、転じて国家の意味。権藤は農本主義者として、鼓腹撃壌する民(すなわちアナーキーな自由な民)を毀損するものとして国家をとらえた。この社稷をポジティブにとられえるか、ネガティブにとらえるかが、日本ではアナーキズムの見方がかわる。これをポジティブにとられると、欧米のアナーキズムの「個我」の絶対自由への追求という方向とはまったくことなるアナーキズムができあがる。現在、「社稷」は「会社」として生きている。
 ダメ男のハシリとしての埴谷雄高
 左翼版無教会主義の大司祭としての吉本隆明
 サンケイ保守文化人はアナーキズムと親和性をもつ。
 自由のジレンマの最高の文学的表現としてのドストエフスキーの「悪霊」。
 アナーキズムの最高の実践としての毛沢東文化大革命
 千年大国説としての全共闘運動。
 大東亜戦争千年王国をみた?かもしれない三島由紀夫江藤淳吉本隆明
 日本では「世間」の規制が最高の権力であるから、国家を否定しても権力を否定したことにはならない。
 義経西郷隆盛の再来としてのアナーキズム
 個人に価値をおくがゆえに、国家を構想せざるをえないという近代の矛盾がそのままアナーキズムの矛盾。
 これら多くの問題提起をしたあと、浅羽は最後に問う。現在においてもまだ「自由」は魅力的か?

 こういう本を読むとつくづくと自分はアナーキズムに親和性がある人間なのだなと思う。それも社稷はだめで、基本は抛っておいてくれ、というきわめて逃避的なアナーキズム
 面白かったのは、わたくしが面白がって読んでいる経済学者の竹内靖雄氏がアナーキズムの列に加わっていることである。小さな政府志向もアナーキズムということになるのだろうか?
 さて、浅羽の問いへの答え。もちろん、現在においても「自由」は魅力的である。自分が自分の主人公になるということ以上に魅力的なことがあるとも思えない。
 しかし、そういうことになんら魅力を感じない人もまた多いはずであって、そうでなければ、困る。あらゆる人間がアナーキストである社会など成立するはずがない。とすれば、アナーキズムというのはそれがマイナーでなければならないことをそのはじめから運命づけられているというはなはだ奇妙な思想ということになる。
 だから浅羽のいうように、あるひとに必要な思想はある人には無用のものであるということがアナーキズム以上にあてはまるものはないのかもしれない。
 この本を読んでも感じるのだが、鼓腹撃壌の思想、帝力いずくんぞ我に力あらんや、という思想は東洋においてはきわめて根強いものであり、西欧においても、国民国家形成以前にはそうであったのではないかと思われる。アナーキズムの問題は国民国家の問題なのである。
 共同体の監視、隣組の監視のない鼓腹撃壌などというのが、はたして可能なのであろうか?