内田樹 「街場の現代思想」

   [NTT出版 2004年7月6日初版]


 なんだか随分と安直につくられた本で、読みでがすこしあるのは最初の「文化資本」の話の部分だけ。それで文化資本とは、「階層」を規定するものであり、金を得ることにより上昇できる「階級」とはことなり、自分の努力ではどうにもできない、気がついた時にはすでに差ができているようなものをふくむ。一部の文化資本は学校で努力してみにつけることができるが、家庭で自然に身につくようなものはどうにもならない。家に万巻の書があり幼少時に古典をあらかた読破するとか、家で家族で弦楽四重奏を楽しんでいたので素晴らしい音感になるとか、家の壁にセザンヌとか池大雅がかかっていたので本物の絵を鑑定眼ができてしまうとか、なんだそうである。そういう家庭環境にあったものが、かならずしもある年齢から努力したものより、いつでも優れているわけではないが、そういう努力せずして身につけた人には、余裕とゆとりがあるのだという。平気で知らないということがいえる。そういう血統による文化貴族と学歴による文化貴族の間の階層文化が今日本で急速に進行しつつある。これは日本があまりにも均質は社会であった反動であるにしても、日本を階層で分断することになる危険は動向である、とうのが内田氏の説である。
 これはフランスのブルデューという人の説らしいが、フランスにはとんでもない金持ちはいても、日本には基本的に土地貴族はいなくて、官僚貴族であるから、三代目は唐様では書けても、売り家と書かねばならないので、そういう文化が家庭で蓄積していけるとは思えない。
 それに「知らない」といえるのは自信があるからであって、かならずしも幼少から文化に親しまないと自信ができないということもないように思う。
 ここで論じられているのは要するにスノビズムの問題であるように思われるが、スノビズムがあるうちは大丈夫であるのだと思う。スノビズムというのは上昇志向なのであって、ああいう風になりたいとうことである。それがなくなって、あのひとはあのひと、われわれはわれわれ、身分が違うなどということになって、スノビズムを捨ててしまうようになってしまうことのほうが恐ろしいように思う。見栄というのは大事なのであって、現状に満足しないことであり、努力の源である。
 内田氏もいうように、上昇志向があってそれが満たされないというのは非常に危険な状態である。日本の現状はそれにむかっているのではないかというのが内田氏の判断なのであるが、むしろ問題は、上昇志向の喪失なのではないだろうか?
 上昇志向をもつということ自体がすでに二流の証明であるというのはそのとおりであるにしても、貴族のまわりにスノッブがいるという構造が文化を推進してきたのであって、貴族だけでまわりにスノッブがいなければ、文化は生命力を失ってしまうに決まっている。
 さて、内田氏によれば、酒井順子「負け犬の遠吠え」の「負け犬」は、昔のフランスのランティエ・金利生活者なのであって、これからの日本の文化の担い手は「負け犬」たちなのである。
 まあ「負け犬」たちばかりでなく、今日本で遊んでいるのはほとんど女性なのであるから、文化はそこで担うしかないことは間違いがない。

 本書p150〜151:ある質問があった場合、それの内容にはこたえず、その質問がなぜでてきたのか、という問いを返すというやりかたがある。ユダヤ人の18番であって、問題に次元をひとつあげるという高等知的戦術である。学術的なパラダムシフトを担ってきたのがユダヤ人でありながら、ユダヤ人が憎まれてきた理由がそこにある。これは高等戦術でありながら、質問者をいらいらさせるものでもあるからである。質問自体にはぜんぜん答えていないのだから。
 今わたしはあるところで養老孟司について論争しているのだけれど、養老氏が一部学者からきらわれている嫌われかたはちょっと異常なものがある。この内田説を読んで、そうかと思った。養老氏はいつもこのユダヤ戦法を使うわけだから。というかポストモダンの戦法というのもこのユダヤ戦法なわけで、あなたがそういう質問をするのは、あなたの文化的背景がそうさせるのだとばかりいわれて、いっこう質問には答えてもらえないのが続くと頭にくるというのは、よくわかる話である。