T・イーグルトン「ポスト・モダニズムの幻想」

  [大月書店 1998年5月22日 初版]


 これを読んでみようという気になったのは、最近刊行された同じ著者の「アフター・セオリー ポスト・モダニズムを超えて」(筑摩書房 2005年3月25日初版)を読んで、イーグルトンという人に興味をもったからである。本棚を調べてみたらイーグルトンの「イデオロギーとは何か」が読まないままで置いてあった。ということで「アフター・セオリー」で初めてイーグルトンを読んだのであるが、なかなか興味深い本であった。しかし、そこで論じられている話題が多岐にわたっていて、いまだ未消化であるので、とりあえず、よりコンパクトな本書をとりあげてみることにした。イーグルトンは奇妙な人である。ポストモダニズムの悪口の冴えとえげつなさが一方にあり、己が信奉する思想を論じるときの少年のようなナイーブさが他方にある。それらが同じ一人のひとの中に同居できているのが、とても不思議である。
 昔、マルクス主義を批判するのに、いくらマルクス主義の理想が素晴らしいといっても、ソ連の現状を見ろ、東欧の惨状を見ろ、現実はああなのだという議論があった。イーグルトンがしているのは、いくらポスト・モダニズムが一見立派にみえるようなことを言っているとしても、結果としては高度資本主義体制を補完するものとなっているではないかという方向からポスト・モダニズムを批判し、自分が奉じる社会主義についていえば、それがいかに人間の解放をめざしているかという理想の観点から論じるというやりかたである。そういうダブル・スタンダードとしか思えない論じ方をする欠点をもった人だと思えるのであるが、それでもポスト・モダン思想についての一つの明確な批判の視座を提供している点、社会主義というものについて、現在の時点でもう一度考え直す視座を提供してくれている点で、その著書を論じる価値はあると思う。
 
 ソヴィエトが倒れて、冷戦が終了したことにより、もはや体制は転覆しえないということが時代潮流となってしまっている、とイーグルトンはいう。権力は強固で個人は脆弱である。反体制運動はもはや体制の転覆を意図するものではなくなり、体制にささやかではあっても一撃を与えることだけを希むものとなってしまっている。現在の反体制運動は変革を求める建設的なものではなくなり、破壊的な性格のものとなってしまっている。体制を倒せないのであれば、体制の裂け目こそがねらい目となる。セクシャリティとか、ジェンダーとか、エスニスィティなどがその裂け目としてとりあげらてきた。これらの問題を指摘したことはそれらの運動の功績である。しかし、こういう問題に目がいくということは、もっと大きな問題から目をそらすことでもある。ポスト・モダン思想の果たしている役割というのがまさにそうであって、結局は現状維持に寄与する思想である、というのがイーグルトンの主張の根幹である。
 社会主義というのは不自然で人工的な体制を目指したのであり、不自然であるがゆえに潰えたのであり、資本主義こそが自然な体制なのだろうか? それは自然であるがゆえに望ましい、あるいは甘受するよりしかたがない体制なのだろうか? 確かに、言語とかセクシャリティの問題は重要である。それは認める。しかし、そこでは、いまだ世界にはたくさんの腹を空かせたひとがいることが無視されてはいないか?
 「自由主義ヒューマニズムは、くだらない思想かもしれないが、フン族アッティラよりは、はるかに理性的である」という当たり前としか思えない言明さえポスト・モダンニストは素直に認めることができない。なぜならポスト・モダニストは西欧近代こそが諸悪の根源と考えており、それが絶対的な価値を持つということに反対し、それを相対化することを目指しているからである。自分が住む西欧世界のほうが、フン族アッティラの世界よりましであると考えることは、西欧のエスノセントリズムによる思い上がりに過ぎないとポスト・モダン思想家は考える。とすれば、女性を非人間的な社会習慣にしばりつけようとする文化もまた肯定されるのであろうか? われわれはなぜファシズムを悪とするのだろうか? とイーグルトンは恫喝する。
 ポスト・モダンは歴史に大きな方向があるとする見方を否定する。進歩という方向があるという見方を否定するのである。ミッシェル・フーコーはあらゆる政治体制に反対した。あらゆる政治体制は例外なく抑圧的だからである。
 近代思想が、あるいは自由主義啓蒙思想が自由・正義という素晴らしい理想をかかげて出発したにもかかわらず、その思想が政治の場に降りたときには、なぜか目指したものを達成できず、むしろ正反対のものが出現しまったのは何故かという問いこそが社会主義が答えようとしているものだ、とイーグルトンはいう。この問いは未だに答えられておらず、したがって社会主義の使命も終わってはいない。しかし、ポスト・モダン思想は世界が啓蒙思想が目指したものにならなかったがゆえに、自由とか正義という理想も否定してしまうのである。
 古代においては(ギリシャ・ローマにおいては?)、個人的美徳とか、個人一人だけの幸福という考えは存在しなかった。自由主義などというものはありえなかった。なぜなら、個人が美徳を発揮する手段は都市国家運営に参加することであったから。これは現在の国家が想定する個人の像とまったく対照的である。現代の自由主義国家が社会主義を排除するのは、社会主義がある特定の思想に特権をあたえるからである。自由主義国家は社会主義が幸福概念の多様性を奪うと考える。しかしそれは誤りであると、イーグルトンはいう。社会主義により、窮乏が根絶されれば、幸福探求の基本条件が整備され、選択の条件が増えるとする。社会主義こそが啓蒙思想が目指した理想を達成するものなのである。
 
 本書において、イーグルトンは共同体主義へのある種の共感を隠していないように思われる。万世一系の皇室とともに生きることがわれわれの至上の喜びといった共同体をイーグルトンが目指していないのは明らかであるが、他人の不幸に我関せずで生きている人ばかりの社会をイーグルトンが嫌っていることもまた確かなことであるように見える。他人がどのような悲惨の中にいようとも、今の自分の関心は、おいしい紅茶が一杯のめるかどうかだ、といったようなドストエフスキー的個人の集団としての社会をイーグルトンははっきりと否定する。戦前、特高警察はコミュニストを真の自分の敵とは思っていなかったようである。コミュニストもまた《公》に関心をもつ人間ではあるのだから、マルクス主義という間違った道から引き出すことができれば自分たちの同志となりうる人間であるとしていた。彼らがきらっていたのは天下国家にまったく関心をもたない己の楽しみのみに関心をもつ個人主義者であった。イーグルトンもまた、そういう個人主義者は根無し草であり、社会から孤立し、生活様式を失った不幸な人間であるとしているようである。おそらく社会主義という思想が嫌われるようになった理由の大きなものの一つが、ある種の押しつけがましさということにあるのではないかと思われるが、イーグルトンにもまたその臭みがまったくないとはいえないように思われる。
 《公的領域》と《私的領域》というものは社会主義においてもっとも有効に結びつくとイーグルトンはいうのであるが(そして、ポスト・モダン思想においては最悪の形で結びつくともいう)、この点こそがきわめて大きな問題である。なぜなら、われわれは《公的領域》をなるべく避けて生きようとするようになってきているからである。われわれにそのような生き方をさせているのは、実はポスト・モダン思想なのであるかもしれず、われわれは知らず知らずの内にポスト・モダン思想から大きな影響を受けているのかもしれないが、それでも、《公的領域》にいそいそと参加している人を見ると、どうにも胡散臭い感じがしてしまう。何か時代遅れという印象がしてしまう。その典型が日本共産党員ではないだろうか?
 われわれに《公的領域》を避けさせるようにしているのが、ポスト・モダン思想なのであるかもしれないが、逆に、われれれが《公的領域》をなるべく避けるようになっている時代の動きというものがあり、それがあるからこそポスト・モダン思想というのがわれれれに訴えるものがあるという側面もあるのかもしれない。《公的領域》より《個》のほうを重視するという思潮は必ずしもポスト・モダン思想が生み出したものではなく、むしろ近代の思想そのものが生み出したものであるのかもしれない。近代は《普遍》と《個》を生み出し、ポスト・モダンは《普遍》を否定して、《個》だけを残そうとしているのかもしれない。
 国民国家という体制が《普遍》の側に属するのか《個》の側に属するのかというのは微妙な問題であるように思われるが、ポスト・モダンは《普遍》を主張して植民地経営に乗り出した近代を徹底的に弾劾する。《普遍》=西欧近代であるという西欧のエスノセントリズムを批判する。しかし第二次世界大戦後、植民地での独立運動の根拠となったナショナリズムもまたエスノセントリズムそのものなのである。多元主義、多様な価値の許容ということもまた個々のエスノセントリズムの許容につながる。西欧においてエスノセントリズムを批判することは、西欧の普遍主義を批判し、西欧の拡張主義を批判することになる。しかし一方、途上国においてエスノセントリズムを批判することは、西欧への隷従を許容することになるのかもしれない。そして現代の資本主義はグローバリズムの名のもとに国境を越えて広がるのである。あたかも資本主義というものが《自然》であり、《普遍言語》であるとでもいうように。
 イーグルトンは自分は社会主義者であると言う。しかし、市場経済体制のほうが社会主義経済体制よりも、効率的なのではないかと疑問は本書では提出されていない。ここのところが社会主義をめぐる最大の論点なのではないだろうか。多くの人は社会主義経済体制のほうが市場経済体制よりも、優れていると信じたが故にかつて社会主義を信奉し、それが間違いであったと思ったが故にそこから離れたのではないだろうか? かつては、資本主義経済は恐慌により崩壊することが避けられないということを明示したのがマルクス主義経済学の功績であるということになっていた。わたくしが中学生のころには、世界のあらゆる経済動向の中から、恐慌の兆候を指摘する言説が満ち溢れていた。マルクス主義が失墜したのは、東側世界の崩壊もさることながら、資本主義経済体制の崩壊という予言を誰も信じなくなったことが一番大きいのではないだろうか。現在、経済を運営する手段としてのマルクス主義経済学を学ぶひとは皆無であろう。
 わたくしが中学生のころには、ソヴィエトのほうがアメリカよりもずっと効率のよい経済体制であるように見えていた。5ヵ年計画などというもので、驚異的な経済の成長をなしとげ、長距離弾道ミサイル人工衛星の打ち上げなどでいつもアメリカの先をいっていた。実際にある程度の規模の経済であれば、計画経済のほうが効率がいいのかもしれない。しかし経済規模が大きくなると、無限項をもつ連立方程式を解こうとするようなものであって、物理学の三体問題さえ解けない現状で、解がえられるはずもない。市場経済は最適解ではないかもしれないが、とにかく解をあたえ、経済を停滞させずに運行させていく。そして市場経済を動かしていくのは個人の欲望といったものであって、《公的》な動機ではない。だれも市場経済体制を理想だと思っているわけではないが、それしかないなら仕方がないと思っている。ここには正義などというものが登場する余地はない。自由はあるかもしれないが、それは啓蒙主義がかつて目指した自由とは、まるでかかわりのないものである。
 最近のライブ・ドア騒ぎが示しているのもその一端である。法律に抵触しない限り金儲けを追及することのどこが悪いかといわれると、みな黙ってしまう。最新の「広告批評」の「ああでもなくこうでもなく No91」で橋本治ライブドア騒ぎに言及して、「インターネットで株やってるだけが有効な社会人のあり方だ」というような方向にいって本当にいいのかという疑問を提出している。そして橋本治が述べているように、堀江某にそれなりの支持があるということは、「日本の企業社会には欲求不満が鬱積している」ことを示している。相当多くの人間が日本の何かが壊れて欲しいと思っているのである。ただし、自分がいる安全地帯が壊れないことを前提として。自分の既得権益はまもりたいが、何か今の時代は変だ、変わって欲しいとも思っている。
 市場経済体制などというものが素晴らしいとは誰も思っていない。へとへとになるまで働いて、しかし自分が本当に必要なことをしているという実感がない。何か変だ、でも失業するよりは増しとか思っている。何か変なのである。そうであるとするならば、イーグルトンがいうように、「もはや体制は転覆しえないということが時代潮流となってしまっている」というのがが本当なのか? 今の体制は《自然》なものであって、これ以外の体制など考えられないのか? 「権力は強固で個人は脆弱である」であって今の体制は変えようがないというのが本当にそうなのか? ということが喫緊の問題となるなずである。イーグルトンが社会主義はまだ死んではいないというのは、そのことを言っているはずである。
 イーグルトンは社会主義啓蒙主義の正統な嫡子と考えているわけであるが、それならば、社会主義とはいわず、啓蒙主義にまで立ち返ればいいのではないだろうか? ポスト・モダン思想は、啓蒙主義こそが諸悪の根源であり、西欧の思い上がりの極致であるので、西欧が近代において犯した罪過を贖うためには、徹底して西欧を相対化する必要があるという。たとえば、今のアメリカのブッシュ政権とかを見ていると、なんとおぞましい体制であるかと思う。ポスト・モダンの側のいうことも本当によくわかる。ああいう《我のみ正し、我の側にのみ神のご加護あり》などという態度を見ると、よく神国日本を批判できましたね、と思う。まずアメリカをこそ啓蒙しなくてはならないのではないだろうか? どうすれば啓蒙できるのか見当もつかないけれども、啓蒙しなくてはならないはずである。イーグルトンもささやかな啓蒙を試みているのかもしれない。どうせ、そういうものを読むのは知識人だけであり、知識人はいわれるまでもなく、ブッシュ政権に愛想がつきているのであろうけれども。
 しかし、あのソ連だって倒れたのである。人間性に反する体制はいずれ倒れるのではないだろうか? 人間性などというものを信じる点において、まさしくわたくしは啓蒙主義の陣営の人間であるが、《もはや体制は転覆しえない》とは思わないのである。もしも体制が変わることがあるとしたら、それを構成する人間の一人一人がまともな人間になることによってでしかないだろうと思う。まともな人間などというものを信じる点において、わたくしはまたもや啓蒙主義の側の人間である。本当は、ポスト・モダン側の人間もまともな人間というのを信じているのだと思う。ただ、まともな人間がいると考える人間をまともな人間だとは思わないというきわめて屈折した信じ方をしているわけである。まともな人間など一人としているわけはないと信じるひとだけがまともな人間であるという言明は論理学的には矛盾なのであろうが、そう信じているのではないだろうか? 何も信じられないことだけを信じるとか、何も確かなものはないことだけが確かであるとか、とにかくポスト・モダンはそういう方向にいく。
 立ちふさがる西欧近代を打ち壊さないことには何もはじまらないと思っているからであろうが、ポスト・モダン思想も疑いなく西欧近代思想の潮流の中からでてきたものなのである。西欧とは別に出現したものではない。西欧を否定する思想もまた西欧からでてくるというところに西欧の思想のタフさがある。やはり西欧思想は強大なのである。


(2006年4月16日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植) 


ポストモダニズムの幻想

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