上野修「スピノザの世界 神あるいは自然」

  [講談社現代選書2005年4月20日初版]

 
 スピノザは前から気になっていた思想家である。いろいろな人のいろいろな本を読んでいると随所でスピノザの名前にであう。それも全然思想傾向が違うひとの著作においてなのであるから、これは絶対に大事な思想家であろうと推定されるのだが、なにしろとっかかりがない。自分の問題のどことスピノザがかかわるのかがまったくわからない。《定理一 その本性からみれば、実体は変様に先立っている》《定理二 異なる属性をもつ二つの実体は、たがいに共通なものをもたない》・・・などというのは、だから何なのだというようなものであって、暇人のたわごととしか思えない。自分には関係ないということになって、スピノザといえばレンズ磨きで生計を立てていた廉直なひとというどうでもいいことを知っているだけであり、もう一人の気になる人ライプニッツについていえば、モナドという語と「モナドには窓がない」という句を知っているだけということになる。(なお中央公論社「世界の名著30 スピノザライプニッツ」の下村寅太郎による解説によれば、スピノザがレンズ磨きで生計を立てていたというのは伝説であって事実ではないとのことである。ラッセルの「西洋哲学史」にもレンズを磨いて暮したと書いてあるのだが。よほど有名な伝説なのであろう。)
 それで、最近でたスピノザ入門である本書を読んでみた。
 スピノザが「エチカ」をユークリッド幾何学のような書き方をしたのは、真理とは事物の側にあるとスピノザが考えたからであると著者の上野氏はいう。真理とは誰それの見解というようなものではないのだから、真理を示した著作には著者は必要ないとしたというのである。著者を必要としない本の理想がユークリッドの「原論」であるとスピノザは考え、それを規範として「エチカ」を書いたというのである。
 ユークリッドの「原論」で、《定義1.点とは部分をもたないものである》《定義2.線とは幅のない長さである》《定義3.線の端は点である》・・・においては、著者は必要とされない。点とか線とかいう事物があるだけである。ここにおいて示された点や線の定義とは、そのような仮定をおくということである。であるから《定義23.平行線とは、同一の平面にあって、両方向に限りなく延長しても、いずれの方向においても互いに交わらない直線である》にかんしては、それとは別の仮定をおくことができ、そこから非ユークリッド幾何学が生まれるわけである。仮定であるから事実でなくてもよい。ある仮定から出発してどれほどのことがトートロジーとして展開できるかだけが問われる。
 一方、「エチカ」の《定義1.自己原因とは、その本質が存在をふくむもの、言いかえれば、その本性が存在するとしか考えられないもののことである》《定義2.同じ本性をもつ他のものによって限定されるものは、自己の類において有限であるいわれる》等々も、スピノザが議論の出発点においた仮定である。しかしながら、ユークリッドの「原論」の仮定およびそこから導出される定理はわれわれの日常生活での空間認識と齟齬をきたすことがないから、ニュートン空間の認識に関する限りは仮定を事実とあつかって問題がなかったが、それと同じ意味で、スピノザの定義も仮定ではなく事実としてあつかっていいのかということが問題となる。スピノザは、とにかく何かがある、何かが存在するということから出発したと上野氏はいう。定義1はそのことをいっている。そして、定義2.はそれには部分がある、である。これは事物の側に属することだから誰がいってもいい。ここまでならその通りであろう。スピノザという個が表にでる必要はない。
 スピノザの特異な点は、倫理の問題までも、人間の問題としてではなく、事物の問題として扱おうとする点にあると上野氏はいう。
 スピノザが問題としてのは《真理》ということであったと上野氏はいう。氏によれば、われわれにはいくつかの真理を真理として知りうる能力が備わっているとスピノザはした。真理をどのようにして知るかという方法を知る前から、われわれはいくつかのことを真理であると知りうる。ある言明が事実と一致するならば真であるという「真理の対応説」をスピノザも採用する。しかしそれは真理の一面、真理の外的な標識であって、われわれは真理が真理であることを内的にも認識しうる(内的標識)としたのがスピノザの特異な点であった。四角い円は考え得ない。2+3は5になる以外考えられない。それとしか考えられないものは真理なのであり、あることを真理であると考えるのではなく、端的に真理なのである。これは全能の欺き手を想定するデカルトの方法的懐疑論への批判であるのだという。明晰判明な観念は真である。それは心理状態ではなく、事柄の必然性によるのだから。真理の問題をそれを真であるとする人間の側におくのではなく、事実の側におくのである。この辺、「客観的知識」を強調するポパーとどこか通じるものがあるように思った。
 この真理に関する議論は単称命題の真偽にかんする議論と、全称命題の真偽にかんする議論がごっちゃになっているように思える。ある言明が事実と一致するなら真であるというのは単称命題にかんする論であり、2+3=5は全称命題に関する論である。真理が問題とされるのは全称命題においてである。ニュートン万有引力の法則が真理であるか否かといったことであって、わたくしが今年の4月1日に東京にいたかどうかが真かどうかというようなことではない。ニュートンの法則を明晰判明な観念からのみ導くことはできない。遠く離れた二つの物体が相互に引き合うなどということは、明晰判明な観念に反する。であるから、スピノザは科学の分野で問題となる真理概念について述べているのではない。懐疑論に対抗するものとしての真理なのである。懐疑論は生を汚染するものであるから、それを打破しなくてはならない。これは後述するニーチェとのかかわりと関連する。
 上野氏の論を続けて追っていく。スピノザによれば、世界そのものが真でできており、われわれはその世界の一部であるから、われわれは世界の真理のある部分、一部分を知ることができる。《定理一 その本性からみれば、実体は変様に先立っている》として出発した実体が、やがて《神あるいは自然》ということになっていく。《神》ではなく、《神あるいは自然》なのであるから、それはほとんど《ある、何かが存在する》ということと同義である。そうであるなら、ここから神を除いてはいけないのかということがすぐに思い浮かぶ。事実、スピノザは同時代人から無神論者といわれた。いずれにしてもスピノザの神はわれわれが神ということばすぐに思い浮かべるような人格神・造物神ではまったくない。スピノザの説はよく汎神論であるといわれるが、日本の八百万の神のようにあらゆるものに対応するたくさんの神があるのではなく、自然の総体、あるもののすべてが神であり・・・、ということであれば、神は実は必要とされないのであり、ということろまでいくのは時間の問題である。
 神はあるがままの自然すべてである。世界はただいまあるようにある。それ以外にはありえない。とすれば自由意思などというものもありえない。そこから運命を甘受するというスピノザの強さの倫理がでてくるという。そしてこの点において、ニーチェにつながるという。スピノザは良心の疚しさを感じる以前の無邪気な状態に人間を戻すのである。

 以上が上野氏の著書の概略であるが、わたくしがまっさきに感じたのが、スピノザが依拠した実体という概念がわれわれにはまったく現実感をともなわない言葉になっている、ということであった。《「実体」とは、それ自身の内にありかつそれ自身によって考えられるもの、言い換えればその概念を形成するのに他のものの概念を必要としないもの、と解する》という言葉も、なんだか数学の集合論の教科書でもみているようであって、そんなものを考える必要性がまったく感じ取れない。上野氏がいうように、実体という言葉は当時の学者が普通につかっていた概念であるのかもしれないが、たとえばリンゴが実体なのであるといわれても、なんでリンゴというものがあるときにその実体などというものを考えなければいけないのかがわからない。なんだか単なる言葉の遊びのように思えてしまう。リンゴというものの背後に実体を想定してしまうという発想そのものが、裏から神を呼び寄せてしまうのであり、実体などと言ってしまったら、神は出現せずにはいないのである。その当時の学者が普通に実体という言葉を使っていたのだとしたら、それら学者の思考の共通の背景として、神あるいはそれに無限に近い何か、たとえば《真》であるとかいったものが想定されていたということなのではないかと思う。スピノザの哲学はすべて実体という概念の上に成立しているわけであるから、その実体という言葉に現実感を感じられないわれわれにとって、スピノザの哲学体系は取り付く島がない。それにもかかわらず、それがわれわれに関係してくるところがあるとすれば、ニーチェに通じる《強さの倫理》の部分なのであろう。
 本書を読んだあと、昔、買ってきて抛ったままとなっていたドゥールーズ「スピノザ 実践の哲学」(平凡社1994年)に目を通してみた。あの「アンチ・オイディプス」や「千のプラトー」の著者のものとは思えない簡明な文章で、簡潔に書かれた本であることに一驚した。このドゥールーズの本においても、スピノザは積極的で肯定的な生のイメージを掲げる人であり、生を憎悪する人間や生を恥じている人間、あるいは死の礼賛をはびこらせている自己破壊的な人間を告発し、それら萎縮した生を生きるものを利用して権力を維持している圧制者・聖職者・裁判官・軍人を批判し、権力者がつくった法・掟・権威に抗議する人として描かれている。疚しさや罪責感というものは人類の敵なのである。スピノザもまた、罪という意識は生を毒するものであるとした。それは当然ニーチェに通じる主張である。
 スピノザの論によれば世界はただあるがままであるのだから、現状肯定の論に繋がってしまうところがあるように思われる。それにもかかわらずニーチェのあるいはドゥールーズの(あるいは上野氏の?)見方のような激しい批判者としての面もでてくるわけである。ドゥールーズの「スピノザ」に、スピノザが「神学・政治論」を書いたのは、「なぜ民衆はこんなにも頑迷で理を悟ることができないのだろう、なぜ彼ら自身の隷属を誇りとするのだろう、なぜひとびとは隷属こそが自由であるかのように自身の隷属を「もとめて」闘うのだろう、なぜ自由をたんに勝ち取るだけでなく、それを担うことがこれほどむずかしいのだろう、なぜ宗教は愛と喜びをよりどころとしながら、戦争や不寛容、悪意、憎しみ、悲しみ、悔恨の念をあおりたてるのだろう」ということへの疑問からであったとしている。
 スピノザの神は、われわれがキリスト教の神と考える神とはまったくことなるものではあっても、それでもやはり八百万の神ではない。ユダヤキリスト教の神に連なる神である。だからスピノザのした神の存在証明はわれわれにとっては最早どうでもいいものである。そういうものはもうわれわれとかかわりをもたない。そして、スピノザの説から神が消えていけば、ニーチェになってしまうのかもしれない。事実、スピノザの同時代人はスピノザの説にニーチェのようなアンチ・クリストを見たのかもしれない。
 ドゥールーズ・ガタリの「アンチ・オイディプス」や「千のプラトー」は一時は大いに話題となった。わたくしも、読まないと時代に遅れるような気がして買ってはきたが、結局、予想通りほとんど読まないままとなっていた。これもやはり積極的で肯定的な生ということとかかわる本なのであろうか? ドゥールーズ「スピノザ」の訳者解説によれば、「千のプラトー」はもっともスピノザ的な本なのだそうである。しかし、あの二段組600ページのわけのわからない本を読み通したひとがいったいどれくらいいるのだろうか? ちらちらとでも、また読み返してみたほうがいいのだろうか?
 スピノザを読むにはニーチェという補助線を引けばいい、ということが本書を読んでわかった。ニーチェならまだ現役の思想家である。とすればスピノザもまた現代世界の現役の思想家でありうるということなのであろう。


(2006年4月16日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)

スピノザの世界―神あるいは自然 (講談社現代新書)

スピノザの世界―神あるいは自然 (講談社現代新書)